正岡子規の詩で「神鳴のわづかに鳴れば唐辛子の  臍とられじと葉隠れて居り」という詩のみなさんの解釈を聞かせてください多くの人の意見を聞きたいのでよろしくお願いします。  

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回答(3件)

id:watal No.1

watal回答回数130ベストアンサー獲得回数02003/02/13 19:41:21

ポイント20pt

下のほうの「雷」見聞記をご覧下さい。

雷様にヘソを狙われないように隠れてる…ということでしょうか。

これをみると「唐辛子」ではなくて「唐茄子」のような気もします(57577リズムでも)。

子供のメタファーであれば、カボチャのほうがしっくりきますね。

雷さまがヘソを取る理由。

お腹を出したまま寝冷えしないように、という優しさなのですね。

唐茄子。これなら、1番目にあげたリンクのように、地面に葉を這わせて隠れてる、って様子がよくわかります。

id:aoki No.2

aoki回答回数87ベストアンサー獲得回数92003/02/14 02:23:59

ポイント20pt

リンク先:かぼちゃのへそ(適当なのがなかったんです。。)

インターネット上では、正しいかどうが確認できなかったのですが、

「神鳴のわづかに鳴れば唐茄子の臍とられじと葉隠れて居り」

これが正しいとして考えます。

雷様=へそを取られる、という発想から、行動の主体は、大人ではなく子供です。

すると、どんなに拡大解釈しても、次の3つの解釈しかできません。

1、子供が隠したのは自分のへそ。

2、子供が隠したのは南瓜のへそ。

3、子供=南瓜

1の方だと、大きな南瓜の横にうずくまって、葉っぱで自分の

お腹を隠していそうです。

2の方だと、自分のおへそを心配しつつも、かぼちゃのおへそを

葉っぱで隠している姿が想像できます。

ただ、文章や情景からして、3つめの解釈、南瓜=子供が、

1人目の方も指摘されているとおり、一番しっくりくると思います。

つまり、雷が鳴る中、葉でヘソを隠している南瓜を、じっへそを隠して

丸まっている子供に見立てたのだと思います。

南瓜も震える子供達だと思うと、どことなく微笑ましい光景ですね。

id:myucline No.3

myucline回答回数421ベストアンサー獲得回数02003/02/15 02:02:57

ポイント20pt

あんまりいい写真が見つからなかったんですが、ここで見ていただきたいのは東京カボチャの写真です。

果梗部が太いですよね。このかぼちゃはそうでもないんですが、成長段階によっては実に近い部分がもっとまるまると太くなるんです。これがかぼちゃのヘソです。正式名称かどうか知りませんがこの用法はネット上でも散見されます。

(プライバシーを考慮し写真への直リンクとしました。)

で、かぼちゃのへそは小さいお子さんのデベソに似た形をしているんじゃないかと言いたいわけです。

それで私の解釈は

遠くで雷のなる初夏の畑、大きな葉の下に在るかぼちゃたちは、

まるで雷様からじっとおへそを守る子どもたちのようだ。

てな感じです。お粗末さまでした。

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