旧社会党と共産党は、なぜ戦後ずっと仲が悪かったのですか?

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回答(3件)

id:morningrain No.1

morningrain回答回数824ベストアンサー獲得回数22005/03/17 13:24:02

ポイント90pt

この資料を読むかぎり、もともと対立があってそれが片山内閣の発足を機に決定的になったようです。

「片山中道連立政府

 二・一ゼネストは禁止されたが労働者の力はまだ消耗されず、戦闘力を保持し四月の選挙では社会党を第一党におしあげた。右派指導部は組閣工作に入り、自由党、民主党、国民協同党のブルジョア三党を連立の対象とした。連立三条件は極左・極右に反対する、重要機密はもらさない、社会不安を招く行動に反対する、という内容でこれはブルジョア政党からの要求を社会党が呑んだのである。さらに自由党は連立したいなら社会党左派を切り捨てろと右派に迫ったが、左派の党員を入閣させないことで妥協が成立した。

 左派は連立を認め、鈴木茂三郎、加藤勘十の二人の左派指導部は共産党との絶縁を声明して、片山政府は中道連立政府として成立するのである。」

と、書いてあります。

http://www.ne.jp/asahi/nozaki/peace/data/gen_keii1.html

原水禁運動の歩み1(運動面の通史_原水禁の結成前まで)

また、ソ連との関係というのも大きかったようです。

上記のURLは原水爆禁止運動についてのものですが、ここに

「混乱の原因は、ソ連の核実験を支持せよという方針を、日本共産党が打ち出したことにある。日本共産党はアカハタの号外で、「例え死の灰の問題があろうとも、大の虫を生かすために、共産党員はソ連の核実験を支持するように」と主張した。」

とあるように、核実験をめぐって、ソ連支持の共産党とそれ以外の左翼系団体が対立する構図が見て取れます。

また、美濃部都政の頃など社会党と共産党が協調した時期もあったのですが、上記URLのつぎの記述にあるようにソ連がらみのことで対立していったようです。

「この時期の社会党は日本共産党も含む全野党共闘路線をとり、自治体選挙では共産党と共闘し、東京都、大阪府など各地で革新首長を誕生させ、社会福祉の充実などに一定の成果を残した。このなかで、社青同内に勢力を有していた解放派(のちの革命的労働者協会(革労協))などの極左派を排除する一方で、社会主義協会の影響力が組織的にも強まった。親ソ傾向の社会主義協会派の勢力拡大により、佐々木は仇敵の江田と結び、以後、協会派と反協会派の党内対立が激化していった。1975年にソ連敵視を意味する覇権主義反対を明記した日中共同声明を成田委員長が結んだことで、両者の対立はさらに激化した。ソ連崩壊後のクレムリン秘密文書公開により、社会党がソ連から援助を得ていたことが明らかにされたが、当時の社会党執行部はソ連の資金援助を否定した。また、末端のほとんどの党員はそのような事実は知る由もなかった。一方、自民党もアメリカから援助を受けており、自民・社会両党の対立は、冷戦の代理戦争の様相を一時呈していた。」

id:hkt_o

なるほど。

2005/03/17 17:14:23
id:okey121jp No.2

okey121jp回答回数80ベストアンサー獲得回数02005/03/17 14:27:13

ポイント30pt

よくわかってないかもしれませんが....

社会党結党の目的を、

「共産主義にあらざる社会主義政党としての単一政党作り」

として、のっけから共産党との共同戦線の申出を拒絶してますんで、仲の良かろうはずはないんでしょうね。

思うに、左派を自認する方々は、若干語弊がありますが「理想主義者」ですから(「共産」の概念なんて、妬みや嫉みがあったら成り立ちませんから....)他から見て「大差ない」ことでも、全く異なるものとして受け入れ難くなってしまうのかもしれません。

昨今の政党を、主義主張で色分けしろと言ったら、共産党とその他くらいでしか分けられませんが、昔はもっと論理武装してたんでしょうしね。

回答になってます?

id:hkt_o

う〜ん……

2005/03/17 17:14:55
id:TomCat No.3

TomCat回答回数5402ベストアンサー獲得回数2152005/03/17 15:36:55

ポイント180pt

まず最も分かりやすい理由は、組織分裂の歴史です。

 

http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C6%FC%CB%DC%B6%A6%BB%BA%C5%DE

日本共産党とは - はてなキーワード

戦後合法左翼政党として再建された日本共産党は、

再建直後からCominformの指導をめぐって思想的に対立、

運動の方法論も平和革命路線と武装闘争路線の両極端に分かれ、

そこからたくさんの左翼小集団が分立していきます。

 

こうして日本共産党と袂を分かった個人や集団は、

活動の社会的保証を得るために、

もうひとつの合法左翼政党である日本社会党に

組織的に接近していくことになったわけです。

特に当時「砂川」「横須賀」などで武闘が繰り広げられていた

東京西部、神奈川県などでは、

こうした「反日本共産党」勢力も積極的にそれに参加、

組織的にも一部合流して、

日本社会党内に反主流的影響力を持つに至ります。

 

その後、日本社会党は成田委員長時代に、

「反代々木系」、つまり、

日本共産党から分裂した組織を母体に発展してきた

新左翼各派を「友軍」と呼んだなどの経緯から、

日本共産党側はこれを「反共主義」として強く反発。

日本革命の前衛はどこかといった主導権の取り合いも絡んで、

議会では社共の「革新統一」を模索しつつも

社会運動面では完全に対立していくこととなったわけです。

社共統一戦線を望む「革新」支持市民の目の前で、

社会党籍を持つ人たちが多数を占める学生集団と

日本共産党に指導された「民青」が乱闘を繰り広げる、

といった事態が頻発したのもこの時期です。

 

こうした対立は思想的・運動方法論的にも顕著に表れ、

・トロツキー、スターリン、毛沢東らの思想をめぐる対立

・「ソ連の核」の是非をめぐる反核運動での対立

・敵は「日帝」か「米帝」か、

 日本は植民状態なのか独立した帝国主義となりつつあるのか

 といった評価をめぐる反安保運動での対立

・差別は終息しつつあるのか、

 さらに社会的に深く固定しつつあるのか

 といった判断をめぐる部落解放運動での対立

 

といったあらゆる面に噴出して、

原水協と原水禁、部落解放同盟と全解連、といったように、

本来政党とは一定の距離を置くはずの大衆団体も

「社会党系」「共産党系」に分かれるようになり、

対立の構図を決定的なものとしていきました。

 

最後に、トロツキズムに関する戦後の主な書籍を

ご紹介しておきます。

基本的に社共対立の根本は、

国際革命路線か一国革命路線か、

武装闘争路線か議会制民主主義革命路線か、

といった当時の日本共産党の路線対立と、

それに対するCominformによる「指導」(あるいは干渉)

への評価に端を発しています。

これらの対立によって党を割った人たちが日本社会党に鞍替えした結果、

共産主義者以外の社会主義者が主流であった日本社会党は、

「軒先を貸して母屋を取られる」的に共産主義政党に傾斜し、

結果、日本革命の前衛党としての立場の取り合いに巻き込まれた、

といった経過になってきたからです。

その中で、レーニン主義とトロツキズムの対立は、

極めて顕著なものでした。

日本におけるトロツキズム党としては革共同が著名ですが、

日本共産党は当時の「反代々木系」各派を

全て「トロツキスト」と規定していました。

スターリン支持派も毛沢東主義者集団も、

全ては「トロツキスト」だったわけです。

これを「友軍」扱いした日本社会党も

当然トロツキスト集団で、

日本共産党はこうした「反共トロツキスト」との闘争に

全力をあげていたというのが

「社共対立」の根本だったというわけです。

そうした予備知識のもとに

トロツキーをめぐる書籍の著者を

社会党系・共産党系といった色分けで見ていくと、

思想闘争としての、もうひとつの社共対立の図式が見えてきます。

id:hkt_o

なるほど。

みんさん、どうもありがとうございました。

2005/03/17 17:15:54

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