海援隊の医官、山本洪堂(山本復輔)についてご存知の方、ぜひお教えください。

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  • 1人2回まで
  • 登録:2006/05/09 13:56:15
  • 終了:2006/05/16 14:00:03

回答(4件)

id:marumi No.1

marumi回答回数2608ベストアンサー獲得回数32006/05/09 14:05:23

id:nexter

参考になりました。どうもありがとうございます。

2006/05/09 14:39:53
id:taka27a No.2

taka27a回答回数3149ベストアンサー獲得回数642006/05/09 14:06:07

id:nexter

参考になりました。どうもありがとうございます。

2006/05/09 14:40:46
id:aiaina No.3

aiaina回答回数8179ベストアンサー獲得回数1312006/05/09 17:29:11

id:nexter

素晴らしい。始めて見るサイトでした。ありがとうございました。

2006/05/09 21:01:08
id:shusan1031 No.4

shusan1031回答回数1ベストアンサー獲得回数02006/05/09 20:34:10

ポイント22pt

  現状では資料不足で詳細は不明だが、前後の状況からして亀山社中が結成されて間もなく参加したものと推測されており、記録上では慶応二年十二月二十日の、坂本龍馬から伊藤助太夫宛の書簡が初出である。その後海援隊に参加し、陸奥陽之助等と共に大阪に駐在して商事活動を行っていた。

  龍馬の死に際し、其の事実を知った山本洪堂は同僚の佐柳高次と共に、慶応三年十二月十二日に下関に至り、凶報を伊藤助太夫や三吉慎蔵に伝える大役を果たし、その後に一旦長府の三吉慎蔵邸に移っていた傷心のお龍を、長崎に迎えるのに一役買って其の大任を果たしている

その後一旦長崎に帰り、慶応四年一月に勃発した長崎奉行所西役所占拠に参加して、他の在崎の海援隊士と共に行動し活躍している。

  そして元天領だった天草富岡代官所襲撃事件の鎮撫に、同僚の吉井源馬と向かい、見事に鎮圧に成功し其の重責を果たしている

維新後は大阪に移り、医者になったとの説もあるが定かではなく、明治初期の官員録の明治六年六月二十日の項に、「開拓使・八等出仕・山本洪堂」とあり、新政府に出仕していたとも推測され、詳細については今後の調査を待ちたい。

  その後の消息は不明で、没年、墓所も不詳である

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