<日本史>中世の為替は具体的にどういった使われ方をしていたのでしょうか?「遠隔地間の金銭の輸送または貸借を手形で決済する制度」というのを,誰がどのようにして手形を発行していたか,商人はどのようにしそれを入手していたのか,金銭との引換えはどのようにしていたか・・・などなど,最終的にどのような決済システムになっていたのかが分かるサイトOR文献が知りたいです。現代のトラベラーズチェックのようにはゆかないだろうし,どうやってたのでしょう?

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opponent回答回数1876ベストアンサー獲得回数72003/08/13 00:14:21

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手形制度とその歴史

【手形とは、一定金額の支払いを約束または委託する有価証券です。 古くは証書、証文などに固い約束を示すために、手に墨をつけて手の形を押して相手に渡したといわれます。】

【今のような手形制度は、中世に地中海沿岸の都市で発達した両替商が発行した手形に始まるとされていますが、わが国でも鎌倉時代には既に、割符と呼ばれる為替手形の一種が使われていました。】

【為替の利用…遠隔地間の金銭の輸送または貸借を手形で決済する制度。13

 世紀頃から行なわれている。手形を割符という。為替は替銭

 ともいい、替銭屋が取扱った。米の場合は替米。

 広まった理由は、大金をわざわざ遠くまで持っていくと山賊に奪われ

 る可能性がある。また、お米の場合は持っていくと重たい(個人的観

 念かもしれない)という理由がある。】

 以上は簡単な説明ですが……、

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【わが国における為替取引としては、永承3年(1048)の東大寺文書にみられる“替米”が最も古いとされています。替米と呼ばれる米に関連した取引が為替と認められるのは、当時は米という物品貨幣が一般的な交換手段として広く用いられたためでした。

中世において為替取引が発展したのは、寺社などの荘園領主が年貢物の輸送に伴う不便と危険を回避しようとしたことが背景となっています。寺社の荘園は都から遠く離れた遠隔地に位置しており、そうした場所から年貢物を運搬するにはかなりの手数や費用を要するだけでなく、盗難に遭うおそれも高かったのです。

また、諸司・諸家が発給した切下文(きりくだしぶみ)・返抄(へんしょう)、あるいは諸国により発給された国下文(くにくだしぶみ)・国符(こくふ)といった個人への支払・給付手段は、小切手や為替手形の機能を果たしていました。

諸司・諸家等の必要とする物品を立て替えた人は、代金として切下文などを受け取り、それを都近くの受領の管理する倉に提示すれば、文書に記載されただけの物品の支払・給付を受けられたのです。

この切下文、国下文などが、現在われわれが利用している小切手・手形の淵源ではないかとされています。】

【為替・手形類似の文書を用いた物資の移動は、11世紀には源頼親のような武将や下級官吏、僧侶などが行っていましたが、12世紀になると、各地からの律令税の徴収や年貢米の都への輸送に不可欠な商業・輸送ルートを掌握していた神人(じにん)・供御人(くごにん)が請け負うようになりました。

彼らは、公家や社寺に奉仕者として仕えることが認められた“特権的武士”として、天皇や神仏の権威により日本中を自由かつ安全に行き来することができたのです。

12世紀後半以降、渡来銭が貨幣として利用されるようになるなかでも、13世紀後半には銭貨を対価とした為替(割符=さいふ)が登場しています。

鎌倉時代も末期に入ると、各地で買い入れた産物を他国に売りさばく遠隔地商人が広く活動するようになりました。彼らが都での販売を目的として特産物を地方で仕入れるに際しては、都から代金としての米銭を送金しなければならなかったのです。】

【この米銭輸送に伴う不便と危険負担を減殺させるため、遠隔地商人と荘園領主との対称的な資金送金ニーズを引き合わせるかたちで、割符・替銭という為替取引が発達したのです。

しかし、当然のこととして(?)割符などについては債務不履行も少なからずみられました。これに対して、支払人が住む国や郷の人々が連帯保証する国質(くにじち)や郷質(ごうじち)、特定の商業都市において出会った第三者からの債権取り立てを認める所質(ところじち)などの債権保全策が講じられていたのだそうです。】

http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/feature_11.htm

日本銀行金融研究所貨幣博物館:貨幣の散歩道

FEATURE_11

【わが国における為替取引としては、これまでのところ、永承3年(1048)の東大寺文書にみられる「替米(かえまい)」が最も古いとされている。替米と呼ばれる米に関連した取引が為替と認められるのは、当時は米という物品貨幣が一般的な交換手段として広く用いられたためである。中世において為替取引が発展したのは、寺社などの荘園領主が年貢物の輸送に伴う不便と危険を回避しようとしたことを背景とする。寺社の荘園は京都や奈良から遠く離れた遠隔地に位置しており、そうした場所から京都などに年貢物を運搬するにはかなりの手数や費用を要するだけでなく、盗難に遭うおそれも高かったのである。

 一方、諸司・諸家が発給した切下文(きりくだしぶみ)・返抄(へんしょう)、あるいは諸国により発給された国下文(くにくだしぶみ)・国符(こくふ)といった個人への支払・給付手段は、小切手・為替手形の機能を果たしていた。諸司・諸家等の必要とする物品を立て替えた人は、代金として切下文などを受け取り、それを京都近郊の受領の管理する倉に提示すれば、文書に記載されただけの物品の支払・給付を受けられたのである。この切下文、国下文などが、現在われわれが利用している小切手・手形の淵源であり、「切る」という言葉には、神仏から物を切り離すという意味が秘められているのではないかとされる。

 為替・手形類似の文書を用いた物資の移動は、11世紀には源頼親のような武将や下級官吏、僧侶などが行っていたが、12世紀になると、各地からの律令税の徴収や年貢米の都への輸送に不可欠な商業・輸送ルートを掌握していた神人(じにん)・供御人(くごにん)が請け負うようになった。彼らは、公家や社寺に奉仕者として仕えることが認められた特権的武士であり、天皇や神仏の権威により日本中を自由かつ安全に行き来することができた。】

【12世紀後半以降、渡来銭が貨幣として利用されるようになるなかで、13世紀後半には銭貨を対価とした為替(割符=さいふ)が登場した。鎌倉時代も末期に入ると、各地で買い入れた産物を他国に売りさばく遠隔地商人が広く活動するようになった。彼らが都での販売を目的として特産物を地方で仕入れるに際しては、都から代金としての米銭を送金しなければならなかった。この米銭輸送に伴う不便と危険負担を減殺させるため、遠隔地商人と荘園領主との対称的な資金送金ニーズを引き合わせるかたちで、割符・替銭という為替取引が発達した。

 当然のこととして、割符などについては債務不履行も少なからずみられた。これに対しては、支払人が住む国や郷の人々が連帯保証する国質(くにじち)や郷質(ごうじち)、特定の商業都市において出会った第三者からの債権取り立てを認める所質(ところじち)などの債権保全策が講じられていた。このうち所質については、円滑な商業取引を妨げる「不当な行為」であるとしてまもなく幕府により禁止された。】

 日本の場合には、貨幣(金銭)よりも米(といういわば物品貨幣)が貨幣の代わりに流通していたわけです。公権力(つまり武士による幕府などですね)による貨幣経済が確固として存在していなかったからでもあるでしょう。

 従って本来は貨幣(金銭)の代わりということではなく、米の代わり(つまり「替米」)として出発したと考えられます。当初は年貢米の輸送に代えて存在したようです。

 もちろん当初は債務不履行が横行しますから、連帯保証(国質、郷質、所質)など、債権を保全する対策が発達したようです。

http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/feature_31.htm

日本銀行金融研究所貨幣博物館:貨幣の散歩道

FEATURE_31

【中世の日本においても、かつて説明したように、割符(さいふ)といった手形類が信用取引手段として利用されていた。この中世の手形類と山田羽書とは一体、どういった点で異なるのだろうか。中世の手形類の場合、年貢の納入など特定の当事者間での特定目的の遂行のために利用されたことから、半紙に貨幣価値の受け渡しを記載した一般文書の域にとどまり、それが貨幣価値の移転手段であることはその文言を読んで初めて認識された。これに対し、山田羽書といった初期私札の場合、そもそも不特定多数の人々による交換手段としての利用を想定のうえ設計されたという導入の経緯もあって、一見しただけで貨幣であるという認識がえられるよう工夫されていた。】

 ところで、話が本題からずれますが、山田羽書という私的紙幣が生まれます。

エッセイ2-1

【わが国における最初の紙幣は、イギリスよりは若干早く、1600年頃に伊勢山田地方で発行された山田羽書にさかのぼる。山田羽書は伊勢神宮の神官であった山田御師(御師は「御祈祷師」の略称。祈願者の代理として祈祷奉賽を行う神職で、商人も兼ねた)によって発行されたもので、銀貨と引き換える旨の文言が記されている。】

 ここでは紙幣となっていますが、ひとつ上の文章には「私札」とありますし、また、個人が発行した、銀貨と兌換する私的紙幣ともいえるものです。1600年頃といえば、家康が征夷大将軍として幕府を開く(1603年)以前、近世のきわめて初期の頃でした(註*1)。

 さて、このような私的紙幣を流通させるための秩序とはどのようなものであったのでしょうか。

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【宝永4年(1707年)、幕府は正貨流通促進を目的に藩札の使用を一時禁止しましたが、山田羽書だけは特別に許可され、幕府は直轄領では正貨(金貨、銀貨、銭貨)以外の使用を禁じていたが、神領としてその保護下にあった伊勢山田地方だけでは、山田羽書が江戸期を通じて公認されていました。

この紙幣の信用を支えた大きな要因は、整備された発行制度(発行主体や発行責任の明確化、発行限度額の設定、相応な発行準備など)にあったと考えらています。

18世紀前半になると、7年ごとに羽書の改札(新旧札の交換)も行われるようになり、これが発行高管理をさらに厳格にしただけでなく、羽書の認証性を高め偽造防止にも効果を発揮したと考えられています。

その後、山田羽書は明治維新後も引き続き発行されましたが、新政府による明治4年(1871年)の藩札処分に合わせてその歴史を閉じました。】

 なんと、明治4年まで生き残っていたといいますから驚きです。さて、本題の手形です(時代は中世に戻ります)が――、

網野善彦.貨幣と資本(1/2)

四 信用経済の発達

【このように、銭貨にはさまざまな機能が付与されていたが、一三世紀後半以降の社会における流通の実態を考えるさい、とくに注意しておかなくてはならないのは、平安後期にその源流のある「替米」(前述)、その発展としての「替銭」「割符(さいふ)」といわれた為替・手形の活発な流通であり、遠隔地間の取引、貨幣の輸送に当たっては、重量のある現米・現銭ではなく、こうした手形がもっぱら流通していたのである。】

【替米・替銭については、敗戦前の中田薫〔一九四三〕、豊田武〔一九三七〕の詳密な研究のあと、ほとんど進展がなかったが、さきの大石・佐藤泰弘の研究を媒介としつつ、近年、保立道久によって新たに広い視野がひらかれた〔一九九三〕。現在のところ、最も早い替銭の史料が田中稔の紹介した一二五四年(建長六)(あるいはその翌年)の文書であること〔田中−一九五七〕を確認したうえで、保立は一二六三年(弘長三)九月一○日の関東御教書(『中世法制史料集』鎌倉幕府法、追加法四一九条)によって停止された「切銭」を替銭・為替と推定し、すでにこのころ関東においても為替が一般化していること、「山王絵詞(えことば)」に「鎌倉の小町(こまち)と云所に廻旋する入道あり」とあるのは鎌倉の為替屋であること、などを指摘した。】

【保立は、このような為替・手形の列島社会の全域に及ぶ活発な流通の背景には、「すでに鎌倉時代には需要と供給のバランスによって地方市庭での和市(わし)〔相場〕が広域的・季節的に上下するような価格変動のシステムが形成されて」いたことを無視してはならないと強調しているが、これは従来よりもはるかに早くから、本格的な貨幣流通・信用経済の発展を考えようとする見解で、まさしくそのとおりと私も考える。】

【代官尊◆は来納(らいのう)分として三月、五月、七月の月充銭各一○貫文を寺家に送っているが、これが割符で送られたことは、年未詳(建武元年ヵ)六月二五日の地頭方預所(あずかりしょ)明了(めいりょう)注進状(「東寺百合文書」ル函二一一号)に「五月分月充さいふの事」とある点から間違いない事実で、これはそうした市庭に出入りする商人との取引を通じて入手した割符だったと思われる。この月充銭は一○月に決算されているので、それぞれ月利一○○文別六文−六文子(もんし)の利分、それに貫別五○文の夫賃(ぶちん)を加え、その明細を結解状(同上、ル函二四−(三))として副進し、総額の四二貫三○○文を尊◆は支出の部の冒頭にあげている。】

【そしてそれはまた、さきの神人・山僧などの広域的組織をよりいっそう緊密に発展させ、手形の流通を保障する実力を持った、武装した商人・金融業者・廻船人、海・湖・山などの交通路の「領主」たちのネットワーク−縄張りの本格的な形成を推測させる。実際、一三世紀後半から一四世紀前半にかけて、鎌倉幕府が執拗にきびしい禁圧を加えた「悪党・海賊」、博奕(ばくち)を好み、賄賂を取って訴訟を請け負い、実力で解決する武装集団の動きは、まさしく公権力から自立したこうした人々の動きそのものであった〔網野−一九九四b〕。】

【貨幣流通・信用経済の発達は、一四世紀には早くもこうした力量を持つ人を広く社会の中に育てていたのであり、それは百姓の上層まで確実に及んでいたが、さきの尊◆のような僧侶、とくに上人(しょうにん)とよばれる遁世した黒衣の僧侶、山臥などの活動がこの方面では顕著に見られたのである。】

 以上のように、十四世紀には早くも「武装した商人・金融業者・廻船人、海・湖・山などの交通路の『領主』たちのネットワーク―縄張り」、つまり武装した私的ネットワークの形成によって、債権確保を図っていた事実があるようです。

 つまり、中世は武士による中央政権国家がなかった時代ですから、「商人・金融業者・廻船人、海・湖・山などの交通路の『領主』」たちによる、武装した私的ネットワークが武士の権力機構とは別に存在していたと推認できそうです。

 このネットワークの保護下にあった、いわゆる両替商(あるいは替銭屋ないし為替屋)が手形(替銭・割符・切銭など)を発行し、商人はそれを利用して決済。米または金銭に引き換えたりする保証は、ネットワークの武力によって守られていたと言えそうです。債権確保のための連帯保証を反故にすれば、武装した私的ネットワークの制裁があったのではないでしょうか。

 もちろん、武士階級の公権力側も商人を通じ経済活動を行ないますから、官許であったかどうかまではわかりませんが、ネットワークの経済活動を黙認するばかりか、自らもそのネットワークによって手形を送ったりすることもあったのではないか、と推認できます。織田・豊臣・徳川の時代は、同時に商人(鉄砲商人!)による強力な信用経済がなければ成り立たなかったとも考えられますから……。

 もののけ姫の舞台となるタタラ場(製鉄プラント)も、やはり手形の決済を利用したのではないでしょうか(註*2)。註に挙げた文を読むと、塩作(製塩)、牧童(畜産)、馬借(運送)、木こり、木匠、細工、鎧師、炭焼、轆轤師(木地屋)、鵜飼などが「座」と呼ばれる大規模な職人集団をつくりあげ、各地にマーケットを広げていた。室町時代には非常に巨大な商圏ができていました。

 ただ、同じ中世でも、鎌倉・室町・安土桃山などそれぞれの時代によって公権力の力量が違いますので、ネットワークの分権程度も違っていたと思われますが、おおむね以上のような事情だったと思われます。

 それにしても、山田羽書などという私的紙幣が明治時代まで生き残っていたとは、検索していて驚かされました。このご質問、大変堪能させていただきました。

(註*1)

中世の終わり、近世の始まり

(註*2)

http://ghibli-fc.net/rabo/monoke_yo/yomitoku13.html

「もののけ姫」を読み解く

「もののけ姫」を読み解く: 3,室町時代の民衆像

id:inokuni No.2

いのくに回答回数1343ベストアンサー獲得回数212003/08/12 01:27:11

id:tomoinose

2番目のところばっちりです!侮れませんね,割符屋ネットワークも。『新詳日本史図説』(浜島書店)か・・・。

2003/08/12 01:52:13
id:JEM7 No.3

JEM7回答回数148ベストアンサー獲得回数02003/08/12 21:37:09

id:tomoinose

すごく分かりやすいです。ありがとうございます!

2003/08/13 10:24:21

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