「物語を読む(鑑賞する)ことは作者とコミュニケーションすることと同じである」というようなことを過去言った人がいたらその人を教えてください。格言的に残っていなくても良いです。インタビューとかでそのようなことを言っていたとかでも良いです。でも、出来れば存命でない学者のような高邁な感じの人の格言的なもののほうが良いですが。

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  • 登録:2004/09/29 18:14:27
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回答(7件)

id:so-shiro No.1

so-shiro回答回数594ベストアンサー獲得回数02004/09/29 18:34:03

ポイント15pt

*2.html

いろいろなところで言われているように感じますが、ストレートにいった方でWeb上に発言を残されているのはこの方だけみたいですね。

ちょっと別の媒体(紙ですがw・・・バフチンがこんなことを言っていたような気がする)で調べてみます。少し時間をください。

id:jazyjanjan

ありがとうございます。

違う媒体でも調べてくれるのですか。

嬉しいです。

2004/09/29 19:28:54
id:pasopaso No.2

pasopaso回答回数75ベストアンサー獲得回数02004/09/29 18:42:27

ポイント10pt

読書尚友

(古人を友とし古人と対話する意味と解釈して「古人を友」で検索したらたくさんありました。一部書いて置きます)

http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/niimanabi.htm

賀茂真淵『にひまなび』(日本名著全集)

賀茂真淵『にひまなび』

世の常のわざこそあれ、學の道に上下かみしもは無し。たゞよき人の、よしとよく見て、よしといはんを待つべけれど、後世さる人し有らねば、古人を友とするに如く事無し

露伴は次のように説いている。これは最高の友を選ぶことになる

 「朋友(とも)を得んとして得ざるとき如何(いかん)。曰く、書を披露(ひら)いて古人を友とせよ、孔子我が友なり孟子吾が友なり。釈迦基督も我が友なり、拿破崙(ナポレオン)華盛頓(ワシントン)」も我が友なり。

id:jazyjanjan

ありがとうございます。

2004/09/29 19:32:14
id:nekomura0523 No.3

nekomura0523回答回数17ベストアンサー獲得回数02004/09/29 19:11:37

ポイント10pt

「良い本を読むことは、過去の最もすぐれた人々と会話を交わすようなものだ」

デカルト(1596-1650)という哲学者(?)の言葉です。

id:jazyjanjan

デカルトは好きですが、ちょっと違うと思うんですよねえ。2番さんと3番さんの選んだ格言(?)は物語≦本(または書)という理解から始めたので、各々の格言中の”本”は知識媒体のようなものとなってしまっています。これではこの本の言葉は私の指定した”物語”から離れてしまっています。物語についての格言か、物語=本についての格言を探してくれると嬉しいです。

いやはや、しかしありがとうございます。

2004/09/29 19:43:50
id:so-shiro No.4

so-shiro回答回数594ベストアンサー獲得回数02004/09/29 21:29:02

ポイント15pt

ミハイル・バフチン『小説の言葉』(現在、入手しやすいのは平凡社ライブラリー版、1200円)の中に、そのような趣旨の記述があった覚えがあって、参照してみましたが、ぴったり同じ部分はないようです。

バフチンによると、それまでの叙事詩、悲劇、抒情詩といった伝統的な文学のジャンルが独白的(モノローグ)であるのに対し、散文文学は本質的に社会的、あるいは対話的(ダイアロジック)である、と。

したがって、読者とのコミュニケーションを要求する。「それは応答を挑発し、それを予期し、それに向かって構成される」(平凡社ライブラリー版『小説の言葉』、45ページ)

ただ、バフチン自身は「物語を読む(鑑賞する)ことは作者とコミュニケーションすることと同じである」とは言っていません。私の思い違いのようです。ただ、こうしたバフチンの提起から「読者」の存在が論じられるようになったのは確かのようで、『バフチン以後<ポリフォニーとしての小説>』(デヴィッド・ロッジ著、法政大学出版局、3605円)なんて小説論もあるくらいで。

お役に立てずにすみません。

id:jazyjanjan

ありがとうございます。

読者というものが論じられるのはバフチンからですか。非常に面白いと思います。

物語を「作家」と「読者」とのコミュニケーションとする。そうすると物語の冒頭を”初対面”終盤を”別れ際”と分類して何か考察できたりするだろうか。そんなことを考えてみたりしました。

2004/10/05 02:05:21
id:music-mania No.5

music-mania回答回数1ベストアンサー獲得回数02004/09/29 23:55:22

ポイント10pt

杉山正樹が、寺山修司の作品について。

「詩も歌もあらかじめ存在するものではなく、たえず生成するものであり、(中略)他者に伝えられることでようやく意味を持ちうる、というわけです。」

寺山の著作にも確かこのような記述があったと記憶しています。

ご質問の趣旨と間違っていたらスミマセン。

id:jazyjanjan

うん、確かにちょっと違うと思います。

2004/10/05 02:07:24
id:temarix No.6

temarix回答回数73ベストアンサー獲得回数02004/09/30 05:37:24

ポイント10pt

http://www.hatena.ne.jp/1096449267#

「物語を読む(鑑賞する)ことは作者とコミュニケーションすることと同じである」というようなことを過去言った人がいたらその人を教えてください。格言的に残っていなくて.. - 人力検索はてな

URLは関係ないです。

*****

書物はそれが書かれたとおなじくじっくりと慎みぶかく読まなければならない。 

 −ソーロー 「森の生活」

******

読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた課程を反復的にたどるにすぎない。

  −ショウペンハウエル 「読書について 第二篇」

id:jazyjanjan

ショーペンハウアーは少し好きです。

2004/10/05 02:09:55
id:cj_nano No.7

cj_nano回答回数14ベストアンサー獲得回数02004/10/03 21:11:06

ポイント30pt

8)吉本隆明の理論における「他者」の欠如

 ただし、私はこの「語り手」論による批判を私生活反映論的な文学論にだけ向けていたわけではない。それは吉本隆明の理論に対する批判でもあった。吉本の理論は文学的言語表現を、作者の「自己表出」性に還元してしまうものだったからである。私の見るところ吉本の理論の欠陥は、物語中の人物の発話を分析できなかった点に端的に現われている。かれは作者の「自己表出」性をいわゆる「地の文」のなかにしか見なかった。作中人物の発話をその人物の「自己表出」と捉えた場合、それではその「自己表出」と作者の「自己表出」との関係はどうなるのか。作中人物の発話を「地の文」に同化させてしまうのではなく、作中人物の個的な発話特徴を備えた台詞として自立させる、そのためには、他者を他者と認め、それと自分との関係意識を基に、互いの発話を自立させなければならない。しかも他者としての作中人物の発話と直接に関係するのは、他の作中人物か、そうでなければ「語り手」であって、作者ではない。その意味で作中人物の発話は他者の他者性の標識なのであるが、吉本はそれを捉える他者論を欠いていたのである。

----------

吉本言語論は、言語の本質を「表現行為」と考え、言語表現の核心を主体の「表出」と見、その表出に「自己表出」と「指示表出」の2つの種類があるとするらしいです。

(加藤典洋『テクストから遠く離れて』講談社、2004年、P10)

 ロラン・バルトの最初の著作『零度のエクリチュール』(渡辺・沢村訳、みすず書房刊)にも影響を与えた文学者、モーリス・ブランショは『文学空間』(粟津則雄他訳、現代思潮社刊)において、作家と作品との関係について次のように述べている。

  作家は一冊の書物を書く。だが、書物はまだ作品ではない。作品は、作品を通して、作品に固有なある始まりの烈しさのうちに、存在するという語が発言されるとき、はじめて作品なのだ。つまり、作品が、それを書く人と読む人との内的なつながりである場合に果たされる出来事なのだ。(中略)作家は、作品が存在してからあとは、死んでしまっているのではないだろうか。

----------

ロラン・バルトは「作者の死」の人なので、もしかしたらモーリス・ブランショも「物語を読む(鑑賞する)ことは作者とコミュニケーションすることと同じである」とは全く逆の意味で書いているのかもしれませんが。

作家と作品を切り離すテクスト論の理論を確立した人なら色々思い浮かぶのですが、作品論・作家論の理論家となると難しいですね。

「作品」あるいは「テクスト」ではなく、あえて「物語」と書いている点に質問者さんの重きがあるなら、微妙に的外れかもしれませんが。

もし、そうだったなら、ごめんなさい。

id:jazyjanjan

8)吉本隆明の理論における「他者」の欠如

は私にはよく分からなかったのですが、作者の「自己表出」と登場人物の「自己表出」の関係について考えると少し面白いことに気づきます。

例えば世の中に対する考えかたを主人公が地の文なり、会話文で発したりするとします。すると、どういうわけか、それは同時に作者の考えかたの表出であるだろうと何故か一致してしまうのです。なんでですかねえ。

2004/10/05 13:07:08
  • id:cj_nano
    (投稿者削除)

  • id:cj_nano
    文学理論について

    > 例えば世の中に対する考えかたを主人公が地の文なり、会話文で発したりするとします。すると、どういうわけか、それは同時に作者の考えかたの表出であるだろうと何故か一致してしまうのです。なんでですかねえ。

    それが吉本言語論の他者の欠如であり、限界だというのが、http://homepage2.nifty.com/k-sekirei/dojidai/daigaku2_02.htmlの方の主張なのでしょう。

    4番、5番と7番の2つ目の考え方、つまり、作品の意味は、作品(作者ではなく)と読者のコミュニケーションによって生まれるという考え方は、読書行為論とか受容美学とか呼ばれます。
    「物語を読む(鑑賞する)ことは*作者*とコミュニケーションすることと同じである」という質問者さんの意図と外れるので、回答では書かなかったのですが。
    とりあえず、『<a href=”http://d.hatena.ne.jp/asin/4062582821”>批評理論</a>』か、もう少し時間があるなら『<a href=”http://d.hatena.ne.jp/asin/4000028685”>文学とは何か</a>』を読み、気になったところの参考文献を遡ることをおすすめします。

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