http://www.shohin-data.co.jp/menu/jiten2000.htm
商品データ 何でも事典2000
商品データ 何でも事典2000
弁当は秀吉が作った
【●ランチタイムで助かるのが持ち帰り弁当屋の存在だ。限られた小遣いで、温かい弁当を食べることができるのは魅力で、現代にマッチしている。それでは、弁当が普及したのはいつだろうか。実は豊臣秀吉が権力を握っていた桃山時代に、携帯食として作られたという。弁当の語源に、旅をする人数に当てて食事を弁じる、というものもあり、人数分の食料を用意したのが始まりという。秀吉は慶長3年(1598年)に京都醍醐寺で豪華な花見の宴を催したが、その時には金箔を散りばめた弁当箱に懐石料理を詰めて出したとか。】
枯葉のたわ言
【サラリーマンやOLに人気の弁当は、いつ頃からつくられたか?というと、豊臣秀吉が政権を握っていた桃山時代と言われている。旅の携帯食としてつくられ、旅をする人数に当てて食事を弁ずる、ということで人数分の食料を用意したのが始まりで、慶長三年(1598)に、秀吉は京都醍醐寺の三宝院で、豪華な花見の宴を催したが、そのときすでに弁当が出された記録がある。】
http://allabout.co.jp/gourmet/stylishrecipe/closeup/CU20010404A/
ねねのお気に入りお花見寿し - [スタイリッシュレシピ]All About
ねねのお気に入りお花見寿し[スタイリッシュレシピ]All About Japan
【そんな立派なお花見弁当にも憧れますが、今日ご紹介するのは、400年以上も前のお花見弁当のお話です。時は太閤秀吉の時代。豊臣秀吉公のさくら好きは有名で、贅をつくしたお花見を開いていたことが記録に残っています。その中でも最も有名なのが、京都市の南東に位置する醍醐寺でのお花見です。
慶長3年(1598年)の3月、太閤秀吉が秀頼、北政所(ねね)、淀殿、それに大名の長束正政家など約1300名を従えて催した「醍醐の花見」はあまりにも有名で、秀吉は1ヶ月も前から花見の準備を命じていたそうです。善美を尽くした花見のあと、5ヶ月後の8月に秀吉は亡くなっています。このお花見の時に用意されたお弁当の中に、北政所(ねね)が大層気に入られたお寿司がありました。】
http://mukafish.hp.infoseek.co.jp/log-gogen2.htm
物の名前の由来や語源に関する掲示板のログ2
上記URLにこのような記述がありました。
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広辞苑に次のような解説がありました。
「メンツウ(面樋)の転とも便利なもの(便当)の意ともいう」
更に面樋を引いてみると「1人前ずつ飯を盛って配る曲物(まげもの)」とありました。
また、「曲物=綰物(わげもの)」とあり「檜・杉などの薄く削り取った材を円形に曲げ、合せ目を樺・桜の皮などで綴じて作った容器。檜物(ひもの)」とのことでした。
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