一個人としては 死刑より 無期懲役の方がつらい感じに思えてしかたありません。 殺人犯なんて 特に 人を殺して 生きているのは辛いでしょう 死刑の方が 無期懲役より 望んでるのではないでしょうか?
それにしても 日本って 詐欺罪や窃盗罪には 甘いですね 覚せい剤とか 人に害を与えてないのに 懲役3年とかなるのに オレオレ詐欺とか オークションなどで 多額の詐欺をした 奴等は 懲役1年とかですから まあ 刑務所からでてきても 死ぬまで 生き地獄だと思いますが・・・・
ちなみに 覚せい剤などが 罪にならない国って先進国であるのでしょうか?
近代国家において、刑罰とは「応報」ではなく、社会的矯正・教育の一環のためにある、と認知されているはず。従って死刑は
・明らかに犯罪者個人に対する「教育的効果」は無い(死ぬから)
・周囲に対する「見せしめ」効果は期待できるが、周囲を教育する「ために」犯罪者が死ぬべきだというのは、周囲を教育するコストを個人に不当に負わせていると解すべきである。よって、刑罰を「見せしめ」のために実行するというのは、個々人の基本的人権を保証した近代国家の刑罰観として馴染まない。
という二点から、明らかに教育的とは言えず不当な刑罰です。その意味でTomCatさんの意見に同意です。また「死刑が無くなれば凶悪犯罪への歯止めが…」という意見に対しても、実は「死刑が凶悪犯罪の歯止めになるというデータ」が無いという事実に注意したい(参考:アムネスティ死刑廃止ネットワークセンター)。むしろ、異常に残虐な殺人を行った犯人がしばしば自暴自棄の状態で「死刑になりたいから(死にたいから)やった」などと口走るのも見逃せません(最近では池田小事件の犯人の言葉が記憶に新しい。)。この場合、極論すれば死刑制度は残虐な殺人をむしろひきおこしているとさえ言えます。効果が証明できず、害が目に見えている制度を、「復讐したい」というどちらかといえば非常に感情的な理由で持続するのは理性的な判断とは言えないでしょう。
ただし、そういう「感情的な理由」を全く無視して社会が維持できるわけでも無いとは思います。死刑を廃止に導く(そのために社会的な準備をし、コンセンサスを醸成する)ためには長い時間がかかることを覚悟すべきです。現時点の制度存続はあくまでそれまでの「過渡期的措置(つまり、上記のような教育を行わずにいきなり死刑を廃止すると、『敵討ち』が復活しかねない。これが、社会的なコストが非常に高い、無意味な政策選択であることは言うまでもないでしょう。事実上それは、一人の死者を「慰める」ために、常にプラス2名(犯人と、仇討ちする人)の社会的活動を「死なせる」ことであり、それは一種の殉死と言えるでしょう。)」として、日本においてはやむを得ざる「死刑執行」が存在しているのだと思います。
というわけで、
>いかなる理由があっても、国家が人を殺すことがあってはなりません。
というのもその通りだと思いますが、それは理想目標であって、過渡期の現実として死刑が存在する社会、及び死刑の社会的効果は認めざるを得ないでしょう。
…と書きましたが、これは反対意見ではなく、「~廃止を目標として」と書かれたTomCatさんも基本的には同意見なのではないかと思っております。
余談ですが、死刑を廃止にする以上、基本的にあらゆる刑罰は無期懲役であるべきだと私は思います。それは、犯罪者が少なくとも社会適合できる段階まで「更生」しかつ社会に与えた損失を償い終わるまでの時間は、人により様々だと考えるからです。その意味で、オークション詐欺、オレオレ詐欺をした人は「損失を償い終わるまで」数十年~一生収監されてもやむを得ないと思いますね。
あと、麻薬取締法違反については、最低限「自分自身をダメにした」という意味で社会的に損失を与えたと思いますし当然「更生」にもそれなりの日数がかかると思いますので、3年という日数が不当だとは余り思いません。
国家が人を殺すのはよくないですが 被害者の家族が望むなら 被害者の家族が殺すのはいいのでは・・・。 ウォッチリスト登録どうも。
刑事罰を「報復」と考えてはいけませんよ。
報復、敵討ちの考え方で刑罰を利用しようとしたら、
もうそこで社会の安定も秩序も崩れてしまいます。
そして、そういう殺伐とした社会のあり方が、
さらなる犯罪を産む温床となっていくことでしょう。
ええと、つまり、以下私の考えなんですが、
まず国家というものの歴史というものがあります。大日本帝国、etc。お分かりかと思います。国家とは=行政府、立法府、司法府でして、会社と同じく1人の人間として見做されます。法人格ですね。法人格とは、1人の同等の人間に過ぎませんよ、ということです。
すなわち、1人の人間(国家法人格)というものが昔からあって、それが大日本帝国等まで人権侵害が塊だったわけです。
つまり、国家といっても実際にはそこらのおじさんの集まりです。それが、抽象的に国民を代表する人間、国民の上に立つ人間であるなどと国民の上位に立つことは許されません。国家も、ひとりの過ちを犯し易い、精神的に弱い、危ないヒトなのです。それを絶対前提として作ったのが、今の法律なんです。三権分立、司法制度、あらゆる国家システムは、国家という単なるおじさん集団の暴走に歯止めを掛けるシステムになっています。
その時に、そのような流れからも「国家が殺人=死刑することは許されない」と、当然なりました。しかし、「抑止・全体教育のためなら少しは構わない」となったものとも言えます。
私の考えでは、ここが国家の自己矛盾で、はてなのみなさんが悩んでいるポイントなんだと思うのです。
死刑、というのは悪いこと、殺人でも何でもかまいません、とにかく悪いことをした人間の、ベッドルームに、他人が無理やり踏み込んで行って、妻子が見ている前で亭主(犯人)を拉致し、そのまま、みんなで寄ってたかって殺してしまう、という行為なのです。いくら裁判をしても、公明とは言えません。なぜなら結局は、みんなでよってたかって殺してしまう行為には違いないからです。
国家が法に従ってやろうとなんだろうと、殺人というのは、「ヒトの持つあらゆる法益の全て、権利の全てを一瞬で奪い取る最高の人権侵害」と言われているのです。これをあろうことか国家が行うことは本来的にどんな理由があっても許されない、というのが死刑廃止論なのです。
犯罪抑止目的ならヒトはヒトを殺害しても良いのか?、国民の教育目的ならヒトはヒトを殺害しても良いのか?、それでは見せしめだが殺害は可能か?、…駄目ですよ、というわけですね。ところが今はそれをやっているわけです。厳密に言えば、「報復死刑許されずも、教育・犯罪防止目的なら死刑は可」という議論は、あまり意味が無いのですね。それが死刑廃止論かと思います。
つまり、おっさん集団に殺人許可を渡すことは是非において非である、というだけの話になる筋道ですね。
あくまでも、私の考えですが。
しかし、昔から死刑制度は当然のように存在しました。それも一方事実です。
一方、はてなでよく見ますが、「ヒトを殺したヤツ(意図的・残虐的)が、報復というよりもその当然の代償として殺されることが、何故いけないんだ?」、「社会常識として、殺されても文句は言えないはずだ」という意見です。
上述の理論から言えば、何故死刑にならないかと言えば、単に、殺す権利があるヤツがいないだけ…となります。それが「死刑にすればいいのに、死刑にならない」問題に過ぎないのですね。
あくまでも、私の考えでは、「殺されて当然」これはこれで、原始的な人間の本能です。まあ、ただ、犯人であることを理由に、犯人を殺して良い人間が存在しないだけなんですが。
逆に、さらに、よーくよーく考えてみれば、もし自分が犯人なら、罪の無い児童を残虐に殺したら、お返しに殺されてもいいかもしれないなあと思えます。
そう思うと、これらの主張も、そりゃ人権も等価なんですから、目には目をではなくて、「あくまで等価なんだから」逆に言えば、「死刑も当然、何の議論が要るっていうんですか?、理論も理想も不要です、人間として当然ですよ、等価なんですから。」、という一般的生活感覚を語る常識論的趣旨とも受け取れるのです。
そういえば、太古の昔から、そういう常識は世界中にあったのですね。
結論、
国家が抱える死刑制度に関わる矛盾は、人間として当然のこととう常識的観念、VS、国家(単なる危ういおっさん集団=法人格)の在り方、という矛盾なんですね。
既に国際的な趨勢として、死刑という制度は廃止の方向に向かっています。
日本が真の国際化を果たしていくためには、
死刑廃止を目標とした新しい刑事罰の体系の確立が欠かせないことでしょう。
いかなる理由があっても、国家が人を殺すことがあってはなりません。