聖書には偶像を崇めるなと明確に書いてあるのにカソリック教会には何故キリストや、ましてマリアの像が有るのでしょうか。誓ってはいけないと書いてあるのに誓いを立てるのは何故でしょう?教義として矛盾しない理由を教えて下さい。

回答の条件
  • URL必須
  • 1人2回まで
  • 登録:2003/10/10 02:04:18
  • 終了:--

回答(10件)

id:lunaticdays No.1

lunaticdays回答回数1ベストアンサー獲得回数02003/10/10 02:38:39

ポイント7pt

神の像も、キリスト像も、マリヤ像、聖人像もいかなる像も作ってはいけないと、プロテスタントは言葉通りに解釈していますが、カトリックは、信仰の助けになる像(しるし)は認めています。

↑こんな一文を見つけましたが、ご参考になるでしょうか?

id:JEM7

残念ですがなりません。何故カソリックが聖書に反する物を良しとしておるかが知りたいのです。

2003/10/10 08:58:29
id:masaomix No.2

masaomix回答回数1023ベストアンサー獲得回数12003/10/10 03:48:43

ポイント13pt

http://www.tomoshibi.or.jp/tushin/yori/yori31.html

心のともしび-カトリック要理の友:第31課 第1、2、3戒

ご指摘のようなことはカトリックでも異端として強く禁じています。正統なカトリック信徒にとって、マリア像はプロテスタント教会にもどこにでもある十字架と同じようなもので、単に祈りの場の「マーク」に過ぎません。マリア像に対して手を合わせたりするのも、回教徒がメッカに向かって礼拝するのと同じことで、ただの祈りの姿勢の向きを決めている存在にすぎないわけです。

マリア像が涙を流すなどの事象をローマ教会が奇跡と認定した事例はありますが、それは涙を流したマリア像を奇跡と認定したのではなく、その場で起きた病者の癒しなどについて、これを奇跡と認定したものです。

・・・とカトリックは言いますが、プロテスタントでは、ご指摘のようなことは全て教義に反する異端的なものと考えています。

ポーロ・B・スミス『異端について』松代恵美訳/いのちのことば社・1971 ※Paul B. Smith, Other Gospels。

ここには、ローマカトリックのそうした行為を厳しく批判する項目が設けられています。著者は福音派教会の牧師です。

id:JEM7

有り難う御座います

2003/10/10 10:12:09
id:taknt No.3

きゃづみぃ回答回数13539ベストアンサー獲得回数11982003/10/10 06:21:17

ポイント13pt

偶像崇拝とは、例えば、旧約聖書に書かれている金の牛のようなものを崇拝することでしょう。

キリストは、偶像ではありませんし、ま、マリアは どうかという疑問はありますが、クリスチャンにとっては、キリストの聖母ということで敬う対象であると言えるでしょう。

私としては、キリストをほったらかしにしていたマリアは、敬う対象にならないのではないのかと思います。

id:JEM7

キリストを像にした時点でそれは偶像だと思いますが...。

2003/10/10 10:13:44
id:finalvent No.4

finalvent回答回数321ベストアンサー獲得回数12003/10/10 08:57:21

ポイント13pt

資料は東方教会となっていますが、この時点ではまだ教会は分裂していないので、教義的にはこの第二ニケアの決定がカトリックで踏襲されているはずです。

id:JEM7

聖画像に対する尊敬によって、その原型になっている対象に至るからである、というのはすごい理屈ですね。(笑)なるほど。

2003/10/10 10:15:11
id:kuramoto No.5

kuramoto回答回数273ベストアンサー獲得回数52003/10/10 09:01:06

http://www.hatena.ne.jp/dammy

dammyさんのプロフィール - はてな

マリアの像は、教義では決して偶像ではなく、あなたが誓いだと思っているのは、誓いではないからです。

宗教は、ある意味、矛盾のかたまりです。

宗教が理路整然としていて、客観的に、誰もが納得のできるものなら、世の中に宗教を発端とする戦争なんてありえないでしょう。

id:JEM7

ポイントを無駄に使わせないで下さい。

2003/10/10 10:16:13
id:dudepi No.6

dudepi回答回数29ベストアンサー獲得回数02003/10/10 09:20:07

ポイント25pt

http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/index.htm

カトリック中央協議会

カトリックはプロテスタントなどの「聖書中心主義」の宗派と異なり、聖書を基本としつつ、ローマ法王の権威を中心として、土着の聖人信仰など、特にマリア信仰なども取り入たものになっています。聖書では確かに偶像崇拝は禁じられていますが、カトリックでは人的・歴史的な教義の継承を重視しているため、このような矛盾とも言える教義も包括的に取り込んでいるものと思います。ちなみにカトリックとは“すべてに通用する”“普遍的”の意味です。カトリックが偶像崇拝を禁じなかったのは、宗教的なというより政治的闘争によるものという話もあります。偶像崇拝に対するカトリック教徒の理解も一通りではないようです。

http://www.cwjpn.com/

カトリック中央協議会 カトリック新聞 インデックス

id:JEM7

有り難う御座います。

2003/10/10 10:16:44
id:takasiym No.7

takasiym回答回数165ベストアンサー獲得回数02003/10/10 09:28:55

ポイント13pt

その通りです。

旧約聖書・出エジプト記 20:4に「偶像崇拝禁止」事項がありますので、彼らは邪教です。

弾圧してください。

id:JEM7

(笑)

2003/10/10 10:17:28
id:takasiym No.8

takasiym回答回数165ベストアンサー獲得回数02003/10/11 00:27:24

ポイント5pt

回答二回目です。

宗教に対して「何故」という問いかけ自体に無理があると思います。

「神」という存在、特にユダヤ教、イスラム教、キリスト教の「神」自体が非合理的な存在なのです。

時には偶像を禁止したり、時には偶像を認めたり、あるいは時には誓うなと言ったり、時には誓えと言ったりするのです。

人間から見れば不条理としか見えないものも「神」から見れば条理なのです。

「人知を越えた存在」ですので。

で、これ以上は知ったかぶりになるので、上記サイトにある参考文献を読まれる事をお奨めします。

偶像崇拝問題は、宗教がいかなるものか理解しないと、分からない(許容できない)と思います。

ちなみに私はキリスト教信者ではなく日本神道信者です。

宜しくお願いします。

id:JEM7

私が許容するしないという事は今回問題にしていません。神が非合理的な存在であっても、信者及び宗派は自分なりに理論を持っているはずです。私が今回質問したのは、外部から見て明らかに矛盾する(様に見える)事が、内部的にどのように正当化されているか、という事です。

この意味で回答6はある意味で私の質問に答えてくれています。宗教ではなく政治なのだ、ローマ帝国の政策であって、カソリック内部ですら理論付けが出来ない事なのだ、と、私は今現在理解しています。

2003/10/11 02:05:10
id:inokuni No.9

いのくに回答回数1343ベストアンサー獲得回数212003/10/11 02:24:45

ポイント20pt

カトリックが聖人や聖母の像を拝んでいるのは偶像礼拝なのでしょうか。結論から言えばNoです。主なる神を造形化してその像を拝んでいるのならばそれは偶像礼拝でしょう。(旧約聖書出エジプト記の牛の像を作って礼拝したと言う物語の例)しかし聖人も聖母も神ご自身ではありえません。カトリックの人たちは聖人や聖母に祈りを神に取り次いでもらっているに過ぎません。もちろん、ヨーロッパ等で行き過ぎた状況になっている事は否めませんが・・・基本的にはこれも偶像礼拝とは言えません。

それでは十字架にイエス像を組み込んだりロシア正教のイコンはどうでしょうか。これもまたイエス様を想起するための装置ではあっても神そのものというわけでがありません。

私は仏像や、お地蔵さんに手を合わせる行為が偶像礼拝なのではなく、その者を主とするということ。第一とするということが偶像礼拝であると考えます。

そうすればもちろんこの箇所でも言われている通り、偶像とは主を一番とすることなく、私自身を一番とする行為が最大の偶像礼拝だといえるのだと思います。

そうすると、確かに仏壇や地蔵に手を合わせなくとも、自分を主とし、偶像化しているのという毎日の行動を反省させられます。自分を絶対化し、偶像化するということは己を神に近づけようとする行為でもあります。

まさに、バベルの塔で人間が塔を積み上げ、神に近づこう。神になろうとしたのと全く同じです。

やはり私たちは一般に言われる偶像の礼拝ではなく、己自身の偶像を絶対介することをまず自分自身で裁かなければならないと言うこうと考えさられまいした。

カトリックの聖堂と比べて更に根本的な違いは、正教の聖堂には立体的な彫像が全くないこと。キリスト教は元々偶像禁止の宗教だった。旧約聖書には「金や石などで偶像を造ったり、偶像を拝んだりしてはならない」という戒めが度々出てくる。形あるものを拝みたいというのは人情の常で、時代と共にキリストや聖人を象った聖像が現れ、現場で布教にあたる僧はこれを歓迎した。目に見えない神様について難しい講釈をするより、いかにも霊験あらたかという聖像を持ち出す方が布教の効果があった。これに対する教会上層部や神学者の反応は西のカトリックと東の正教では大違いで、西では偶像厳禁はなし崩しに的に骨抜きになり、聖堂内外は聖像であふれている。東では長く論争が続き、彫像はたたき壊され、壁画やモザイクまでこそぎ落とされた時期もある。何らかの形での聖像が必要で最後には妥協が成立し、立体的な彫像は駄目だが、平面的な絵画やモザイクによる聖像ならいいという線で決着した。

id:JEM7

有り難う御座います。私自身は、最初は「取り次ぎ」又は「装置」としての像が、次第に祈りの直接的対象となる危険を避けるために「人の手で作ったものを礼拝するな」というのが聖書の言う偶像礼拝の禁止と理解しています。ですから、よほどしっかりした信仰を持っていないと維持できない礼拝を許可する事は、本来否定されるべきではないかと思いますが、これが容認されているので不思議に思った次第です。最初のリンクはカソリックの内包する矛盾を無理矢理肯定するものに見えます。

キリストの像はアジア人ではなく西洋人として描かれ、西洋によるアジア差別の根幹となっています。これは像の象徴する対象に「取り次ぎ」を願っていたはずが、目の前の像=キリストそのものと錯覚していった結果だと思うのです。

今回は「偶像」に関する回答に終始した感がありますが、誓いについて、或いは「先生と呼ばせてはならない」のに呼ばせている牧師、といったものについても疑問を禁じ得ません。

もう少しご意見拝聴しようかな。

2003/10/11 02:51:19
id:masaomix No.10

masaomix回答回数1023ベストアンサー獲得回数12003/10/11 09:08:29

ポイント25pt

http://www.officecats.net/

動物愛護同人「ねこの事務所」

二度目になります。さすがに主立ったサイトはURLが出尽くしている感があるのでURLはダミーです。私のサイト(^-^;

さて、「誓い」についてですが、カトリックではこれを「願を立てる」というふうに解釈しているようです。つまり禁じられている「誓い」ではない、ということなんですね。十戒では神の名をみだりに呼んではならないとされていますから、要するに「神のみ名において」といった宣誓行為がなければ、発願そのものは差し支えないと考えるわけです。

ここで注目しなければならないのは、修道重視のカトリックのあり方と、福音伝道重視のプロテスタントとの違いです。これはある意味、仏教の密教と顕教の違いに似ています。

プロテスタントは元々カトリックの修道僧だったマルチン・ルターが、額ずきながら膝歩きで回って礼拝するという行を行っている最中にハッと覚醒し、真の信仰はこんな所でズリズリ這いずり回っていることじゃない、民衆の中に入って福音を述べ伝えることだと、その場で立ち上がってスタスタと去って行ったことからスタートしています。そこで、初期ルター派教会はあくまで民衆宗教のあり方を追求し、讃美歌も四部合唱などとせず全て斉唱、難解なラテン語の祈りもやめにして平易なドイツ語で行うなどの礼拝様式を確立していきました。この系譜を引くプロテスタント教派の多くは現在も「福音主義」を採り、礼拝より伝道、祈りも全て伝道のために、といった態度を主流としています。つまり、一人でも多くの人たちがイエスを救い主として受け入れるようになること。これが彼らの祈りの全てと言っても過言ではないわけです。したがって、ここに「神のみ名において」と誓いを立てる必要性はありません。「神の意志」を実行しようとしているわけですから。

これに対して修道が重視されるカトリックでは、自らに目標を立ててそれを追求していくという繰り返しが欠かせないものとなってきます。ここに「願を立てる」必然性が生じ、彼らは頻繁に修道の目標を発願していくようになるわけです。これは専門の修道士でない一般の信徒においても同様です。しかし先にご紹介した「要理の友」でも明確に、神のみ名をもって誓いを立ててはならないということは指摘しています。

なお、カトリックとプロテスタントの教義的部分の根本的な違いは、アポクリファ(外典)を聖典として認めるかどうか、伝承を教義に含めるかどうかという違いに起因しています。アポクリファは旧約時代以降の新約との間を埋める期間に記述されたとされる旧約聖書の続編のようなもので、カトリックはこれを聖典として採用しています。またカトリックは聖書以外の伝承も、ローマ教会が公認したものは教義として取り入れることになっていて、このへんで「聖誰々」の行動とか言葉といったものが大きく教義に響いてくるようになるわけです。ですから、カトリックでは過去の聖者が発願した修道を踏襲することなどはとても意義有る行為となってくるわけで、こうした関係からも「願を立てる」行為が多く行われる傾向が見られるようです。

ちなみに日本では、聖公会という教派が、新教でありながらアポクリファを参考文献的に認めていて、若干カトリック的な要素を持ち合わせています。彼らは福音主義からちょっと離れたところに位置し、カトリックとプロテスタントの橋渡しとなることを望んでいるようです。ですから、カトリック的な行いがキリスト教としての本来的な教義に照らして合理性を持つのかどうか、あるいはどういう論法で折り合いをつけて整合を取っているのかといったことを調べる上では、この聖公会の態度も参考になると思われます。

id:JEM7

とてもわかりやすい解説を有り難う御座います。しかしながらマタイ5-33を素直に読めば、神の名に於いて誓わなければOK、という余地を残しているようには読めません。私はヘブライ語の聖書を読んでいるわけではないので、翻訳の問題があると言う事で有れば話は別ですが。

願掛けという見方は面白いですね。苦肉の策が伺えます。

聖公会の件アドバイス有り難う御座います。

今回の質問はこれで終わりにします。皆さん有り難う御座いました。

2003/10/11 11:52:44
  • id:JEM7
    E.A.Poe(知のくずかご)様へ

    有り難う御座いました。ご評価頂いた質疑はこれでしょうかね?(笑)
    なんだかこそばゆいですが、有り難く頂戴致します。m(_ _)m
  • id:EdgarPoe
    Re:E.A.Poe(知のくずかご)様へ

    >有り難う御座いました。ご評価頂いた質疑はこれでしょうかね?(笑)
    >なんだかこそばゆいですが、有り難く頂戴致します。m(_ _)m
    はい、その通りです。
    なお「おひねりを投げるときはその質問回答を明示すること」という
    貴重な教訓を得て、本稿のオチにしたいと思います。

    それでは。
    http://diary.hatena.ne.jp/EdgarPoe
  • id:masaomix
    私も「おひねり」頂戴しちゃいました

    ども、masaomixです。
    E.A.Poe様から突然ポイントが送付され、
    大変驚き、またうれしく思いました。
    さて、どう御礼を申し上げたらよいかと思っていたのですが、
    こんなふうに掲示板を利用すればよかったわけですね。

    私もE.A.Poe様のご回答をあちこちで読ませていただき、
    質問に接して考えることを楽しみ、
    それに答えをどう付けていくかということを楽しみながら
    自己の知力を養っていくという、
    そんな香りを感じてとても好感を持ちました。

    まだ今月ここにやってきたばかりの新参者です。
    どうかこれからもよろしくお願いします。

    あ、それからJEM7様、私も2件回答を書かせていただきましたが、
    非常に興味深い設問で久々に燃えました。
    宗教が真実なのか架空のものなのかは別問題として、
    原理原則を説き人を教化していこうとする以上、
    教義と行動の一致というのは当然求められてくるわけで、
    その部分の真剣さ、あるいは欺瞞性といったもので
    評価、判断していくことも、とても大切なことだろうと
    私も思っています。
    これからもまた鋭い設問で、ご一緒に考えさせてくださいね。
  • id:JEM7
    Re:私も「おひねり」頂戴しちゃいました

    こちらこそ宜しくお願いします。
    この手の事は自分一人で調べていくと迷路にはまりそうなので、masaomix様始め皆さんのご回答がとても有益でした。有り難う御座いました。
  • id:EdgarPoe
    Re(2):私も「おひねり」頂戴しちゃいました

    >この手の事は自分一人で調べていくと迷路にはまりそうなので、
    小生はこの議論に参加するだけでかき混ぜそうになると思いましたので
    見取り稽古に徹したわけです(笑)。

    主題:偶像崇拝禁止は達観した人たちが、一般人が間違った解釈をしないためにあるという見解

    小生はカソリックとプロテスタントの区別すら付かないので、別なアプローチを考えました。

    --
    クラシックの達人と小生の会話(やや誇張)
    「ゴルドベルグ変奏曲って、グールドとレオンハルトとあるけど、どう思う?」
    「あ、そんなこと言ってるのはシロウトだよ」
    「?あんただって山ほどCDもってて、あーだこーだ言ってるじゃないかよ?」
    「グールドが演奏しようがレオンハルトが演奏しようが、ゴルドベルグ自体は変わらないじゃない?アレは、楽譜を見てゴルドベルグ(もっと言えば作曲者BACH)を『グールドはこういう解釈」『レオンハルトはこういう解釈』と言うのを楽しむためにあるのさ」
    「・・・。楽譜読めるの?」
    「え?楽譜も読めないでグールド前期とグールド後期とレオンハルトの3種類もCD買ってるの?それアフォだよ」

    --
    「偶像崇拝禁止」も、これに似ていませんか?
    聖書がきちんと読める(できれば聖書を暗記してアタマの中に神のイメージがはっきりと存在する)なら「キリスト像・マリア像」なぞ要りません。
    しかし、一般の人々はそうはいかないので、「キリスト像・マリア像」と頼りに神のイメージをアタマの中に取りこもうとするわけです。

    真のキリスト者なら
    「何もなくても神のイメージをアタマの中に持てる(ゴルドベルグを暗譜していつでも自分の好きなように(アタマの中のピアノ・チェンバロで)演奏できる)」
    のですが、一般の人はそうもいかないので「神のイメージを思い出す」ために「キリスト像・マリア像」を使います。

    しかし、うっかりすると(小生がグールドがレオンハルトか迷ったように)「どのキリスト像・マリア像が本物か」とか間違った方向で悩んでしまいます。
    #もちろん、それを承知の上で「あのキリスト像・マリア像が最高」と言っている分には問題はありません
    うっかりと「キリスト像・マリア像」に興味を奪われ、肝心の「神」のイメージをほっぽらかしにしてしまうことがあるでしょう。
    ですから、その意味で「偶像『崇拝』禁止」を作ったのではないでしょうか?

    なお、それを知った上で「キリスト像がイイ(神を想起させやすい)・いやイコンの方がイイ・もっと抽象的な十字架でばっちり・キリスト像っていってもいろいろあるからなあ。○○教会に飾ってあるあのキリスト像が最高・ロシアのふるーいイコンにかなうものはない」等の批評をするのはアリだと思います。

    --
    うーん、子供の頃に訳もわからず日曜学校に通っただけ(それも2〜3ヶ月(爆))の
    小生がこんなことを考えていて、
    真のキリスト者を愚弄することにならなければよいのですが。

    主よ、あわれみたまえ(KYRIE ELIELIOEM)
    愚かな考察を加えてキリスト者を愚弄しているかも知れないPoeをあわれみたまえ。

    ーグレゴリオ聖歌を聴きながらー


    PS:たった一つだけ。小生は普通の会話では「様」と呼ばれることを好みません。ローカルルールみたいなもので、「牧師が『先生と呼ばせてはならない』(今回の議論で初めて知りました)」と同じようなものとお考え下さい。
    #もちろん「自分がお客で、店員から『Poe様お探しの本が入荷しました』と呼ばれる」等はありです(笑)

    http://d.hatena.ne.jp/EdgarPoe/
  • id:takasiym
    Re(3):私も「おひねり」頂戴しちゃいました

    >一般の人はそうもいかないので「神のイメージを思い出す」ために「キリスト像・マリア像」を使います。
    日本の仏教も似たような所ありますね。
    本来なら座禅とか滝に打たれたりとか寺の掃除とかしなければならないところを、一般人は「Na-Mu-A-Mi-Da-Bu-Tsu」とか「Na-Mmyo-Ho-Ren-Ge-Kyo」で簡単にすませたりしてます。

    >うっかりと「キリスト像・マリア像」に興味を奪われ、肝心の「神」のイメージをほっぽらかしにしてしまうことがあるでしょう。
    >ですから、その意味で「偶像『崇拝』禁止」を作ったのではないでしょうか?
    思い出しました。旧約聖書のどの部分か忘れましたが「偶像」を作ると、時の権力者が「神」を崇拝させるためではなく、人心の操作に利用するからダメという記述があったような気が。。。
    「人」が「神」を騙って、あるいは「モノ」を「神」に見立てて民を支配するのはダメ、という趣旨だったような。。。
    調べてみます。

    # ってあの分厚い旧約聖書を最初から読まなきゃいけないのか!!
    # →新約聖書・旧約聖書内の情報をキーワード検索してくれるサイトを
    # はてなに聞いてみようかな(笑。
  • id:crowdeer
    Re(4):私も「おひねり」頂戴しちゃいました

    ># ってあの分厚い旧約聖書を最初から読まなきゃいけないのか!!
    ># →新約聖書・旧約聖書内の情報をキーワード検索してくれるサイトを
    ># はてなに聞いてみようかな(笑。

    ここんとこ傍観者でいるものです。
    takasiymさんの解説が興味深いので少しばかしお手伝いさせてもらおうかな?
    と思って書いています。
    #少し識者が増えてきて端から見てても嬉しいです^^

    さてtakasiymさんの役に立つかわかりませんが、
    以下のサイトが見つかったんで付記しておきます。
    まぁ困った時はお互い様ですから。
    http://www.kt.rim.or.jp/~ttakao/biblesearch.html
  • id:takasiym
    Re(5):私も「おひねり」頂戴しちゃいました

    ありがとうございます。
    早速調べてみます。
    今後とも宜しくお願いします。
  • id:masaomix
    私がよく使っているのはここ

    私が聖書検索で使ってるのはこちらです。
    http://www.ak.wakwak.com/~ebible/bsrch/

    探してみるとけっこう多いんですよね。聖書の検索サイトって。
    やはりあれだけの書物ですから、
    みんなデータベース化したくなるんでしょう(笑)

    >#少し識者が増えてきて端から見てても嬉しいです^^

    私はまだ今月こちらに顔を出し始めたばかりなんですが、
    こういう話題を興味本位でなく
    知を高めるというスタンスで語り合えるのは
    とても楽しいことですね。
    ひとつ、よろしくお願いします。
  • id:takasiym
    Re(4):私も「おひねり」頂戴しちゃいました

    「王」と「偶像」で検索したら以下のような結果が出ました。

    http://www.kt.rim.or.jp/~ttakao/biblesearch.html
    の検索結果:
    2kgs:21:11
    「ユダの王マナセは、これらの忌みきらうべきことを、彼以前にいたエモリ人が行なったすべてのことよりもさらに悪いことを行ない、その偶像でユダにまで罪を犯させた。
    2kgs:23: 5
    彼はまた、ユダの王たちが任命して、ユダの町々やエルサレム周辺の高き所で香をたかせた、偶像に仕える祭司たちを、また、バアルや太陽や月や星座や天の万象に香をたく者どもを取り除いた。
    hos: 8: 4
    彼らは王を立てた。だが、わたしによってではない。彼らは首長を立てた。だが、わたしは知らなかった。彼らは銀と金で自分たちのために偶像を造った。彼らが断たれるために。

    http://www.ak.wakwak.com/~ebible/cgi-bin/srchbible1.cgi
    の検索結果:
    1 2列王記 21:11 「ユダの王マナセはこれらの忌むべき事を行い、かつてアモリ人の行ったすべての事より、更に悪い事を行い、その偶像によってユダにまで罪を犯させた。

    2 エレミヤ 8:19 見よ、遠い地から娘なるわが民の/叫ぶ声がする。「主はシオンにおられないのか/シオンの王はそこにおられないのか。」なぜ、彼らは偶像によって/異教の空しいものによって/わたしを怒らせるのか。

    3 ホセア 8:4 彼らは王を立てた。しかし、それはわたしから出たことではない。彼らは高官たちを立てた。しかし、わたしは関知しない。彼らは金銀で偶像を造ったが/それらは打ち壊される。

    4 アモス 5:26 今、お前たちは王として仰ぐ偶像の御輿や/神として仰ぐ星、偶像ケワンを担ぎ回っている。それはお前たちが勝手に造ったものだ。

    日本語が難解なため良く分からないですが、どうも「為政者」に「偶像」は憑き物で、それを「神」様はこころよく思ってない、という構図みたいですね。
    カトリックの「為政者」に当てはめてみるるととても痛たな事になりそうです。
  • id:EdgarPoe
    Re(5):私も「おひねり」頂戴しちゃいました

    E.A.Poeです。
    ># ってあの分厚い旧約聖書を最初から読まなきゃいけないのか!!
    いやあ、こうなっちゃうと思いました(笑)。
    小生はもうついていけません(爆)。

    小生も(歩きながら)やっと考えついた
    >本来なら座禅とか滝に打たれたりとか寺の掃除とかしなければならないところを、
    >一般人は「Na-Mu-A-Mi-Da-Bu-Tsu」とか「Na-Mmyo-Ho-Ren-Ge-Kyo」で簡単にすませたりしてます
    があっさりと書かれていたので、もうダメです。ついていけません(爆)。

    --
    「哲学書に接したい場合は、よき解説をさがせ。それで納得できればOK。もっと興味が出てきたら原典に当たれ」
    という小生の仮説が、多少検証できたかな、と思っています。
    #もちろん、ここが「良き解説」に当たります。

    --
    これ以降は、正統派宗教Wizard達のお話を、小生は見取り稽古させて頂きます。
    「ありがとうございましたー!!」(合気道の稽古のつもり(爆))
    http://d.hatena.ne.jp/EdgarPoe/
  • id:daemon
    回答には間に合いませんでしたが...

    イエスやマリアは実際に地上に存在し,ほかの人間も実際にあったことがある人物ですから,絵や像に残すことを許されています.
    一方でキリスト教の神自身は人間の前に姿を現したことがないので,想像だけで形にすることを許されません.
  • id:JEM7
    Re:回答には間に合いませんでしたが...

    ご意見有り難う御座います。
    ちなみに聖書のどこに「実在する人物で有れば絵や像に残して、神への祈りの対象(又はその代替、或いは取り次ぎ)として祈っても良い」と書いてあるのでしょうか?或いはその考えの根拠となるものがどこかに有るのでしょうか?
    しかもその像はアジア人であった本人には似ても似つかない西洋人として、西洋人が望む容姿にアレンジされている訳ですが、これはイエスを崇めていると言えるのでしょうか?「こうあって欲しい」と願う姿を創造してそれを拝むというのは正に偶像崇拝のように思えてなりません。
    更に言えば、三位一体という考えからして、神は像にしてはいけなくて、イエスは良いというのは、イエスを神の一様態と見なす事と相矛盾しないでしょうか?
    もう一つ、神は旧訳聖書の中でモーゼの前に姿を見せていますよね。
    疑問だらけです。

この質問への反応(ブックマークコメント)

「あの人に答えてほしい」「この質問はあの人が答えられそう」というときに、回答リクエストを送ってみてましょう。

これ以上回答リクエストを送信することはできません。制限について

絞り込み :
はてなココの「ともだち」を表示します。
回答リクエストを送信したユーザーはいません