私はどうしてこの時代に宗教を信仰する人がいるのかよくが理解できません。宗教に対するあなたなりの考えを聞かせてください。もちろん無宗教、有宗教(?)どちらの方でも構いません。

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  • 終了:2006/06/11 15:08:06
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ベストアンサー

id:TomCat No.7

回答回数5402ベストアンサー獲得回数215

ポイント25pt

私は信仰を持っています。

信仰というものは、思想なんですよ。

神仏という架空の存在を妄信する迷信の世界とは違うんです。

というか、そういう迷信的な信仰なら、それは私も否定します。

 

そうではなく、たとえばキリスト教なら、

イエスという方が約2000年前にたしかにいた。

その方は権力の迫害を受けて十字架にかけられて処刑された。

それはひとえに人々の救済のために尽くされた姿が

人々の強い共感を得るところとなり、

時の権力を脅かすものとなったからだ。

 

イエスという方は真に人々の救済に尽くして十字架にかけられた。

それは人々が救済されなければならない状態に置かれていた故であり、

十字架の迫害をも恐れずに人々の救済にあたられたその姿に

2000年の時を経て私たちは感動する。

どうしたらこの方の後に続いていくことが出来るだろうか。

そういう願いを持つ。それが祈りとなる。

これがキリスト教の信仰です。

 

だから、キリスト教徒は平和と人類の救済のために働くわけです。

カトリックのマザー・テレサしかり、

プロテスタントの救世軍しかりです。

 

信仰は命のために貢献する実効力のある思想体系であり、

信仰者の集団は、そのために具体的に貢献する

運動体でなければなりません。

それを、政治力ではなく、市井の庶民の働きとして行っていく。

そこに信仰の真価があります。

 

逆に言えば、実社会から目をそらし

有り得ない架空の世界に埋没する迷信的な信仰や、

ただ個人的な奇跡や利益ばかりを追求する信仰、

教えられたことを妄信する洗脳的な信仰、

権力と結びついて勢力の拡張ばかりにひた走る信仰なら、

そんなものは要らないわけです。

というよりも、真の信仰が目指すところの社会進歩への貢献を、

そうした信仰は阻害します。

 

なお、国家間、民族間の紛争の色分けとしてよく使われる

○○教○○派対△△教△△派といった図式は宗教的対立ではなく、

特定の人々の集団を言い表す必要から便宜上用いられる分類で、

実際には宗教思想的に対立しているわけではないことがほとんどです。

よく、宗教の違いが戦争につながるから宗教は要らない、

という意見もありますが、それは宗教思想とは無関係な

民族的利害の対立が紛争の原因であるという本質を無視した意見です。

 

昨今、「キリスト教社会」対「イスラム教社会」、

といった対立軸が世界の安定を脅かすものとなっていますが、

これも、たまたまキリスト教を基盤とした社会を持つ国家と、

イスラム教を基盤とした社会を持つ国家が

相互の利害で対立している、ということです。

べつに、宗教戦争をしているわけではありません。

 

しかし、信仰というものは、いつの世も権力に利用されます。

信仰の名を借りて人々を煽動する動きも、いつの世も存在します。

その点は、十分に警戒しなければならないでしょう。

 

実社会の発展と命の救済のために貢献する社会思想としての信仰と、

一部の利益のために利用されていく宗教とは、

はっきり分けていく必要があると考えます。

id:saikkikusu

信仰されている方の考えも知りたかったので非常に参考になりました。

2006/06/11 14:35:29

その他の回答19件)

id:Kumappus No.1

回答回数3784ベストアンサー獲得回数185

ポイント15pt

http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/anti/bannou.htm

むー、URLが必須というのはこの手の質問だとどうかなと思いますが…。たまたま近いものがあったので。

例えば親が無宗教、あるいは葬式仏教程度の、まあ、日本ではよくありがちな人たちで、その子供なりが急に宗教に目覚めるケースを考えて見ます。海外にあるみたいに先祖代々何とか教徒だ!という人たちはもう生まれたときからいろいろ刷り込まれていますから…。

現在の科学は万能ではない→科学以外のものが必要→それが信仰だ!という人は案外多いと思います。例は悪いけどオウムなんてのも疑似科学から入っていった人が多いんじゃないだろうか。

例えばよく言われるのは現在の科学では葉っぱが落ちる軌跡すら計算できない(これはまあ真実)ではないか、だからもっと高度な何かが存在するのだみたいな理屈ですね。

ところがこのロジックには破綻があって、じゃあ科学以外のその何かが「正しい」のかどうかは誰にもわからない。でも何となくそっちを信じた方が本人にとっていろいろ納得がいく。

その辺がきっかけなんじゃないでしょうかね?

例えば病気になったのはなぜだろう?偶然そうなった、原因不明 がほとんどの場合でしょうが、いや、これは昔悪いことをした報いだ、とか逆に病気になることで何かができなくなったために命が助かるのかもとか、そういう風に考えてしまう。で、そういうロジックを整頓したものが宗教だったりするわけです。

変なたとえかもしれませんが、方程式をax^2+bx+cの形で置いておくのが気持ち悪くてxの値を計算しちゃわないと機嫌が悪い人…わからないことはわからないで置いておけない人が宗教に走るのではないかなあ。

id:saikkikusu

URLはダミーでも構わないつもりだったのですが…すみません。

2006/06/11 13:54:12
id:daiyokozuna No.2

回答回数3388ベストアンサー獲得回数75

ポイント10pt

ある宗教を信仰している純粋な信者と、なにか得するから入信している人にわかれますね。現在、本当の信者と呼べる人はいるのでしょうか?どうもほとんどが政治運動に思えます。


http://q.haten

id:adlib No.3

回答回数3162ベストアンサー獲得回数243

ポイント10pt

── 迷信の偏見は他のすべての偏見にまさり、その理屈は他のすべて

の理屈に勝つ。

── モンテスキュー/根岸 国孝・訳《法の精神 19660228 河出書房新社》

 

http://q.hatena.ne.jp/1145918379 (TVのチカラ関連コメント)

── 欧米の警察が、このような霊媒師や超能力者に委嘱するのは、

その能力に期待しているからではありません。カトリックなど根づよい

迷信をもつ庶民感情を配慮するためで、本来の捜査とは別なのです。

 

http://q.hatena.ne.jp/1065404472#a31815

── もし超能力を認めると、小学校以上の教科書をすべて書きなおす

必要があります。あなたが信じることは、誰も否定できませんが、他人

にすすめたり強要してはいけません。

 

http://d.hatena.ne.jp/adlib/20050130

── 前世・霊魂・奇跡などは、存在しない。

 A last world, the soul, and a miracle do not exist.

── 「全国高校入試で、毎年出題すべき、五大設問(案)より」

id:adlib

── モンテスキュー/根岸 国孝・訳《法の精神 19660228 河出書房新社》
http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/B000JBC0JY

2018/07/10 04:13:52
id:adlib

 
 この設問は、回答者の環境が前提ではなかったか(13年後に記す)。
 
1.生まれた時から、家族が信仰していたかどうか。
(父は、朝に仏壇と神棚を拝し、食事前には合掌したが、俗物だった)
 
2.少年期に、なんらかの宗教習俗に接したかどうか。
(私は、中高一貫校で、毎朝プロテスタントの礼拝を経験した)
 
3.成人後、なんらかの宗教団体に加わったかどうか。
(私は、中高一貫校の恩師・同輩の聖職者と、いまも親しいが無神論)
 
4.過去に、新旧聖書・コーラン・仏教の書物を学んだかどうか。
(私は、五十歳を過ぎて、これらを再読し、いまも書棚に並べている)
 
 友人のジャーナリストは、どれも読んでいないらしく、聖職者も実は
怪しい。キリスト教徒はイスラム教に理由なき偏見を抱いでいた。
 
https://twitter.com/awalibrary/status/1192249493971820545
…… 見ぬ者は聖し ~ 直視しない人々 ~ (20191107 10:16)
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=20170628
 
…… NHKが行った皇室に関する世論調査で、女性天皇を認めること
に賛成する意見が70%を超え多数を占めました。一方、女性天皇の子が
皇位を継承する「女系天皇」の意味を知っているかどうか尋ねたところ、
「知らない」と答えた人が多く……。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191021/k10012142641000.html
 
 数十年後には、イスラム教徒が世界人口第一位に達するという。
 やがてアメリカ大統領も、黒人から女性を経てイスラム教徒になる。
 われわれは、いつも誰かの味方になるか、それとも孤立を選ぶのか?
 

2019/11/07 11:18:23
id:hamster009 No.4

回答回数3431ベストアンサー獲得回数50

ポイント15pt

あなたの宗教という言葉の使い方は、いかにも日本人的です。一般的な宗教については、これを伝統ととらえて意識せず、特別な異端的な新興宗教のみを宗教と呼ぶ。ですが、自覚的に信じようが信じまいが、人間にはすべて宗教性があり、世界観があります。世界観のない人間はいない。そして、世界観の根本はだいたい思い込みによっていて、証明不可能です。ですから宗教も世界観も大差ありません。無神論も科学主義もひとつの宗教といっても過言ではない。ものを考えない人間以外は宗教性をもつのです。

http://www.yahoo.co.jp/

id:gettoblaster No.5

回答回数290ベストアンサー獲得回数14

ポイント20pt

僕は無宗教なんですが、信じるだけで主観的な幸せ度がアップするなら、意義があると思います。

でも、宗教は信じる人たちの間だけで活動してほしいです。他の価値観も認められない人は、社会に影響を及ぼして欲しくない。あと、税金は取って欲しいと思います。

http://d.hatena.ne.jp/gettoblaster/20060208

色んな宗教の信者の大部分は、親もそうだったから信者になっているみたいです。伝統宗教はほとんどこれですね。子供のころの柔軟すぎる頭は合理性の検証なく宗教を受け入れてしまうので。イスラム国は永遠にイスラム国。キリスト教国は永遠にキリスト教国でしょう。

新興宗教は、よく研究されたマインドコントロール手法を使っているので、新しい信者の獲得力では伝統宗教より強いですね。教義は科学と無関係でしょうが、信者獲得手法はある意味科学的と言えるのではないでしょうか。

新規信者の獲得で一番おいしいターゲットは病人みたいです。なかなか治らないとやはり神にでもすがりたくなるのでしょう。これは少し理解できます。病院は宗教勧誘の最前線だとか。

創価学会が急速に伸びたころは、地方からの集団就職で工場に来て、安くめちゃめちゃ働かされていて、コミュニティも薄い人たちを狙って大成功したようです。生活が不安定、過酷、コミュニティが薄いなどの条件も入信に有利に働くようです。

高齢化が進み、病人が増える。また、生活が安定しないフリーターの増加、子供が死後の世界などオカルトなコトを信じているなど、今の日本には宗教が流行る素地があると思います。

客観的に恵まれない人が、信じるだけで主観的に幸せになるならそれはいいことだとは思いますが、できるだけ、良い宗教に流行って欲しいです。でも、信者をへろへろになるまで勧誘に従事させ、金を巻き上げて資金力のある悪い宗教の方が、拡大力が強そうで怖いですね。

非課税というのもおいしいので、ビジネスとしての宗教活用なんてのも流行るかもしれません。信者はただで働いてくれるので、普通の企業では勝負できないかも?

個人的に疑問なのは、無宗教から信者になった人が他の宗教を比較検討していないことです。買い物する時は比較検討するだろうに。

神に救いを求めたい人向けに「神様比較.com」なんてのがあったら笑っちゃいますが(宗教団体は金あるんで、アフィリエイト儲かりそう)、本当はそういう過程を経て納得して信じるのがまっとうだと思うのですがそんな人はいないのが謎です。超高い買い物になるかもしれないのに.....

id:saikkikusu

わかりやすく、的を突いた回答ですね。

2006/06/11 14:36:18
id:malonie No.6

回答回数383ベストアンサー獲得回数7

ポイント15pt

誰しも日常において不安だったり心配事があったりすると思います。

例えばそれが子供の教育や社会への不安という他人からしてみれば

大した問題でもないようなことでもです。

そんな時に素直に頼れる人が周りにいれば良いのでしょうが、

核家族化や近所との付き合いも廃れていく時代に

身近な問題を解決してくれる知恵を授けてくれるのが宗教の役割の1つと考えます。

信仰・崇拝するものがあれば、気持ちが救われる人は沢山いると思うのです。

信じるものがあることで苦しい時や悲しい時に乗り越えられることもあります。


ただ、人間の心理を利用して心無いことをする者もいます。

しかし、何かに頼りたい気持ちが募っている時は判断能力が劣っている時なので

気づかずに崇拝している場合があります。


自論ですが、日本は仏教の国のような無宗教の国・・・というか、

日本人は節操の無い民族のように感じます。

例えば、キリスト教のクリスマスに便乗してお祭り騒ぎ的なことだけを取り入れたり。


自分は今のところ無宗教です。

http://yahoo.co.jp ダミー

id:TomCat No.7

回答回数5402ベストアンサー獲得回数215ここでベストアンサー

ポイント25pt

私は信仰を持っています。

信仰というものは、思想なんですよ。

神仏という架空の存在を妄信する迷信の世界とは違うんです。

というか、そういう迷信的な信仰なら、それは私も否定します。

 

そうではなく、たとえばキリスト教なら、

イエスという方が約2000年前にたしかにいた。

その方は権力の迫害を受けて十字架にかけられて処刑された。

それはひとえに人々の救済のために尽くされた姿が

人々の強い共感を得るところとなり、

時の権力を脅かすものとなったからだ。

 

イエスという方は真に人々の救済に尽くして十字架にかけられた。

それは人々が救済されなければならない状態に置かれていた故であり、

十字架の迫害をも恐れずに人々の救済にあたられたその姿に

2000年の時を経て私たちは感動する。

どうしたらこの方の後に続いていくことが出来るだろうか。

そういう願いを持つ。それが祈りとなる。

これがキリスト教の信仰です。

 

だから、キリスト教徒は平和と人類の救済のために働くわけです。

カトリックのマザー・テレサしかり、

プロテスタントの救世軍しかりです。

 

信仰は命のために貢献する実効力のある思想体系であり、

信仰者の集団は、そのために具体的に貢献する

運動体でなければなりません。

それを、政治力ではなく、市井の庶民の働きとして行っていく。

そこに信仰の真価があります。

 

逆に言えば、実社会から目をそらし

有り得ない架空の世界に埋没する迷信的な信仰や、

ただ個人的な奇跡や利益ばかりを追求する信仰、

教えられたことを妄信する洗脳的な信仰、

権力と結びついて勢力の拡張ばかりにひた走る信仰なら、

そんなものは要らないわけです。

というよりも、真の信仰が目指すところの社会進歩への貢献を、

そうした信仰は阻害します。

 

なお、国家間、民族間の紛争の色分けとしてよく使われる

○○教○○派対△△教△△派といった図式は宗教的対立ではなく、

特定の人々の集団を言い表す必要から便宜上用いられる分類で、

実際には宗教思想的に対立しているわけではないことがほとんどです。

よく、宗教の違いが戦争につながるから宗教は要らない、

という意見もありますが、それは宗教思想とは無関係な

民族的利害の対立が紛争の原因であるという本質を無視した意見です。

 

昨今、「キリスト教社会」対「イスラム教社会」、

といった対立軸が世界の安定を脅かすものとなっていますが、

これも、たまたまキリスト教を基盤とした社会を持つ国家と、

イスラム教を基盤とした社会を持つ国家が

相互の利害で対立している、ということです。

べつに、宗教戦争をしているわけではありません。

 

しかし、信仰というものは、いつの世も権力に利用されます。

信仰の名を借りて人々を煽動する動きも、いつの世も存在します。

その点は、十分に警戒しなければならないでしょう。

 

実社会の発展と命の救済のために貢献する社会思想としての信仰と、

一部の利益のために利用されていく宗教とは、

はっきり分けていく必要があると考えます。

id:saikkikusu

信仰されている方の考えも知りたかったので非常に参考になりました。

2006/06/11 14:35:29
id:aase No.8

回答回数132ベストアンサー獲得回数5

ポイント10pt

http://www.nhk-book.co.jp/shop/main.jsp?trxID=0080&midCategoryCo...

墓参りに行っては坊さんを探し、神社に行っては小銭を投げ、クリスマスにはケーキを買います。


私自身は質問者さんのおっしゃる「宗教」の域にまで踏み込まないレベルの、日本人ならだれでも多少は持ち合わせているような薄い信仰心しか持っていません。それでも神社に行けばお賽銭を投げてしまうのは、単に鈴が鳴らしたいからというのもありますが、どうしても素通りが出来ないためです。

神社があるという事はこの土地に来た人たちはここに神様がいると思ったんだろうなぁ。確かに、見晴らしのいい場所だものな。作物がよく出来たらここにお参りに来て、新年が来たらここにお参りに来て、そうやってずっと暮らして来た人たちがこの街をつくったんだなぁ。そういう風に考えていくと、大切にしなくてはならない場所に思えて、つい手を合わせてしまう次第です。あとは「ふるい=だいじ」という感覚も伴いますね。

横の方に書かれている神社が建った経緯(関東大震災や第一次世界大戦・火山や水害の話等結構書いてあります)なんかを読むと更に「あぁぁー」となります。

ですから、オヤシロの中にいる神様に手を合わせているというよりは、昔の人たちと、その支えになっていた神社自体に思いをはせている部分が大きいかもしれません。またそういうところから、自分一人で生きている訳ではないよなぁ、という思いが湧いて、世の中の色々な人やもの、及び神的な存在に「何だかんだ平穏無事に暮らさせてもらってありがとうございます」みたいな殊勝な思いを持って手を合わせています。賽銭箱の前に突っ立った時だけの、非常に一時的な心理です。

墓や仏壇は、ナチュラルに「死んだ祖父ちゃんここにいるんだなぁ」と思うと妙に親しみが湧いてしまう、というあの感じです。あとリズムのいい御経は結構語呂が良かったり韻を踏んでいたりして唱和すると思いの外楽しく、時にやたらと心に響く内容が(それも一語で)書かれていたりするので面白いです。

御経から派生しますが、視覚と聴覚から「ありがたい」という感覚を持ってしまう事は往々にしてあると思います。好みにもよるでしょうが仏像の造形というのは否応なしに美しいですし、パイプオルガンの響きはどうにも荘厳さを感じさせます。そういう感覚が発展していって宗教を形成したのではないかな、とさえ思ってしまいます。

その他各国の土着の宗教も似たような思いがあるかもしれません。しかし、日本において基督教等を信仰する気持ちはいまいちわかりません。上記の通りのヤオヨロズ感覚ですから、一神教はどうにも。

そして新興宗教の類は更にわかりません。

激しく偏見を伴う表現ですが、一つの宗教にのめり込む人というのは、何か窮地に陥っているところを救われたり(或いは救われたと錯覚したり)、今まで開いていなかった目を開けて新しい世界を見せられたり(或いは見せられたと錯覚したり)している場合が多い気がします。

ハサミを探している時に「そこにあるじゃない」と自分の後ろを指されたら、つい見てしまいますよね。きっかけはそんな感じなんじゃないかと思います。ハサミではなく「この世の真理」とかを探していた場合に、振り向いた先にもしそれがあったら(或いはあったと感じたら)、教えてくれた人を篤く信頼してしまいませんか。

弱いところを突かれた人間は、はまってしまう。よく云えば篤信、悪く云えば盲信、または妄信。そっちゃ方面は、恐ろしいのであまり関わりたくないというのが本音です。


人間が生殖と培養以外の方法で0から生命体を作り出せるようになり、時間(死を含む身に起こる事の選択・回避)をコントロールする術を手にするまでは、宗教は永久に人間の心を揺さぶり続けると思います。それをなしえない限りは人間は「神秘」及び「運命」から逃れる事は出来ず、ゆえに絶対的な大きな「力」を認めざるをえないからです。

その巨大な影が人類の視界から消える事は恐らく無く、ゆえに人間が完全に「宗教」を捨て去る事は不可能なのではないかと思います。



余談:

「この時代に」とはおっしゃいますが、雑誌の特集やワイドショーの締めくくりに出る「占い」もその発生の元は宗教ですよ。学問的な要素も含む占星術なんかはともかくも、「水晶に未来が映る」あたりは「米に生えたカビで今年の作物の出来を占う」(神社でやっています)より更に非科学的かと。

無宗教状態の今現在の日本で、昔は神道なり仏教なりの教えによって決めていた要素を、代わりに占いで決めているのかなとも思います。

id:castle No.9

回答回数1011ベストアンサー獲得回数12

ポイント10pt

宗教を世界観と考えれば、生きている人は誰もがみんな宗教を信じているといえます。宗教を信じてない人は宗教は信じるに値しないという世界観を持っているので、非宗教教を信じていることになります。

何らかの価値観に属する(信じる)ことを広義の意味で宗教と呼べるとしたら、各宗教は狭義の意味でいえば多様な価値観におけるひとつひとつの宗派であるといえるでしょう。

 

日常を平穏に暮らせる人は強烈な信仰を要求するような狭義の宗教を必要としません。

しかし、世の中には堪えられないような苦境にある人々がかなりいて、そういう状況でも生きていこうとしたら自分の支えになるような強烈な信仰――生きる意味が必要となります。

こういった人々から狭義の宗教が支持されていると考えられます。

 

リンクはかなり適当ですが。

・宗教の機能

http://homepage1.nifty.com/NewSphere/EP/b/to_creationism.html

id:yomy No.10

回答回数47ベストアンサー獲得回数2

ポイント10pt

こんなどうにもならない、どこにもすがるところのないときだからこそ、宗教にはまって行く人がいろのではないでしょうか?困っている人は藁にでもすがる思いで助けを求めて宗教に入り、そして、お金を持っていかれ、余計困見たいな話はよく聞くことだと思います。(一部の悪い宗教だけだと思いますが)

親戚や友達がやっていると、入り口が広くなってしまい、別にすごくない人でも、その場のみんなが「すごい人です」みたいなことを言っていると、洗脳されていく。。。みたいなもんなんじゃないですか。

宗教を受け入れてしまった人って、完全に宗教を拒否でないで、少しは受け入れていると思います。

「アノ人に相談したら良い方に事が進んだ」とか1度でもあってしまうと、野球のバッターと一緒で、ヒットが出たときの仕草を毎回おこない、弦を担ぐみたいに、、宗教にはまっていくのではないかと考えます。

普通の方が、元旦などに神社に行ってお願い事をしたりするのは、文化的なものだと思いますし。これに関しては宗教とかではないとも思います。


http://q.hatena.ne.jp/answer

ダミー

id:Hiromix2004 No.11

回答回数15ベストアンサー獲得回数0

ポイント10pt

宗教というのは、人間が生きる限りなくならないものだと思います。人間は宗教を離れて生きていけるほど強くないし、生きていくうえで、迷ったり、不安になったとき、支えてくれる。宗教とは、サーカスの綱渡りのとき、下に張られている安全ネットのようなものだという気がしています。

http://d.hatena.ne.jp/Hiromix2004/

id:kakaricho222 No.12

回答回数123ベストアンサー獲得回数0

ポイント10pt

私は 無宗教です。何かにすがりたいと思う気持ちが

ある方達の中には それが宗教だったりするのかも知れませんね!

私も 理解できないほうです。

http://esearch.rakuten.co.jp/com/img/icon/icon_dir_list.gif

id:sami624 No.13

回答回数5245ベストアンサー獲得回数43

ポイント10pt

http://homepage1.nifty.com/TAO/con7-110.htm

1.大凡自分に自信があれば、宗教に頼ることは無いでしょう。

2.大半の人間が宗教を信じ始めたきっかけは、自信喪失をしている時であり、何かに縋ろうとした為のようです。

3.人間は誰しも弱いもので、自信喪失をしている時に、言葉巧みに引き入れられると信じてしまうという現象でしょう。

4.私は、常に自分を高めることで自信を維持し、宗教に頼る方法をとらないようにしています。

id:wang-zhi No.14

回答回数13ベストアンサー獲得回数1

ポイント10pt

私は無信仰です

自分で信仰を選ぶ分にはそれが支えになり力に変えることができればあればあったでいいのではないかと思います。

ただし、人に信仰を広めて救われるとかは納得いきません。それこそ地獄に落ちろと思います。

http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%CF%B9%F6

id:pianokko No.15

回答回数224ベストアンサー獲得回数4

ポイント10pt

http://www.yahoo.ne.jp

URLはダミーです。

私は、宗教団体に入ろうとか、そういう事は思いませんが、でも、神様はいると思いたいです。

マリア像が血の涙を流した、なんてニュースを聞いたりすると、「おおーっ!」と思います。

心のよりどころって言うのかな、世の中全体が、「神様なんていない、誰も見てないんだから悪い事をしても平気」という雰囲気にならないように、宗教も必要性があるような気がします。

ただ、犯罪を犯すような宗教は駄目です。

自分に不幸が襲ったとき、心のよりどころを求めて宗教を進行するのはわからないでもないですが、その不幸を他人のせいにして矛先を向けるのではなく、自分自身の心が穏やかになって、前向きになれる内容のものであれば、反対ではありません。(自分は入らないけど!)

自分としては、宗教団体に入ってしまうと、そこのしきたりなどに沿って生活しなければならないので、そんなのに縛られるのではなく、普通の生活をしながら、神様がいることを信じ、明るく生きてゆくので充分です。

id:taknt No.16

回答回数13539ベストアンサー獲得回数1198

ポイント10pt

解決されていない問題を宗教というもので うめているだけです。

人は、なぜ生きているのか?

死んだらどうなるのか?

などに、明確な回答を出せたら、宗教はいらないです。

物あふれ時代で、生きていくのにさして苦労しなくなってきた今、

さらに このような問題が 気にかかるのでは、ないのでしょうか?

また、最近は自殺者も増えてきているようです。

自殺は、心の問題もあるでしょう。

そのような問題の解決のためにも宗教が必要かもしれません。

http://plaza.rakuten.co.jp/mugutoshi/diary/200605100001/

id:un-souya No.17

回答回数57ベストアンサー獲得回数3

ポイント15pt

先ず、宗教というのは、“宗(むね)とすること教えとすること”だという事を書いた上で回答します。

http://www1.neweb.ne.jp/wb/kaikan/bukkyou.htm

釈尊は“この世は燃えている、漆黒の闇に覆われている。人々よ何故灯明を求めないのか、どうして心光をとらないのか。”と問いかけるのです。

“心光の灯明”を既に得ている者は更に求める必要は無いでしょう。

(仏教徒として一番めに仏教を置きました)

モーゼは“人々の中で、神から約束の地に至ることの許された者は、旅を続けてその地に至るべきである。”と説いたのです。

既に約束の地に至り神の約束の実現を受けた者は更に旅を続ける必要は無いでしょう。

イエスキリストは“神と子と聖霊の親しきいのちの交わりの内に祝福され善い人になりましょう。”と人々を導く布教をしました。

善い人になった人は、更にその導きに従う必要は無いでしょう。

私が想うのは、既に人生を送るに当って“宗とすること教えとすること”を知って、それが究極の堪忍とよく馴染むのであれば、どんな時代や境遇であっても更に別の宗教を取り入れる必要は無いでしょうという事です。

問題は、“既に得た物柄事柄は本ものですか?確かな未来は如何ですか?”との問いかけが、自分はもうその問いかけを受けなければならない者ではなくなったかどうかです。

id:buppou No.18

回答回数31ベストアンサー獲得回数0

ポイント10pt

宗教は意味もなく神を信じるものです。意味もなくというのは全てを創造したのは神というのにその神を作ったのは誰かという最も根本的な問題に答えることができないからです。

仏法は違います。当たり前のことを当たり前と言うだけですから。これを原因と結果、縮めて因果といいます、もしくは因果律。しかし仏法のこの当たり前の因果を述べておいて神や阿弥陀仏、その他如来などをさもありがたそうに祭るのが全てのXX宗と呼ばれる既存の宗教です。結論として貴方の考えているように全ての宗教は無意味でだめですね。仏法は宗教ではありませんから念のため。

http://6256.teacup.com/jinseiwalker/bbs?BD=2&CH=5

id:robekaru06 No.19

回答回数103ベストアンサー獲得回数2

ポイント10pt

私は無宗教です!

信じる信じないは、自由だと思います!

世界の人口の9割以上が、なんらかの宗教に属してるそうですけど、自分は信じません!

http://q.hatena.ne.jp/

id:nano327 No.20

回答回数759ベストアンサー獲得回数35

ポイント15pt

人は現実で生きていながら自分の尺度では計り知れないものがあるかもしれない気持ちも持っていると思います。

例えば、子供の頃、サンタクロースはいると思ったり、黄泉の世界があって亡くなった人がそこにいるかれないと思ったりといったことは、周りから刷り込まれたものですけれど、信じて想像力を膨らませ、その延長上に未知なる物があると思っているのだと思います。

信じたり、漠然と意識するのは、そういったことが絶対にないとは言い切れないからです。

目の前にあるものは「ある」と断言できるけれど、確認できないものは「ないかもしれない」と曖昧な答えしかだせませんから。

昔の人は、誰かが行方不明になると「神隠しにあった」と言い、突風の中で切り傷を作ると「かまいたちにあった」と思い、天気雨が降ると「狐の嫁入り」と言っていましたが、不可思議な現象を原因が分からないままにして不安を抱えるよりも、漠然とした偶像のせいにするこことで心の均等を図っていたように思います。


宗教も同じことではないかと思っています。

心に抱える不安を何かに縋ることで心の均等を図っているのではないでしょうか。

周りにいる親・兄弟・友人知人にはいえないけれど、一つの信仰を作り上げ崇められている教祖・開祖には心の中で伝えているのです。

誰かに言うことで心の負担が軽減されるというわけです。

周りにいる人間に言える人はそこまでですが、言えないほど切羽詰っている人もいるでしょうし、プライドが高い人は弱みを人に見せたくなくて内に溜め込んだ後に宗教へ行き着くように感じます。

高学歴の人が新興宗教にはまり込むのもこういうことではないかと思います。


高校時代の友人に、地元では有名な新興宗教を家族ぐるみで信仰している子が2人いました。

1人は親が支部長をしている関係で大きなイベントに手伝いで借り出されていて、私も何度か誘われて参加した事があります。

けれど、熱心に勧誘されるわけではなく、「楽しいから」と言われました。祭りでしたから屋台や出店がたくさん出ていて、みんなで歌を歌って、最後に祭壇に手を合わせて、神社の祭り感覚でした。

もう一人はその私の行動を知り熱心に勧誘されました。

かなりディープな信者で、正月三が日に滝に打たれる修行をしていました。彼氏が異宗教と知って、恋愛感情よりも信仰心を優先させて別れていました。

同じ宗教を信仰するとは思えないくらい、熱の入れ方が違いましたね。


社会に出て勤めたのが墓石の会社だったので、宗教の勉強をさせられました。部長職以上は京都へ僧侶の修行に半年行かされて、私は社員旅行で高野山へ短期修行させられたことがあまります。

(当時は殆どのお題目を唱えられたり、戒名の付け方をお世話になったお坊さんからレクチャーされたのですが、今ではすっかり忘れました)

仕事で色々な宗教信者の顧客や、寺社関係者とやり取りしましたが、先祖代々受け継いだからという人が多く、熱心というよりは食事したら歯を磨くように、法事があるからとりあえず墓前供養するという感じが多かったように思います。


余談ですが無宗教の人も結構いました。

家紋やお題目や戒名は要らないけれど、バラを墓石に彫って欲しいといわれて、某デパートの包装紙のバラ柄をもってこられたことがあります。

以前はてなに書いた事がありますが、既存家紋ではないものがいいといわれて私が落書きした雀の絵をそのまま自分の家の紋章にした人もいます(笑)。

無宗教といいながらも墓地に外柵を作った顧客も居ます。

(外柵というのは和型墓地などにある外囲いの柵です。墓地内はあの世とされ、囲いによってあの世とこの世を隔てているという仏教的な考えがあると言われています。一般的には単に「一戸建ての塀」にあたるものだと思われているようです)

身内だけで墓前供養するだけで良いという顧客もいましたが、六曜

にはものすごくこだわっていましたし、何かしらを信じる人は少なくないですよね。

信じる対象が宗教の人もいるし、占いの人もいるし、身近な人もいるだけで、それほど大差はないと思います。


私は無宗教です。

高校生は友人、社会に出てからは仕事で、転職後は職場の同僚、現在は自治会の同じ班の人と、なぜだかずっと宗教を信仰する人が周りにいますが、やめたほうがいいとは思わないし、関わるなとも思いません。

信仰は自由ですからね。

ただし、巻き込まれる事だけは勘弁して欲しいです。

以前の職場の人は宗教上の理由でしょっちゅう業務を拒むし、同僚の葬式時は会場へ行って参列するのに焼香できないといって場の空気を悪くしたし、慰労会の乾杯も「私の宗教では乾杯はできません」と言って、全員を凍りつかせていました。

一番参ったのは、上司がステーキをご馳走してくれた時に、殆どがレアを頼んだ後、その人が「レアは野蛮な動物が食べるものと勉強しました。私はしっかりウェルダンで」と言った時です。

正月に寺巡りした私には「色々な宗教で中途半端なことをすると天罰が下る」と叱った事もありました(当時献血が趣味だった私を宗教上の理由で軽蔑していた人なので、余計癇に障ったのでしょうけれど)。

この人の考えを聞いていると色々な意味で面白かったのでどんどん言わせて来ましたけれど、他の同僚は煙たがっていました。

自分の信仰を大切にするのは良いですが、自分の信じるもののよさを伝える手段で考えが違うものを非難する事自体が反感を買うことはわかって欲しいなあと思っています。


http://www.dance.ne.jp/~tuji/saku.html

  • id:miharaseihyou
    布教者はセールスマンであり洗脳者でもあるので、心の弱った人が引っ掛かるでしょう。彼等も飯の種ですから必死なのです。あの手この手でとことん来ますから付け込まれないことです。だから宗教には課税すべきなのです。
  • id:foxy-hisa
    私は元々宗教を信じる人ではありませんでした、宗教とは心のより所を見つけられない人がすがりつくものとず~と思っていました。
    その先は、自分の力が及ばない力、運とか運命を司るものと考えていました。
    だから、正月に初詣に行く程度の考えでした。
    それが、自分と同じような行動をする神をたまたま、出雲大社に行った時に見つけました。
    それがスサノオウです。
    なぜ自分にこれまで似てるんだって思い、そこからスサノオウについて調べ始めました。
    調べれば調べるほど、似ている・・・・・(゚_゚i)タラー・・・
    そこで、日本の神について調べ始めました。
    そうしましたら、訳が見え始めてきました。

    何事にも訳があります。
    訳がわかるからこそ信じる気持ちが生まれます。
    まずは、御朱印でも集めてみてください。
    私はおぼろながらに訳が理解出来始めましたので、御朱印帳を作りました。
    そして、神教でもいまもありません。
    佛教も大事にしています。
    なぜなら
    仏は先祖です。自分のルーツです。
    自分のルーツを大切にできないで、なぜ自分を大切に出来るのでしょうか・・・・・?
    身近な先祖が出来れば先祖に対する思いからでしょうね・・
    わかったときに信じれば良いと思います。

    信じた時に恩恵は自分に帰ってきますね
    人も同じです、物も同じです。
    日本の神は、全てのものに宿っていますと言うより、そう言う教えです。
    まわりの人、食べもの、道具などなど大切に扱わないと自分にその我帰ってくると言う
    教えと思います。



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