江戸(幕末)
3.幕府は1854年に神奈川条約を締結し、下田・箱館を開港した。また、同様の条約をイギリス、フランス、ロシアとも締結した。
4.安政の五カ国条約によって、下田・神奈川・長崎・新潟・下関で1859年から自由貿易が開始され、国内経済は深刻な影響を受けた。
下田/開港の歴史
【ペリーは、次の年1854年(安政元年)、ふたたび艦隊をひきいて、神奈川県(横浜)の海に、いかりをおろし、約束の返事をせまりました。幕府は、ついに、鎖国をやめて、「日米和親条約」という条約を結び、この下田港と、北海道の函館港の2つを開港場とし、外国船の出入りをゆるしました。】
【日米和親条約は、貿易(商品の売り買い)をみとめなかったので、開港場といっても、ただ外国船に出入りをゆるして、航海に必要な、まきや炭、その他、水や食料などの買い入れを許しただけでした。しかし、航海に必要な者のほかに、みやげ物なども売られていたようです。】
【下田が開港場として、さかえたのは短く、1859年(安政6年)日米通商条約が結ばれて、横浜が貿易港として、開港されるまでの、わずか5年間でした。江戸に遠く、けわしい天城山をひかえて、貿易港としては不便だったためでしょう。】
開港の歴史
【ペリーは、次の年1854年(安政元年)、ふたたび艦隊をひきいて、神奈川(横浜)の海に、いかりをおろし、約束の返事をせまりました。
幕府は、ついに、鎖国をやめて、「日米和親条約」という条約を結び、この下田港と、北海道の函館港のふたつを開港場とし、外国船の出入りをゆるしました。】
【日米和親条約は、貿易(商品の売り買い)をみとめなかったので、開港場といっても ただ、外国船に出入りをゆるして、航海に必要な、まきや炭、その他、水や食料などの買い人れをゆるしただけでした。
しかし、航海に必要な物のほかに、みやげ物なども売られていたようです。
ペリーの書いた本に、「江戸、その他から、美しい品物が、いっぱいもちこまれた。」とあるのは、その事実をものがたっています。このように、下田が開港場としてさかえたのは短かく1859年(安政6年)日米通商条約が結ばれて、横浜が貿易港として開港されるまでの、わずか5年間でした。】
http://www.natsuzora.com/may/town/kaiko-shiryokan.html
横浜線沿線 街角散歩 - 横浜開港資料館
横浜線沿線 街角散歩 - 横浜開港資料館
【日米和親条約によって日本が開国したとは言え、この条約は貿易を承諾したものではなかった。日米間の貿易開始の交渉の任を負っていたハリスだったが、ようやく将軍家定への拝謁が許されたのは翌1857年(安政4年)のことだった。ハリスは合衆国大統領の親書を手渡し、貿易交渉に入るが、この交渉は度々の延期を重ね、遅々として進まなかった。】
以上、1854年は、通商条約が結ばれていませんでしたので、日米貿易は建前上、なかったことになります。ただ、別個に交渉していた沖縄との貿易、ヤミ貿易に関して知ることは困難だと思います。
とりあえず日米間貿易のみ。
開国前の日米間貿易は分かりました。有難うございました。できれば開国後の日米間、開国前後の米中間もお願いします。