http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%B5%D2%B4%D1%C5%AA&...
国語辞典 英和辞典 和英辞典 - goo 辞書
ほんの一部の人を除いて不可能と考えられます。
現代では様々な考え方の人がいて、価値観の相違が認められる傾向にあります。
少し汚い言葉でいうなら、「法に触れないことなら、多少の非常識はいい」ということになります。
その中でも更に「多少」に含まれる範囲に対する考えが様々あり、今の世の中は混迷しています。
結論的に「生き神様」といえるまでに心が寛大な人以外、「客観的にものを考えること」はできないでしょう。
http://search.yahoo.co.jp/bin/search?p=%B5%D2%B4%D1%C5%AA+%A4%C8...
Yahoo!検索 - 客観的 とは
[形動]
1 主観または主体を離れて独立に存在するさま。
2 特定の立場にとらわれず、物事を見たり考えたりするさま。「―な意見」「―に描写する」
http://dic.yahoo.co.jp/bin/dsearch?p=%bc%e7%b4%d1&dtype=0&am...
Yahoo!辞書 - すべての辞書 - 主観
対義語は主観ですね。つまり主観から離れて、物事を考えられるかという問題に帰着できます。
客観的に物事を見るということは、自分を無くす行為です。
なにに基準を置くかというと周囲の環境、
つまり道徳や常識、社会の習慣・性質というフィルターを通して物事を考えるということです。
それは、多くにおいて可能ですが、限定的ではす。
客観的ではありますが、厳密にいうと属している環境に依存するからです。
しかし、そこを論点とするのはあまり効率的ではありません。
それは、言語の問題からはずれるからです。
言語として、
「客観的にものを考えること」は可能かと聞かれれば、その答えはYesです。
常識などのフィルターを通して物事を考えるということで可能です。
ありがとうございます。
「常識などのフィルターを通して物事を考える」というのが「客観的にものを考える」ということですね。
違う「常識」をもつ集団に出会った時にはどうなるのでしょうか。
ちょっと失礼します。
思考、と云える程度の情報処理を行える能力を持っている生命体は、全て自分の感覚器を通じて受け取った外界からの情報を自分の内部で処理して、外界へフィードバックします。この点に於いては、思考は全て「主観」であると言えましょう。思考が高度になると、所謂「シミュレーション」する事が出来る様になります。自分の主観を意識して、思考の対象から外して、第三者の立場からシミュレーションして思考することを、世間一般には「客観的にものを考えること」と呼びます。
これには時々、と云うか、よく誤解が起こります。客観的思考の定義が先に有り、完全な第三者となって思考する事を意味する、と考えてしまうのですね。思うに、「『客観的にものを考えること』は可能か」と云う質問は、ここら辺が引っ掛かって居る場合が多いかと思います。
確かにこれだと、客観的にものを考えることは不可能になってしまいます。先に述べた様に、思考は全て主観のもとに行われますから。
主観が有る事を自覚できた上に客観は有るのです。自分が御膳に向かっている事を理解できて初めて、「御膳を向け変える」(違う視点に立って思考する)と云う発想が出て来るのですね。
だから、主観をもとに「客観的にものを考えること」をシミュレートすることを、「客観的にものを考えること」と呼ぶ訳です。大体、それ以外に客観的思考等、出来る訳が無いので。
大まかには、こんな処と考えて差し支え無いでしょう。
まずは御話まで。御役に立てれば幸いです。
ありがとうございます。
その通りだと思います。「客観的にものを考えること」の前提として、「考える」主体が「自分」であるということですね。
確かにその通りなんですが、もう一歩進めて本当に「客観的にものを考えること」は可能かどうかを考えてみたいです。
url=dummy、再回答です。
>「常識などのフィルターを通して物事を考える」というのが「客観的にものを考える」ということですね。
>違う「常識」をもつ集団に出会った時にはどうなるのでしょうか。
違う「常識」をもつ集団に出会った時というのは、もちろん価値観のずれが生じます。
しかし、言語学的に「客観的にものを考えること」は可能かと聞かれれば、
その価値観のずれは無視されます。
各々が「客観的にものを考えた」結果に差異が出るのは当然の事です。
それは客観的といっても、結局は自分の持っているフィルターを通した考えだからです。
このフィルターは厳密にいえば、個々がそれぞれ別の物を持っている。
しかし、そのフィルターが多くの考えを理解していれば、グローバルな視点から物事を見れます。
客観性の強弱はどれだけ多くの知識(=フィルター)を持っているかに左右されます。
話が長くなってしまったのでまとめます。
言語学的に言えば「客観的にものを考えること」は可能です。
しかし、それが全ての人において共通であるかという点においては差異がでます。
それは、個々のフィルターが違うことから帰着します。
ありがとうございます。
「言語学的に」というのがよくわかりませんが、「客観的にものを考え」た結果には各々に差異があるということですね。ということは結局違う「常識」をもつ集団に出会った時には共通の理解が得られないということでしょうか。
1番の方、再回答分は別々にポイントをつけますので再回答お待ちしております。
http://www.bbc.co.uk/radio4/index.shtml?logo
BBC - Radio 4 - Home
urlはダミーです。
「考える」のは主体である自分ですから、そこから抜け出すことは難しいと思います。
なので、「出来るだけ客観的に」ものを考えることなら可能だと思います。
そもそも主観あっての客観ですし、今まさに、この問いを「客観的に」考えようとしているのでは?
ありがとうございます。
置かれている状況下において、なかなか難しいものだと思います。
(突発的に窮地に立たされていたり生命の危険にさらされていれば冷静さを欠くので更に難しく、予想内の出来事であれば色々考えられたりなど)
また、どの程度が客観的に物事を捉えられたかということは個々の主観によりますので他人同士で比べたり計るのはとても厳しいです。
けれど客観的に物事を考えようと思う時点で少なからずそうではない自分を意識していると思います。
「客観的に」といっても、当人の主観による思考から派生して別の考えや選択肢が増えているわけですから、主観が関わっている以上、ご質問への回答としては不可能だと思います。
ただし、当人が「客観的に考えた」といえば自己満足レベルでは可能ということです。
以上、私個人の主観による考えです。
ありがとうございます。
アドレスはダミーです。難しいですね。ちょっとずれてしまうかもしれませんが。自分の発言,例えばスピーチ等を時々録音してます。それを自分で聞くことにより,原稿を修正したりしてます。擬似的にではあっても客観的に評価できています。後は,こうした工程が加わるので,判断したいものを早めに用意して準備しておくよう努力しています。
ありがとうございます。
なるほど!そういえばそういう切り込み方もありますね。
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?qid=55517
[教えて!goo] 認識者を想定しない「客観的実在」とは?
客観的実在を元に複数主体で議論することで、客観的にものを考えようとする努力をすることは可能ではないでしょうか。
ありがとうございます。
深いです。複数の範囲にもよりますね。
①先ず冷静に事実認識をすることが出来れば、客観的な思考は可能でしょう。
②大方の人間は過去の経験則や憶測・記憶で事実認識をしようとするため、客観性が欠如するので、冷静な事実認識が必要です。
③また、考えるに当っては法令や慣習等一般大衆の公的基準に基づき思考過程を構築することです。
④前述のような過去の経験・憶測・記憶に基づき判断・思考過程を構築すると主観的になります。
ありがとうございます。
①と②の「冷静」というのがどの程度のものであるのかがわかりにくいですが、③を気をつければ客観的な思考は行えるということでしょうか。
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?id=0471610-0000&kind=...
国語辞典 英和辞典 和英辞典 - goo 辞書
レンズの歪んだカメラで認識する映像を主観とします。
客観がもし存在すると、
歪んだカメラ側にいる主観としての私には、その客観の元の姿を再現することは、とても難しそうに思えます。
ただ、歪んだカメラ側にいる主観としての私は、孤立しているわけではなく、多数が存在し、それぞれが認識した映像を互いにギブ&テイクできます(ただし、それも、歪んだカメラ越しでやりとりされます)。
これらの歪みの誤差を差分していって、客観を推測することは、ある程度、可能だと思います。と、ぼくは主観的にとらえています。
ありがとうございます。
興味深い内容です。
URLダミーです。
演劇を楽しむ客のように、物事の当事者以外の立場であれば「客観」的
な立場に立てるのではないでしょうか。
この時に何か考えたりしたらそれは「客観的な考え」(当事者から見て)。
遠い国のニュースをコタツにあたりながら見てたりして
「自然災害は怖いねぇ・・」というのはコタツの人としては「主観」ですが、
災害の当事者だと客観的に見ていると捕らえられるのではないでしょうか。
ゆえに、当事者と傍観者(客)がいれば客観的な考えは
存在することになり、客観的に考えることもまた可能だと思います。(客になる)
したがって回答としては「YES」といたします。
ありがとうございます。
http://www.rica.ath.cx/toshi/archives/2005/04/post_349.html
blue log 2nd: 主観的意見と客観的意見
思考の基礎になる事実を集める段階で、
主観のフィルターが入っているので、
客観的に考えることは相当難しいです。
ただ、一人ブレインストーミングのように、
たくさん考えを出して、比較することで
ある程度、客観的な物の見方が可能かとは
思います。
ありがとうございます。
一人ブレーンストーミングってありですか?
人間である以上、感情、欲、その他etc...による妨害が入ります。
ただ考えるだけならば、コンピュータにさせればいいです。ゆえに可能です。
しかしあなたが求めているのはおそらく前提に人間が入ると思います。
最初に述べたように、人間である以上感情(以下省略)が着ます。
感情などの妨害が入る以上、どのような主観認識を破棄したとしても僅かに混入します。
ゆえに、感情を完全に破棄する人間。たとえば仏陀とか。とかならば可能だと思います。
ありがとうございます。
仏陀とは盲点でした。確かに彼なら可能ですね。「悟り=完全な客観的思考」ということでしょうか。
ありがとうございます。
「価値観の相違」と「法に触れないことなら、多少の非常識はいい」のつながりと、それらの事柄と「客観的にものを考えること」との関係をもう少し詳しく教えて頂けないでしょうか。ポイントはまとめてつけさせて頂きますが、再回答お待ちしております。