敬老の日です《敬老の日》
敬老と言えばおじいちゃん・おばあちゃん…
あなたとおじいちゃん・おばあちゃんの物語は何ですか?(^^
http://www.hudson.co.jp/gamenavi/gamedb/softinfo/momo12/
桃太郎電鉄12 西日本編もありまっせー!
ベタですけど、『桃太郎』ですかねえ。
@nifty:NEWS@nifty
私の記憶の限りでは一度しか会ったことがないんですが‥。
母方の祖父母の家はとても古く、いわゆるぼっとん便所でした(^-^;
ぼっとん便所というだけで怖くていつもいつも早めに出るようにしてたのですが
ある時、戸のたてつけが悪かったらしく真夏の暑い時に2,3時間閉じ込められました。
私の泣き声に気づいたおばあちゃんが拳一発でドアを開けてくれて助かりました‥
おばあちゃんて力持ち!て思いました(*^^)
でももうあの形のトイレはトラウマです(^^;)
ありがとうございます(^_^)
2・3時間もですか(>_<)
ちなみに私の所も汲み取りで水洗風なのですがぼっとんです(゜o゜)
第一位はこれですね
桃から生まれた「桃太郎」
あらら(^_^;)
すみません。
質問の趣旨を取り違えたのかもしれないと思いましたので、もう一度回答させていただきます。URLはダミーです。
幼少の頃から鰻の蒲焼きや瓶詰めのイクラの醤油漬けが好物なのですが、母はなかなか買ってくれないので、一緒に買い物に行く時には祖母の買い物篭に忍ばせていたことを覚えています。
ありがとうございます(>_<)
おばあちゃんは優しかったのですね(*^_^*)
http://www.j-medical.net/bra001.html
脳梗塞(脳血栓と脳塞栓) 医学・健康情報サイト J-Medical
60を超えたときくらいから、腕が動かなくなり、リハビリがてら近所をよく散歩してた。別居してたので、たまに遊びにいくと不自由な体にも関わらず、よく散歩に行って駄菓子を買ってもらった。
その後10年くらいの病院生活の後息を引き取りました。
ありがとうございます(^_^)
孫と一緒に買い物が楽しみだったのでしょうね(^_^)
http://www.hatena.ne.jp/1095686755#
九月二十日。 敬老の日です《敬老の日》 敬老と言えばおじいちゃん・おばあちゃん… あなたとおじいちゃん・おばあちゃんの物語は何ですか?(^^ .. - 人力検索はてな
私が生まれたときには父方も母方もおじいちゃんは亡くなっていました。両親はちゃんといましたが、父親は漁師で半年近くも海にいて、たまに帰ってくるという感じでしたので、母の実家に住んでいました。そのため私はべったりのおばあちゃん子でした。幼少の頃の記憶をたどるとおばあちゃんしか出てきません。ちなみにおばあちゃんを私は「ばばちゃん」と呼んでいました。とても幸せな幼少時だったと今でも思います。ただその後、おばあちゃんは親戚の都合でおばあちゃんの長男の家に引き取られていきました。晩年はなかなか会うこともできず、私が中学を卒業するときに他界しました。もっと私が一人前になって、育ててくれたおばあちゃんに色々してあげられるようになっていたらな…と思ったものです。
それから月日もたち、その後社会人になった私は色々な都合により父方のおばあちゃんの世話をしてあげるようになりました。車を持っていた私が月に二度ほど病院に連れて行ってあげるとか、買い物に連れて行ってあげるとかの程度でしたが。そのときの私の気持ちの中には、母方のおばあちゃんにして上げられなかった分、今してあげようという気持ちでした。
父方のおばあちゃんも亡くなる日が来ました。その当時、父は脳卒中のため半身麻痺であったので、喪主は父でしたが実質は私が施主として葬儀を取り仕切りました。
ふと考えてみると母方のおばあちゃんの命日がその日でした。もう十何年も前の3月21日、同じ日が私の二人のおばあちゃんの命日になりました。
これ自体は他人が聞いても単なる偶然みたいな話ですが、私には何か意味があるようで、あって欲しくて、そして忘れられない私の人生の出来事です。
ありがとうございます(^_^)
おばあちゃんもさぞ幸せだったでしょうね(>_<)
母方のおばあちゃんも思っていれば伝わっていますよ(*^_^*)
病弱児だった私をおばあちゃんがおんぶして病院に連れてってくれました。
今では私がおばあちゃんの車椅子を押す番。
畑仕事で足腰を鍛えたおばあちゃんでも、老いると長い距離歩けなくなって。
なんだか哀しいです。
ありがとうございます(^_^)
体力が無くなるのはみんな一緒ですよ(^_^)
そうして孝行してたら、おばあちゃんも幸せでしょうね(*^_^*)
http://www.osoushiki-plaza.com/institut/dw/198811.html
ガンと告知(1988.11)
うちの祖母がガンに侵され、亡くなる前に丁度敬老の日が来ました。
多分本人ももう長くは無いと解っていたのでしょうけど、普段は病室から1歩も出ない祖母が、私たち孫がお見舞いに行ったその日は外出をしました。
病院の中庭を散歩しただけですが、ふいに父や母を呼んでこれからドライブに行きたいと言い出して・・・
30分ほど離れた海岸まで行き、小旅行を楽しみました。
体力的には限界だったはずですが、久しぶりに会う私たち孫との思い出を作りたかったのでしょうか・・・・
私は病気を知らされておらず、祖母は退院するものと思っていたので解らなかったのですが
海岸についた後祖母と散歩する私たちを見て、父と母が泣いていた意味が後々解りました。
とても思いで深い敬老の日の出来事です。
ありがとうございます(^_^)
やはり、孫っていうのは大切な存在で大きな支えであるのですね(^_^)
http://www.tanken.com/sinsainikki.html
防災は大丈夫?震災日記
私のおばあちゃんは、今年の誕生日で94歳になります。
足腰が弱くなってしまったので、入院生活ですが、遊び(お見舞い?)に行くと、喜んでくれます。
そんなおばあちゃんがまだ若かった頃、道端を歩いていたら
田んぼの脇の堀の水がちゃぷちゃぷ揺れていたそうです。
何だろうと思っていましたが、それが関東大震災だったそうです。
本人は歩いていたので、揺れには気が付かなかったようですが。
ちなみにおばあちゃんは北関東に住んでいるので、実害はなかったようです。
ありがとうございます(^_^)
元気なおばあちゃんですね(*^_^*)
http://www.tokyodisneyresort.co.jp/tdl/
東京ディズニーリゾート:東京ディズニーランド
母方のおばあちゃん(今も健在です)と、東京ディズニーランドに行きました。
大正生まれのおばあちゃんなのに、すごく楽しんでくれましたねぇ。
ビッグサンダーマウンテンにだまくらかして乗せたのは、ごめん!でしたが、
その後は、スプラッシュマウンテンにも乗り、記念の写真を買って喜んでくれました。
そして、一番の想い出は、シンデレラ城ミステリーツアー。
何と、ウチのおばあちゃんが光の剣を持つ役目に任命され、
勇者の証のメダルをいただいてしまったのです!
これには、おばあちゃん以上に私がびっくりしました。
このメダルは、帰ってきてから仏壇に供えられました(笑)
冗談みたいですが、実話です。
また、連れて行ってあげたいな。
ありがとうございます(^_^)
大正生まれのおばあちゃんがディズニーランドへですか?(@_@;)
凄いですね(>_<)
『箱根全山』旅のテーマパーク箱根 - 箱根町観光情報ポータルサイト
小さい頃は敬老の日と言うと、両親・祖父・親戚一同で旅行に行っていました。
遠くまでは行かず、近距離の旅行でしたが恒例でしたね。(必ず同じお店で昼食をしてた事を覚えています)
現在は祖父・祖母も亡くなり親戚が集うことも無くなりましたが
この季節になると皆で行ったあの旅行の思い出が蘇ります。
ありがとうございます(^_^)
旅行は思い出に残りますよね(*^_^*)
http://www.recipe.nestle.co.jp/kind/keirou/
敬老の日 レシピ【マギー Feel Good Cooking】-料理レシピ検索が簡単-
私にはおじいちゃんもおばあちゃんもいません。
話でしか聞いたことがありません。
どちらも早くに亡くなったので、
お年寄りのおじいちゃんおばあちゃんの話ではなく、
この公園でおじいちゃんはおばあちゃんにプロポーズしたらしいよとか、
そんなのばっかり。なんか笑っちゃいます。
すてきな恋をして結ばれた二人だったらしいです。
孫の私も負けていらんないっ、とか思っちゃいます。
ありがとうございます(^_^)
はやくに…そうだったのですか(>_<)
恋愛だったのでしょうか?(*^_^*)
何だか微笑ましいですね(*^_^*)
http://www2.mouse-jp.co.jp/status/index.htm
【MouseComputer】オーダーステータス/ログイン
私は、両親が小さい時に離婚したのですが、
父方の祖母が私を育ててくれました。
90歳過ぎても元気で、20歳は若く見られていた元気なおばあちゃんでしたが、
今年6月に91歳で亡くなりました。
私の母であり、祖母であり、友達のようなおばあちゃんで、
おばあちゃんがいてくれたから、
私が存在できたのだと思います。
私にとって、おばあちゃんは、大好きで目標とする人です、
ありがとうございます(^_^)
20歳も若く見られるなんて凄いですね(>_<)
目標に頑張って下さいね(*^_^*)
ハイカラで変わり者だった祖父。
私もその血を引いているのか?車が大好きで、人とはちょっと変わった車に乗っております。
(いわゆる・・走り屋さんって奴ですね。サーキットで走るんですが)
親や親戚からは散々 いいかげんにしなさい!年を考えなさい!!
などと煙たがれていた私の車ですが、祖父だけは違いました。
ピンクに塗られた派手な車だったのですが、買い物に連れてってくれ〜
とか
ちょっと隣の県まで用事があるから
とか
その車の助手席に乗って色々なところに行ったものでした。
(多分相当乗り心地は悪かったでしょう・・バケットシートに交換しておりましたので)
そんな祖父が無くなったとき、霊柩車について火葬場まで行くときのことです。
叔父(祖父の長男)が、いつもは煙たがっていた私に対して
お前の車出してくれ。霊柩車の後に着いて行ってくれ。
そう言われて霊柩車の後を自分のウルサイ、派手な車で走行することになりました。
そう考えると・・祖父って変わり者だったんですよね。
後で知ったことですが私の車好きをとがめる様にと言われた祖父は
親戚一同に対して 自分はあの車が好きだ!個性を尊重せんでどうする! と一蹴したそうです(知りませんでした)
お棺を最後に閉めるのも自分・・・
本当に祖父に可愛がられてたんだな・・と改めて思いました。
ありがとうございます(^_^)
おじいちゃんのお話は初めてですね(^_^)
信念があったのですね(>_<)
私も頑張りたいですね(>_<)
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上記はダミーです。
22年前におばあちゃんが亡くなりました。その時に私はサウジアラビアのリヤドに駐在していました。おばあちゃんが亡くなることがサウジで分かりました。おばあちゃんは胃がんで、最後6時間ほど苦しんだのですが、その間、私も苦しみました。そして、日本の夜中の1時半に国際電話したら、おばあちゃんが亡くなった後、病院から両親が帰宅したところで、父親が電話に出て、だれかが私に連絡したと思ったそうです。私はヨメサンと一緒でした。このことは本当に不思議です。おばあちゃんは私を大好きだったのです。私もお祖母ちゃん子でした。とってもすばらしいおばあちゃんだったです。今も、良い思い出ばかりです。
残念ながら、おじいちゃんが亡くなる時は、同じサウジアラビアにいて、分かりませんでした。
ありがとうございます(^_^)
行きたくてもいけないと言う状況…
つらいですね(>_<)
ありがとうございます(^_^)
あらら(^_^;)そうですか?
亡くしたときに後悔しますよ…
孝行してあげて下さいね(>_<)
URLダミーですが、面白いんで遊んでください。
祖父は私が中学生の頃に眠ったまま逝きました。特に病気を患っていた訳でもなく、本当に眠ったまま逝ってしまいました。誰に迷惑かける訳でもなく、静かに逝った祖父の死に様は私の理想の逝き方の一つです。
祖母は健在ですが、脳梗塞の後遺症で言葉を失っています。また、その脳梗塞が原因で最近身体が不自由になり、思うように歩けなくなってしまいました。母親を知らない私にとって、祖母は母親代わりでしたので最期まで元気でいて欲しいものです。
ありがとうございます(^_^)
おじいちゃんの亡くなりかたは本当に理想ですよね(>_<)
おばあちゃんも元気でいられますように…
ごめんなさい。おとぎ話ではないのですね。
戦争時の話をよく聞きました。食べ物がとにかくなくて、お米のおにぎりを食べている人がすごくうらやましかったそうです。当時、ドリフターズが卵を投げたりして食べ物をすごく粗末にしていたので、祖母が非常に嘆いていました。
ありがとうございます(^_^)
戦争ですか〜(>_<)
私も祖父に聞きたかったなぁ(._.)
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私が風邪を引いてて母親が仕事でいないとき、おばあちゃんがおかゆや果物を私の部屋に運んでくれました。
あとは浴衣の着付けをやってもらったり…。
感謝です
ありがとうございます(^_^)
着付けはいまできる人少ないですもんね(>_<)
血のつながったおばあちゃんの話ではなく、老人ホームに介護体験に行ったときの話です。
私が担当したおばあちゃんは、食事も移動も介助が必要な方でした。お話をされることは全くといってよいほどありませんでした。
私は初めての介護体験に戸惑うばかりでしたし、「話しかけても返事してくれないしなぁ」と、少しむなしい気持ちで過ごしていました。
あるとき、そのおばあちゃんは、窓の外を眺めながら、ふとつぶやいたのです。
「あなたは、自由にうごけていいねぇ。」
初めて声を聞きました。本当に、ポツリと。
それから、二度と声を聞かぬまま、介護体験期間を終えました。
おばあちゃんは、私をちゃんと見ていてくれたんだと思いました。
この一言で、「自分のしたことに見返りを求めるなんて、私はなんて情けないんだ」と思わずにはいられませんでした。
もしこの言葉がなかったら、私は自分の気持ちばかり考える、自分勝手なところに気付かないままだったかもしれません。
この場を借りて。
おばあちゃん、ありがとう。
ありがとうございます(^_^)
本当に考えさせられますね(>_<)
自分が自由だからこそ それを当たり前だと思ってしまう…
そうならないよう相手の事を思いやる気持ちを持たないといけないのですね(>_<)
@nifty
そうですね。私が生まれたときには祖父/祖母は全て亡くなっていまして、思いでは何も無かったんですが、
今の妻と結婚しまして、その当時かみさんのおばあちゃんが健在だったので、初めておばあちゃんというのと
接しました。
初めて会った場面というのが、かみさんの実家に行って、嫁にくれ発言をしたときで
そこの親父が「俺はいいけど、みんなはどう思う?」とほかの家族に問いかけました。
ほかの家族というのは、義父+義母/祖母
で、祖母は快くにこやかに「XX美(かみさん)が良いならわたしゃ文句はないよ!」
と行ってくれました。
それから、私たちは結婚をし、おばあちゃんとも事ある毎に優しくしてくれ実の孫の様に
接してくれました。その祖母も5年前に92歳で無くなりました。正直祖母は好きでしたが、
無くなったときには、涙は出ませんでした。ただ、お寺で葬式が終わり出棺の時に
かみさんが棺に取りすがり、「おばあちゃん、おばあちゃん!」
といって号泣していたのを見て、泣いてしまいました。かみさんはおばあちゃん子で
母親よりも、祖母に育てられたといっても
良いくらい、祖母が大好きでした。
その場面を見た後から急に涙があふれてきたんです。自分が知らない、妻と知り合う前の
、妻に聞いた、祖母との思い出がなんか自分の思いでのように感じられなんか泣けてきたんですよ。
生きてるうちにもっと思い出を作っておけば良かったって今更思いましたよ。
ありがとうございます(^_^)
お嫁さん大好きだったんですね(>_<)
なんだか、私まで泣けて来ます(>_<)
http://www.sonymusic.co.jp/Music/Arch/DF/KenHirai/DFCL-1078/
Sony Music Online Japan : 平井堅 : 大きな古時計
私の祖父(11〜12人兄弟!の長男)は明治生まれで、丁稚どんから
一時は「銀座の○さん」と言われるくらいブイブイいわせていたのですが、
事業に失敗し屋敷も手放し、トタン屋根の工場で部品を作る商売をしていました。
朝から晩まで働いてたなぁ。
家族でおじいちゃんは1番偉く1番恐かった。(悪いことしたら木刀で叩くマネをされた)
でも、絶対自慢話や人の悪口を言わない人でした。
久しぶりに祖父を思い出しました。
ありがとう。。。
ありがとうございます(^_^)
怖いおじいちゃんだったのですね(>_<)
うちも怖かったなぁ(>_<)
【accorion.jp】
URLはダミーです。
わたしは小学生の頃に、一緒に住んでいた祖母を亡くしました。生前は、猫が大好きで、庭にはたくさんの野良猫がエサをねだりに来ていました。そんなネコおばあちゃんは、大勢の孫たちの中でも、一番距離が近かった私をとてもかわいがってくれてました。幼い私が「おばあちゃん、わたしが死ぬまで三途の川で待っててね。一緒に天国にいこう!」という無理な話を笑って聞いてくれました。亡くなる前の昏睡状態の直前、朦朧としているはずの状態で、小麦色に日焼けしたわたしに「白雪姫のようにきれい」と言ったのが忘れられません。あの世が本当にあるのなら、いつかまた祖母に逢いたいと思います。
ありがとうございます(^_^)
ねこおばあちゃん最後に良いこと言ってくれたのですね(^_^)
http://www.fujitv.co.jp/b_hp/heisei/
平成教育委員会 - フジテレビ
私の祖父は、若い頃から体が弱かったせいか声が小さく、かすれていたので、当時小学生だった私にはなかなか聞き取りにくかったことを覚えています。
幼い頃は祖父母の家へ毎週末遊びに行き、一緒に『平成教育委員会』などのクイズ番組をよく見ました。(体が弱かったので、外で一緒に走り回るなんてもっての外でしたから。)
祖父の言っている言葉を何度も何度も聞き返しながら、一緒に答えを考える時間がとても楽しかったのです。
その後、私が小学4年生の時に74歳で息を引き取りました。大切な数少ない思い出です。
ありがとうございます(^_^)
クイズですか〜(^_^)
いい思い出ですね(*^_^*)
母が小学校生のころにおじいちゃんは沖縄から6人の子供をつれてボリビアまで移住しました。農業と何でも屋(コンビニ、ガソリン等)の商売をやっていたそうです。あとからブラジルに移住しました。
おじいちゃんは庭でゴーヤーを作るのが趣味で、大量にぶら下がっているゴーヤーを観察するのが面白かったですね。
あとおじいちゃんとおばあちゃんはウチナーグチ(沖縄の方言)でよく会話をしているところを子供のころから聞いていますが今でも会話の内容がさっぱりわかりません(^^;「ハッサビオー」がおばあちゃんの口癖です。
Okinawa Digital Archives "Wonder Okinawa"
ありがとうございます(^_^)
ボリビアですか〜(^_^)凄い雄大な自然のところですね(*^_^*)
(つД`)
4歳くらいまで、祖父と一緒に住んでいました。
一緒の布団で寝てくれたり、
ミカンを剥いてくれたり、
泣いているとこっそりチョコレートくれたり
(お菓子は一日何個までとか規制があったのでコッソリw)、
とってもやさしいおじいちゃんでした。
そんなおじいちゃんが、
いつのまにかいなくなっていました。
私には、祖父の葬儀の記憶がないんです。
葬儀を撮った写真には、たしかに私も写っています。
きっとあまりに悲しくて、
子供心に記憶から消去してしまったのでしょう。
でも、一緒の布団で寝た時のぬくもりは、
今でもしっかりおぼえています。
おじいちゃん、大好きでした。
ありがとうございます(^_^)
やさしいおじいちゃんいいなぁ(*^_^*)
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Cinema/5784/nitiyougekizyou...
東芝日曜劇場 1972(昭和47)年放送分
うちのおじいちゃんとおばあちゃんは
その昔、美男美女カップルで超目立っていて
いつも道行く人が振り返ってみていたと言うのが自慢です。
ちなみに、おじいちゃんは船越英二さん(2時間ドラマのプリンス・船越栄一郎さんのお父さん)、おばあちゃんは高峰秀子さん(JRのフルムーンキャンペーンに出てた人)にそっくりだったそうです。
たしかに写真はめちゃかっこいいし、美人です!
ありがとうございます(^_^)
ぉぉ(*^_^*)
いいですね(>_<)
http://www1.linkclub.or.jp/~hanamusi/film-bandits/
『花を摘む少女と虫を殺す少女』 official web
URLはダミーです。
とても小さな頃、母と帰省した時のこと、毎朝花の手入れをして咲き終わった花を首から摘んで捨てる祖母を見て、マネをして今にも咲きそうな花を摘み取ってこっぴどく叱られました。「おばあちゃんと一緒の事したのに・・・。」
今ではいい思い出です。
ありがとうございます(^_^)
少ししか取ったらダメだったのかな?(*^_^*)
ちょっと暗い話になりますが、ご容赦下さい。
母の実家は神田でした。
晩婚で私が生まれたのも結婚してから10年近く過ぎていたとのことで、物心付く前に祖父母は亡くなってしまいました。
そんな私が覚えているのは、老衰だったと思いますが、神田の実家で祖母が床についているところへお見舞いに行ったときのことです。
薄暗い部屋で、枕元に母と座って祖母に何か声をかけたような、そんな情景を今でもはっきり覚えています。
祖母は私に何か優しい言葉をかけてくれたと思います。
母方の祖母に会ったのはそれが最初で最後だったかもしれません。
今となっては両親がおじいちゃん・おばあちゃんの年齢で、未だに親孝行が出来ていない不肖の娘です。
ありがとうございます(^_^)
今からでも遅くありませんよ(^_^)
いてるうちがチャンスですから(>_<)
はてなアンテナ - HAL_Tのアンテナ
ある日、畑仕事へ行く前に、祖母が履いていたモンペをぺろっとめくって、目の前で「立ちション」したこと。オチンチンが無くても立ちションが出来るんだ!と驚き、自分も出来るようになろうとなんども練習しましたが、けっきょく出来ませんでした。生きているウチに教えを乞うべきであったと、未だに後悔しています(笑)
ありがとうございます(^_^)
ぉぉワイルドなおばあちゃんですね(>_<)
真似するのも…(゜o゜)
Yahoo! JAPAN
生まれたときから一緒に住んでいるのですが、7歳の時に無くなった祖父の思い出は
鰹節ご飯とお医者さんごっこです。
昼食は別の部屋で食べてたのですが、祖父は毎回大きな鰹節を削って猫飯にしてたした。たまにひと口もらう猫飯は子供心に凄く贅沢に思えたものでした。
もうひとつは私が5歳、祖父が68歳くらいの頃の事ですが遊び相手のいなかった私はよくお納戸に二人で閉じこもって祖父に聴診器を当ててました。なぜか祖父は何も言わずじーっと聴診器を当てられてくれてました(笑)
ありがとうございます(^_^)
昔の鰹節は美味しかったでしょうね(*^_^*)
聴診器遊びですか〜(>_<)
Yahoo! JAPAN
URLはダミーです。
私のおじいちゃんは昔気質な人で多くを語らず・・という人でした、でも小さな頃におじいちゃんの家に遊びに行くととても喜んでくれていたのを今でも覚えています。そんな口下手なおじいちゃんなんですが私が帰るねと挨拶をしにいくと『またこいよ・・』とポツリと寂しそうにしてたのが子供ながらに印象的でした。おじいちゃんが亡くなってもう14年たちますが、一緒に散歩した事、お風呂に入った事、ゴハンを食べた事、すべてが素敵な思い出です。
生まれ変わってもおじいちゃんの孫に生まれたいです。
ありがとうございます(^_^)
またこいよ〜ですか(^_^)
印象的ですね(^_^)
東京大空襲で逃げ惑った話を延々と3時間以上にわたって寝物語で話されたこと
以来、トラウマです
電車の中でよっぱらったじーさまが、太平洋戦争時にいかに自分が活躍したかについて大声で語っていて恥ずかしかった思い出
ありがとうございます(^_^)
いい思い出になりますよ(*^_^*)
7年前に亡くなった父方の祖母は、いつもニチイの近くのホールでパチンコをうっていました
遊びに行くと、ニチイでわたしの大好きな海老を買って茹でてくれました
祖母に似ていたわたしのことを「孫の中で一番かわいい」って言ってくれていたのに、
ぼけてしまって、お見舞いに行った時に「あんたのことが誰だかわからん」って言われて、ショックで泣いちゃいました
そのうえ、わたしのお兄ちゃんに「お父さん迎えに来てくれたんですね」なんて言って、お嫁さんのグチをこぼしていました
顔だけでなく、わがままで甘えんぼでパチンコ好きなところがわたしと祖母のにてるところ と
両親から今でもよく言われます
いまごろ天国でおじいちゃんに甘えてるんでしょうね
ありがとうございます(^_^)
ぼけって本当に切ないですよね…(._.)
おじいちゃんは物心つく前に亡くなってしまったのですが、
その代わり、おばあちゃんは私にとって祖父母二人分。
お料理も上手で優しくてカンペキなおばあちゃんなのですが、
なぜか女の子の絵を描かせるといつもミニスカートで、
そのすそから“パンツ”が出てる。
ある意味ワカメちゃん。
もう20何年変わらず、私に描いてくれるのはこの絵なんですが、
いつ見てもホッとします。
ありがとうございます(^_^)
ミニスカートですか〜(^_^)
なんでなのでしょうね(^_^;)
Yahoo!�_鹿
遊びにいったら、「大きくなったなぁ」といつもいって、おばあちゃんと背の比べ合いをしました。中学ぐらいには、追い越していましたね。いつも、正月はおせち料理を用意して待ってくれていました。あー、もうおばあちゃんいないんですよ。
ありがとうございます(^_^)
おばあちゃんのおせち料理は美味しそうですね(*^_^*)
====
以上で終わりたいと思います(*^_^*)
みなさんから貴重な思いでが聞けて幸せでした(*^_^*)
またよろしくお願いします(*^_^*)
う〜ん
質問読んで下さいね(^_^;)