国語の授業で、よく教科書の解説をする前に生徒に教科書を朗読させたりしますが、そのような方法は良くないのではないでしょうか?生徒たちが文学的作者の意図や感情を理解せぬままに、朗読してしまうとなると、ただ字面だけをずらずらと目で追っているのにすぎないのではないでしょうか。これについて具体的に、高いレベルまで踏み込んだご意見をお聞かせください。

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回答(8件)

id:sami624 No.1

sami624回答回数5245ベストアンサー獲得回数432005/03/26 18:23:08

ポイント10pt

音読をすることによって脳(学習活動の要となる前頭前野)が活性化するということが川島先生らの研究で明らかにされたのです。つまり、音読することで、読み上げた内容が頭に残りやすくなるだけでなく、記憶力や集中力などが高まり、学習効果がさらに高まるということなのです。

→生物学的というか医学的に音読の効果が立証されています。単に声を出しているのではなく、音読による集中力等あらゆる面の良さが医学的に立証されています。

作者の意図というのは集中力の高まりにより得られるものですから、音読による集中力の高まりから効果的に作者の意図は把握されます。

何でもそうですが、趣旨を理解しないままに行うものには、効果が現れないのです。

id:kawasakijudy

ありがとうございました。

朗読により集中力を高める効果があるということについて詳しく述べていただき、よく判りました。

教科書を解説した後に、朗読した方がいいと思うのですが、これに関しての意見もお待ちしております。国語に関与させた音読の関係も知りたいです。

2005/03/26 19:12:56
id:TomCat No.2

TomCat回答回数5402ベストアンサー獲得回数2152005/03/26 18:31:33

ポイント40pt

先月あたりでしたか、NHKの深夜放送で、

朗読というものを通して文学を語る、

という企画がありました。


作品を改めて朗読で聞いた新鮮味を作家の家族が語ったり、

あるいは、創作にあたっては作品を必ず誰かに朗読してもらい、

読者の頭の中に響く心の声を把握しながら推敲をする、

といった作家自身の創作の裏話もあり、

大変興味深いものでした。


本来朗読というものはそういう、

演劇とは違った読書時の「心の声」を音声で表すものなんですよね。


そういう位置づけで朗読指導を行っていくならば、

読み手が素人のイモ朗読でも、

聞き手は文章を目で追いながら自分の「心の声」で聞きますから、

作品の理解や新たな発見などに大変効果的なものなんです。


問題は、ただ儀礼的に読み合わせる。

こうした朗読の画一的な用い方にあります。


朗読は、単なる読み合わせではないんです。

聞き手が自分の心の声として消化していく。

聞き手全員が語り手の意識で参加していく。

ここが大切なんです。


ご説の通り、ただの読み合わせとしての意味合いなら、

各自黙読でもさせた方が、考える時間が取れる分、

効果的な指導と言うことが出来るでしょう。


前述の深夜放送では、実際に朗読を担当したアナウンサーから、

演劇と朗読の違いについての、事細かな生の声もありました。


やはり朗読は、作家の立場からも、アナウンサーからの立場からも、

いかに聞き手の「心の声」を引き出して行くか、

聞き手が読み手の立場となって自覚的感覚で作品に引き込まれていくか、

といったことがポイントであるという結論のようでした。


朗読指導のポイントも、ここにあることは言うまでもないでしょう。

重ねますが、ただの読み合わせの位置づけしかないならば、

黙読の時間を与えた方が数段マシ、

ということになってくるかと思われます。

id:kawasakijudy

はい。私もそのように思います。何の知識もない状態で、「読め」と言われて読んだところで、何かが得られるとは到底思えないのです。心構えというか、前もって踏み込んだ知識がないと、「朗読」ということの意味は底抜けの努力にしか感じられないのです。とても良い参考になりました。

2005/03/26 19:16:43
id:marumi No.3

marumi回答回数2608ベストアンサー獲得回数32005/03/26 18:34:09

ポイント5pt

http://book.asahi.com/

asahi.com:朝日新聞社の書評サイト「アサヒ・コムBOOK」

具体的に、高いレベルまで踏み込んだ意見にはならないと思いますが、生徒たちが文学的作者の意図や感情を理解せぬままに、朗読してしまうとなると、ただ字面だけをずらずらととありますが、最初はそれでいいと思います。生徒に読ませて読みながら解説を自分自身で理解していくほうが大切ではないでしょうか?

id:kawasakijudy

はい。それは大切です。でも、自分自身で理解することは、独断と偏見の領域です。その後に、先生らが教科書的な説明や解説をするわけですよね。すると、生徒は色々と納得し、学ぶことができるのだとそう思うのですが、この「無駄」な努力といいますか、この過程はたいして必要性があるものかどうか、ということなのです。つまり、結論的に、黒板に書く内容を察知した後に、朗読した方が、遥かに効率的なのではないか、とそのように考えるのです。斎藤孝氏の本の中で、「国語は体育である」といったフレーズがあり、この場合、体育で余計な運動は身体を疲れさせてしまうので、できるだけ効率的にやらせたい、とそう思うのです。身体をほぐすのとは別次元の問題だと思うのです。

また、これはmarumiさんのコメントとは関係ないのですが、予習をしていない生徒、予習をする生徒、この二方にわかれた場合、教育的な立場における視点に於て、どちらに授業を合わせるか、というと、「予習済みの生徒」であり、授業は予習を前提に行われるものであると思うのです。したがって、効率的にできるだけ生徒主体の、生徒のためになる、無駄なムーヴメントのない授業の方法論があるはずなのです。

2005/03/26 19:26:37
id:hiroyukiarita No.4

hiroyukiarita回答回数1792ベストアンサー獲得回数02005/03/26 18:38:36

ポイント10pt

http://www.meijitosho.co.jp/shoseki/shosai.html?bango=4-18-64970...

明治図書ONLINE>ブックストア>書籍>国語>授業への挑戦135 子供が創る「音読・朗読・群読」の学習 低学年編

黙読より朗読の方がいいと思います。

これで、授業が終わったとか、出てくる漢字だけ学んだという、印象を児童や学生に与えてはいけないと思います。

その後、個人でもグループでも話し合わせて、作者の書きたかったことなどを気づかさせる授業にすればいいと思います。

教科書は、文学のエッセンスでありますが、読めばいいと言うわけではないと思います。

id:kawasakijudy

教科書を読む作業は重要なことなのです。それは多くの医学的、乃至、科学的な分野に於て、既に証明済みであり、まさに1の方の意見がそれであります。朗読はもちろん黙読より何倍も効果的です。その通りだと思います。黙読でも朗読でも「読む」作業をする以上、そうなのですが、結局、一つの次元に止揚される過程に於て、無駄な動きを可能なくらい省いてやりたいのです。個人やグループで話し合うのはとても効果的なやり方です。ただ、ある知識を朗読の前に生徒の脳にインプットさせた上で、朗読をした方が、かなり効率的なのではないでしょうか?この何も持っていない状態でさせられる、意味不明な朗読の根拠がわからないのです。予習で既にわかりきっていることでありますし、国語の授業に対して真面目な姿勢で望んでいる生徒というのは、相当暇をもてあましていると思うのです。高校の授業ともなり、この程度の指導ではいけないとそう感じるのです。

2005/03/26 19:36:31
id:Shouldgo No.5

シュうぇッチマン回答回数175ベストアンサー獲得回数12005/03/26 19:41:33

ポイント40pt

国語教師です。

経験に基づいて私見を述べます。


結論からいうと、質問者の方と同意見です。つまり、あまり意味がない。


大切なことは、「朗読」の定義です。

私の考えでは、「朗読」は内容や音声効果などを含めた高度な理解が前提となります。

落語や演劇の稽古と同じで、相当な技能が要求されます。


また朗読の聞き手は、聞くことに集中し、ひたすら耳たらんとするので、感動が生まれます。


ところが、初読段階での音読=棒読みでは、そうした効果は期待できません。

読み手も下手ですし、聞き手も聞くことに集中できないからです。

むしろ黙読、もしくは教授者が範読するのを、学習者は教科書を伏せ黙想しながら聞くというほうがはるかに効果的だと思います。


ただし、教育現場からの基本的な意見としていわせてもらえば、漢字の読みを確認させるという目的もありますし、昨今は単位数=時間が少ないので、一回の通読で間に合わせてしまう事情があるのも事実です。


ただ声に出せばいいというものではないというご指摘はとても大切なものだと思います。

id:kawasakijudy

はい、その通りです。漢字の読み方や、リズム(文節などの切れ目)を理解させたり、どの文章に重点をおくか、など音読一つで全て理解可能だと思います。漢文の授業で、50分の授業で、先生が7回ぐらい永遠と読ませられた記憶がございます。古典の授業では大事なことだと思うのですが、現代文にあたってはそれよりも、内容に踏み込んだ考え方が重要なので、朗読の必要性を感じてもらうにはどうすればいいのか、という強い考えがあります。単位数が少ないことも、確かにShouldgoさんの言うように、大きな制限としてあるのだと思います。どのような授業が効率的なのでしょうか、生徒を飽きさせないのも教師の与えられた技量にかかっていると思うので。雰囲気を変えるのも教師の力ですし。

2005/03/26 19:50:46
id:hiroyukiarita No.6

hiroyukiarita回答回数1792ベストアンサー獲得回数02005/03/26 19:53:17

ポイント20pt

高校生には、授業中の音読は不要でしょうね。

小学校か中学校かと思っていました。

予習してあれば、即討論形式でいいと思います。

ある語彙について質問すれば、予習していなくても、その場で読んで十分理解すると思います。


または、その本の、前後を想像で書かせたり、実際の書籍と比較するとか、同分類または同じ作家の本を比較して読ませたりするといいと思います。

受験を目指すなら、過去問等で、どの辺が問題たり得るかなどと言うのも、おもしろいと思います。

id:kawasakijudy

同じ作家の本を比較して読ませるのは、とても良い方法ですね。参考にしたいです。例えば、樋口一葉の「たけくらべ」にしても、昔の古語文体のままで、プリントにして生徒に配るという方法も、よく授業ではやってましたね。

やはり、討論形式がベストなのでしょうか・・・。討論形式は、生徒の自主性を重んじる点においては高い脳活性の場になると思います。また、他人と比較することで自分の考えを切磋琢磨できますから。もっと、良い効率的な指導要領があればよいのですが。

2005/03/26 20:51:53
id:sami624 No.7

sami624回答回数5245ベストアンサー獲得回数432005/03/26 20:53:48

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http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4569628133/249-1106385-...

Amazon.co.jp: 「超」MBA式ロジカル問題解決: 本: 津田 久資

では、教育とは何のためにあるのか。実社会において直面する、様々な問題を効率よく適格に解決していくためのスキームを構築する能力を養うためである。→これが私見です。実社会で直面した問題を解決するために、①事実関係を調査確認し②事実に関わる法律・慣習・その他制約要因を確認し③本来あるべき姿との相違点を認識し④想定されるあるべき姿を創造し⑤あるべき姿実現により発生するリスクとコストを明確にし⑥あるべき姿を実現するためのスキームを構築し⑦あるべき姿を実現する。

http://www.bunka.go.jp/english/1/3/toushin.html

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世の中の多くの場面において、直面する問題には必ず相手がいるわけです。相手を説得させるため、もしくは相手の言動を理解するために、言葉を使うのであり、言葉により相手を理解するのです。

→人間は言葉を理解するのであり、第三者に言葉の意味を伝授してもらうわけではないのです。昨今の児童に創造力が欠落している要因として、与えられた答えを覚えこむ教育が主体となっていることが議論されていますが、正に本件の論点と同様なことなのです。

大切なことは、仕組みを理解して答えを導き出す能力を養うことなのです。また、学校の教師に真にその能力があるのか否かという疑問があるのも事実です。画一的な授業は教育ではなく、創造性を培う土台の育成ではないわけです。よって音読により集中できる機会が出来、自ら文学を理解するスキームが学べればよほど真の教育に近いものでしょう。

以前遠藤周作が自分の小説が大学の入学試験に出題され、自分で解いてみたら半分しかあっていなかったというエッセイを書いていた。この事実は、大学の教授でさえ著作者の真意を理解できないことがある、ということを暗に皮肉った作品な訳です。ちょさくしゃが生存していればまだしも、短歌や古典といったものは著作者の真意は確認することが先ず不可能でしょう。その中で、著作者の境遇や当時の社会的環境を手立てに、作品の意図を考え創造することが教育であり、画一的なものの考えを押し付けることが教育とは言い切れないというのが私見です。

→音読が全ていいわけではないでしょう。これは、教育というものの本質を理解した児童がすることによって効果が発生するものなのです。何でもそうですが、物事の本質を理解できていない者は、本質を理解させることが教育なのです。国語の問題より別な部分に論点があるわけです。

id:kawasakijudy

僕は国語の現代文の授業において重要なことは、レトリック(修辞法)や、漢字、誤字脱字、熟語、比喩などの理解、というよりかは、論理的な「システム」の方が重要だと考えています。「システム」を主体にした方が、生徒の飛躍的な進展が望めるからなのです。という状況で、このmakimakiというサイトは特に参考になりました。ありがとうございます。

2005/03/26 21:01:40
id:zaikk No.8

zaikk回答回数192ベストアンサー獲得回数22005/03/26 21:35:53

ポイント10pt

先生が先に教科書の解説をしてから音読させる方法は、先生の話をよく聞く生徒には有効だと思います。ただし、そういう子はどんな勉強方法でも、ちゃんと理解するように思います。ケシゴム削ったり、ぱらぱら漫画を書いて遊んでるような子には、効果が薄いと思います。

また先に解説することで、自分で考える力を養うことができなくなるのではないでしょうか?

たとえば、先に解説をするのではなく、音読の後に行う先生からの質問事項事項を述べておき、それらの質問に答えられるように音読させると良いのではないでしょうか?

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Amazon.co.jp: ドラゴン桜 (1): 本: 三田 紀房

週刊モーニングの「ドラゴン桜」という受験漫画の最近の回で、「先生が音読し、生徒が復唱するのが効果的」という話がありました。


英語のリスニングの勉強方法だったのですが、国語でも同じだと思います。


曰く「復唱しようとすると、先ず先生の音読を注意深く聞くために耳を働かせ、次に復唱するために口と耳を働かせる。五感の内の多くの機能を使ったほうが、強く記憶に残る。」のような根拠でした。

id:kawasakijudy

音読した後に、生徒が追う形で音読するやつですよね。何って言うやつだったか忘れましたが、これは非常に効果的なやり方ですよね。素晴らしく効率的な手段だと思います。

ですよね、確かに生徒の態度にもよると思います。真面目な生徒、不真面目な生徒のどちらに合わせるか。これは非常に簡単そうで気難しい問題のようです。なんで予習してこねぇんだよ、といって怒ればいいかというとそうでもないですし、真面目な生徒に合わせると、教師の偏差値が下がるでしょうし。教師じゃないのでわかりませんけど。

2005/03/26 23:04:23

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