私は基本的に小説というものを読みません。
理由は、①表現が回りくどい、②ある程度読んでつまらないと思った作品だと、それまでの時間が無駄に感じる③立ち読みして面白そうなのか全く判断がつかず、買う(借りる)機会がないからです。
例外として、歴史小説・自叙伝・ノンフィクションといった事実に基づくもの(知的好奇心を充たしてくれる)、シドニーシェルダン(表現が簡単、すぐ読める、単純に面白い)は大好きです。
小説が好きな方、嫌いな方はこんな私をどう思いますか?(好きな方は上記①~③の理由についてどう思われますか?)
又、小説を読むことでパーソナリティーに与えるものって何だとおもわれますか?(例えば感情表現が豊になる等)
最後に、「この一冊はお薦め」というのがあれば、是非、ご紹介願います。愚問ですいませんが。
『読書』と『学習』の二つと『思索』との関係。。
思索は対象がA)客観的関心かB)主観的関心により燃え続く。
A)は自由闊達な思索ほど、天分に恵まれた頭脳に特有のものである。
B)は利害に囚われた思索に陥りやすい。。
今の時代のように個人主義、自己主張主義の社会ではb)が大きな力を持ち、己の利害を障害するA)の思索を抑えるように感じる。。?!
本当は、マスコミでこういう方たちの見識を見聞きしたいのに。。
読書は思索誘導を導くが、思索と読書の間には精神への影響で大きな開きがある。。
多読は精神から弾力性を奪い、学問をつむにつれ、本来目指すべきの知性と反対の自己弁護主義の傲慢な精神へ陥る心配がある。。?!
法や命令を理解することなく、ひたすら何も考えることなく従い、多勢主義、世間通用の偏見、権威に囚われる。。
①、②について、感じるのは人それぞれなので、
他人がとやかく言うことではないと思います。
③の立ち読みしてとありますが、私は本を買うときは
タイトルと裏表紙だけしか見ないようにしてます。
立ち読みしたら、全ておもしろく思えなくなるからです。
パーソナリティーに与えるものって何か一つのことだけではないと思います。
いろんなことが積み重なって、パーソナリティーに影響してくると思います。
私は小説も好きですが、漫画も雑誌の記事も掲示板も全部好きです。
おもしろくなくても無駄だと思うことはありません。
もっとおもしろいものを探し続けてる一過程だと考えたらどうでしょうか?
江藤 淳 の引用文の断片の趣旨は、お伽噺のハッピー・エンドに満足
していた中世の読者が、近代になって、敗北のリアリティに関心をもち
はじめた、というところでしょうか?
乃木希典(62)殉死、西郷隆盛(49)敗死、吉田松蔭(29)斬死、と
列挙した江藤 淳(66)自死、遺書に「形骸を断ず」。
この人たちは、後世の読者を意識した、生来の演技的人格ですね。
takokuro さんは、日常生活の深刻な問題に直面したら、いつも小説
を読んでるSくんと、歴史に詳しいRくんの、どちらに相談しますか?
マンガばかり読んでるMくんはさておくとして……。
大衆心理の根底に、失敗したり敗北者に対するシンパシーがあるのを思う。。彼らを主人公にすると人生のリアリティに涙をそそり、作品として大衆に受け入れられる。。一寸法師は鬼を退治し、シンデレラは王子様と結ばれる・・そういうことは少なくとも自分自身には起こりえない、そう悟った人間が近代小説のリアリズムに魅かれる。(乃木希典、西郷隆盛、松蔭・・然り。。 (江藤淳より)
客観的判断で世界から展望すれば、明らかに政治的失敗であることでも、そのことに焦点を合わせず、マスコミが人情に訴える身近な焦点で報道をするのは如何なものか。。
歴史小説には歴史資料と違った意義があるとは思うのですが。。?!
大変、興味深く拝見させて頂いております(多くの本をご推薦頂き、ありがとうございます)。
読者は小説を読むことで、日ごろ漠然と感じてるものの言葉に表しきれない気持ちを作品を通して、整理、確認するのではないでしょうか?
又、日常、全く気付きもしなかった無自覚の視点を小説を通して教えられたり、感動したり、、
作家によりユーモアの種類も人間が大好きでたまらない人や反対に人間社会の醜さを忌み、糾弾すべく情念?を煮えたぎらしてるような作品もある。。
これから成長しようとする若い心に“毒”書はポルノやオカルト、だけでなく、新たな分類もあるのを思う。。最近、ネット小説には、多いと聞きます。。(例、ディープ・ラブ)
一方で、オカルトの反対、ファンタジーが若者に支持を得てるのも、、社会の歪を反映してる?!
小学時代で卒業するはずに思うのですが、、、不思議の一つです。。
少し誤解を生む言い方ですが、基本的に小説家というのは文章を書くのがうまい人間ではありません。
能力としてはまず第一に空想力や構成力であり、意外に小説家の書く文章というのは下手糞なものが多いのです。
ちなみに、何を以って文章を書く能力が高いとするか。
敢えて一つ挙げるとするならば、私は
【いかに「短い」文章で「簡潔」に読み手を理解させられるか】
というものが、文章力ではないかと考えています。
そういう意味で、本当に文章がうまい人というのはエッセイストや新聞・雑誌の名コーナー担当者ではないでしょうか。
思うに、小説家はページ数や文字数に対する制限を日ごろ意識しないため、だらだらだらだらと書き続けてしまうのでしょう。
対して、400字以内や800字以内でまとめる事を義務付けられている人というのは、文章力が非常に高い場合が多いです。
「小説読んでいてパーソナリティーに与えるもの」...なんでしょうね。小説に限らず本を読むと語彙は増えると思います。小説の内容から受ける影響は、人それぞれ、小説それぞれでしょうね。私は読みまくっているせいか、個人的な性格のせいか、読んだ小説の内容で、ずっと覚えているものは、実はあまり多くありません。
今お薦めの小説としては『嫌われ松子の一生』はいかがですか?映画が話題ですが(でも前述の理由で多分私は映画は見ません)、小説が刊行されてすぐに読みました。
ひとりの女性の一生を走馬燈のように追っていて、しかもそれが悲惨だが、悲観していない、とてもすがすがしいお話でしたよ。2年経った今でも内容を覚えている数少ない小説です。
大体、原作本があるものの映画化っていうヤツは、私の経験では100%映画がつまらないです。
sannoseさんの理由①につながるかもしれませんが、表現が回りくどいというよりは、主人公の心理描写や背景をきちんと表現しているのが小説なので、映画はどうしても舌足らずと、私には感じられてしまいます。
②③の理由は人それぞれなので、それで小説をお読みにならないのは、よろしいんじゃないでしょうか?
私は小説やビジネス書は結構読みますが、エッセイはほとんど読みません。著者に共感できることがあまりないからです。
ビジネス書は当たりはずれが結構あります。全然刺激のないビジネス書は読み続けるのに苦労します。小説は、好きな作家さんのものを中心に読んだり、好きなジャンルや同じ嗜好だなという方の推薦で読むものを決めるので、そんなに大きくは外しません。でもたまに失敗もあるけど。。。。。
私は小説は好きでよく読みます。
でも昔はあまり読みませんでした。
きっかけだと思います。
ひとつ、すごく夢中になった小説があって
それから読むようになりました。
だから読みたい時だけ読めばいいんじゃないかな。
表題のとおり小説なんか読んでたらまともな人間になれません。
人間失格ってことにもなりかねません。
想像力なんか身に付いた日にゃぁ、部下が上司に、或いは生徒が先生様に向かって罵詈雑言を浴びせるなど、ろくなことになりかねません。
アホの子はアホなのだから、小説を読んで教養でも身に付けようなんてふざけた考えを持つ奴を見つけたら、心を鬼にしてドロップキック・延髄切りをかましてやりましょう。
そうすれば生徒は先生の言う事をきちんと大人しく聞くようになるし、就職しても上司の言う事をはい!なんていって一生無事に過ごせるのです。
神国日本はますます平和になります。
政治家の先生方はとてもとてもお偉い人達なのだからじゃんじゃん税金を私利私欲につかってもらうべき。、批判・非難するなどもってのほか。
長くなりましたが、私は、小説なんか読むと想像力が読者に身に付いてしまうので、そうすると、人間社会で生きていくうえで、管理するものが管理できなくなる、という弊害が生ずる恐れがある、ということを言いたかった。
あなたをどう思うか?いいんじゃねぇの別に。感情表現なんか豊かにしてどうするっちゅうねん!能面みたいな面してお互い一生終えませう。
お薦めの本なんかないです。
でも自分が好きなのはドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」トルストイ「戦争と平和」(やべっ、2冊になっちゃった。はは)。
小説をまったく読まなくても、何不自由ありません。無理に読んでも、より嫌いになるだけです。本を読むべきだなどという固定観念があるのでしたら、自由になるべきです。つまらない小説など掃いて捨てるほどありますから、あなたの感想は正しいのです。
しかし、分かりやすいのなら読みたいというのであれば、短編集をお薦めします。奥田英朗の伊良部シリーズ(『インザプール』とか『町長選挙』)や『ららぴぽ』には、回りくどい表現は一切ありません。短編ですから、最初からおもしろい(と思います)。あるいは、『空中庭園』なんかも、リアルで楽しめます。
贔屓作家のひとりよがりは、ファンにとっては心地よいのでしょう。
会話形式は、論理的な矛盾を発見しやすい手法だと思います。
つぎのケース・スタディも、とても参考になります。
── 脱獄した正確な日時について白鳥は記憶してなかったが、昭和十
九年八月二十六日、午後九時前後というのは間違いないようだ。ただ
『北海道警察史』の「大暴風雨(の夜を利用して難なく脱走した)」と
いう記述と、白鳥の証言にあった「朝から天気で、星のきれいな夜」と
いう記憶は大きくくい違うので、わたしは当時の天候を網走測候所の
『気象日報原簿』であたってみた。── 斎藤 充功《網走脱獄》
── 小沢 信男《犯罪百話・昭和篇 19880927 ちくま文庫》P271
新劇の台詞がつまらないのは、作者の云いたいことを、わざわざ二人
に分けているだけで、おなじ意見、おなじ文体の応酬だからです。
近代日本文学の低迷は、気の利いた対話が失われたからです。
Yahoo! 辞書(↓)ひい‐き【贔屓・贔負】[名](スル)
《「ひき(贔屓)」の音変化》気に入った人を特に引き立てること。
意味はお分かりですよね。
供述調書スタイルって面白いですね。
ただし、取調官役の人が必ずいないと成り立たない?
そういう事だったのですね!おっしゃる通り、情報を得られるかどうかを重視していますね。
供述調書タイプだと、作者が与えてくれる状況設定みたいなものを頭にインプットしなくても済み、非常に読み易い(その場面で会話に聞き耳を立てているようで)ですね(自分の場合)。
贔屓の読み・意味が分からないのですが、教えて頂けないでしょうか。
面白いですよ!
歴史資料は、事物としてそれに親しんだ人が亡くなった後も残されたものから推測するに過ぎない。。
生きてる時でさえ、一人の人物の言動は、正しく的確には判断されえないことが多いのを思う。
しかし、、不思議なことに、、歴史が積み重なると、、その時には見えなかった歴史的事実の意義が浮き上がってくる。。
名相政治家とは、この意味で当時の評価ではなく、やがてその歴史的事実として社会に落ち着き、冷静に見渡すことができた時、意義が明確なるのを思います。。ただ、、真の政治家は、それを見越してるところがあるのを思います。。
文士、思想家はその作品が生きて死ぬ時に一度完結するのに対し、政治家の作品は完結を見ない。。
『公的なもの』に対する情熱、、ある意味、自分の人生のうちでは報われない使命感があるのを思う。。(人間が歴史を主体的に創り上げると言う視点での歴史観、、今はプロセスという意識で歴史に参画することは古い価値を壊し、新しい価値を建設し、未来の為に生きるという姿勢は、、大自然界の法則を時として壊す、人間の文明とも相通じはしないだろうか?死により人は生涯を完結するのに、次々、夫々の個人が自己主張して建設の背中合わせの破壊を続けることは終末論へ通じるのではないか?
【『歴史』はいつも日簡潔性のの為に文学に一歩を譲り続け、同時にそれらを嘲笑し続ける。・・歴史は限りない大海で、人はこの海に身をゆだねて泳ぐところに自由を見出す(小説の意義?)】
又、小説と史実データとは小説の種類にもよるが、小説の意義と、史実の意義とは全く、異にするのではないでしょうか?
そしてご質問のS君、R君、ですが、私はM君含め、皆に相談します。