「東京大学物語」は最後の方はダラダラ感があったので、「夢オチ」でも何とも思いませんでしたが、それでも始めの方が面白かっただけに残念でした。
「代紋TAKE2」は個人的には面白いと思っていたのですが、最後は「今までの話は、すべてスーパーファミコンのゲームの中のお話です」という、「夢オチ」以上にヒドイ終わり方で、正直裏切られた感がありました。
「夢オチ」以外の最終回って必ず作れると思うのですが、なぜ作者は「夢オチ」という最終回を作るのですか?始めから「夢オチ」を想定しながら作っているものなのでしょうか?今まで作ってきた作品を「夢オチ」で終わらせる作者はどういう心境なのですか?
個人的には、デメリット以外になく、今までのファンを裏切ることになると思うのですが、何かメリットってあるのですか?
「夢オチ」は禁じ手のように思えてならないのですが、考え方が間違っているでしょうか?
何か「夢オチ」について、普段から思うところのある方、ぜひご意見を教えてください。
夢オチってがっかりしますよね。
しかし夢オチって言うのは現実にはありえないものを書ける、主人公なりを幸せにしすぎない、考えるのがめんどくさい、など作者と話自体には結構いいものなんじゃないでしょうか。
ただ、それが消費者のためのものかどうかは疑問ですけど。
登場人物を不幸が襲うようなもので、それを回避してハッピーエンドにしたい、もしくはその逆なら夢オチは楽ですよね。
僕個人としては夢オチは作者の怠慢、もしくは人気がなくなったため急に打ち切る際の非常手段、「禁じ手」だと思います。
基本的に質問者さんと同じ意見です。
僕は夢オチや妄想オチは反対派です。
作者としては収集をつけやすい方法ではあるかもしれませんが、
やはり今までのストーリー全てが夢だった、という終わりかたには賛成できません。
なんだか悲しくなるんですよね。
結局のところ、作者としては楽ではありますが最終的に今まで読んでいた読者は納得がいかないと思うのでデメリットになるんじゃないでしょうか。
一回これが「夢オチ」だと分かってしまうともう一度読み直すときになんだか変な気持ちになりそうなので、個人的には連載は終わってもらんまやMASTERキートンみたいにまだ物語は続くよ、
みたいな終わり方のほうが好きですね。その後も考える余地がありますし。
というより無理に完結させるよりもこういうパターンのほうが好きですが。
ただ、僕は3作品とも読んでいないので的外れなことを言っていたらすみません。
そうですよね。
私も「代紋TAKE2」は、見るのも嫌になりました。
15年連載が続いて、最後は「今までの話はすべてスーパーファミコンの中のキャラクターの話でした」って何だよ、と思いましたよ。
作品が面白かったら、夢オチは本当にがっかりです。
自分も奇面組の最終回は本当にがっかりしました。
あんな終わり方するくらいなら、平凡でもいいから、「今日もいつもと変わらずにぎやかです」のような終わり方が良かった。
そのほうが、そのうち復活するかなとか、想像する楽しみは残されているから。
東京大学物語は、最初はすごく面白くて、妙に笑えて好きだったけど、kkk-kkkさんが言うように、段々だらだらして途中から見るのをやめました。
でもやっぱ夢オチだったんだ。
登場人物のキャラとかしっかりしてたから、もっとマシな終わり方できたのになあ。
何巻も続くくらい人気が出たマンガってのは、熱狂的なファンもいたり、読んでる人の数も半端ないから、「どんな結末にしたら納得してもらえるだろう」って、作ってる人は思うんじゃないかと。
でも、編集者とかと相談してある程度話を決めてるんだろうから、あんまり裏切るような終わり方はして欲しくない。
そうですよね。
>何巻も続くくらい人気が出たマンガってのは、熱狂的なファンもいたり、読んでる人の数も半端ないから、「どんな結末にしたら納得してもらえるだろう」って、作ってる人は思うんじゃないかと。
だったら、「夢オチ」は有り得ないですよね。
編集者とかと相談して決めるなら、なおさらですよね。
いったいどういう力学が働いて、「夢オチ」で終わるのかなぁと、思って質問させていただいています。
少なくとも「奇面組」は、普通に終わることができたんじゃないですかねぇ。
最後、零さんが後ろに唯ちゃんを乗せて、自転車で走っていましたが、あの場面で最終回で良かったと思うのですが。
なぜ、一応中学校の教室の場面まで「今までの話は唯ちゃんの夢」という形で戻す必要があったのか、未だに理解できません。
作者でも誰でも良いのですが、どなたか納得の行く説明をいただきたいものです。
ハッキリ言って、夢オチは編集者の横暴が生み出すものでしょう。
まんが家は誰でも自分の作品を愛しています。
わざわざ自分の作品を台無しにするような
終わり方をしたいはずがありません。
なのになぜ夢オチか。
それはたとえば、予定されたストーリーを書き尽くしたにも関わらず、
人気があるからとやめさせてもらえなくなった。
結果、予定していたベストな最終回が
話のつじつま上使えなくなってしまった。
そこに降って湧いた、編集側の都合による突然の打ち切り。
もうどうしようもない。
選択肢は「○○の戦いはここから始まるのだ」か、
「夢オチ」くらいしかない。
そういう事情で、仕方なく「形式的」に付ける最終回。
それが夢オチだ、ということだろうと思うんですね。
「ハイスクール!奇面組」も、新沢先生としては
零君たちが卒業した時点で最終回というのが、
当初の予定だったんですよね。
ところが人気作品は終わらせるなの編集の意向で
卒業→最終回という完結方法が認められず、
ダラダラと意に添わない続きを描かされることになったわけです。
そして発生する編集者との対立。
これに先生の持病の悪化という事情が重なって、
直談判の末、単行本穴埋め2話+ラスト3回の執筆で終了という、
薄めた味噌汁を煮詰め直すような顛末の末、
やっとあの最終回に漕ぎ着けたものでした。
ですから、新沢先生ご自身は、あのラスト3回は
予め構想にあった展開だったと言っていますが、
あの状況で予定されていたベストな完結など可能なはずがなく、
結局典型的な夢オチとしか読めないものになってしまった、
というわけです。
これは先生としては不本意ですから、
後に発売された愛蔵版と文庫版では
ちょっとした加筆修正が施されています。
しかし、それでも編集に振り回された末の最終回では
とても満足できるはずが無く、
その後の新シリーズ「フラッシュ!奇面組」では、
改めて中三時代からスタートさせるという、
“奇面組TAKE2”をやっています。
そんなわけです。
何かと批判の対象となる夢オチですが、
それはたいていの場合、儲け優先の
商業主義に振り回された結果なんですよね。
それに対する作家の最後の抵抗。
そうして生み出されるのが、夢オチというラストなんです。
「代紋TAKE2」の場合も、どう考えても、
丈二が海江田のトップになった時点で
ストーリーは完結のはずでした。
もっと言えば、丈二の持つ「未来の記憶」が
あまりの歴史の改変で通用しなくなってしまった第二部から、
余分な話だったと言うことが出来ます。
これも編集にやめさせてもらえず引き延ばされた挙げ句、
終わり方を見失ってしまった作品だったと言えるでしょう。
作家を消耗させていくだけの雑誌が売り上げを伸ばしている限り、
読者を裏切る最終回は、これからも続いていくことでしょう。
おぉぉ!すごい。
「奇面組」は一般的なのでともかく、「代紋TAKE2」の話にも何事もないかのように、普通に回答いただけるとは、TomCatさんはすごいですね。
そうです。
「代紋TAKE2」も、丈二が海江田のトップになった時点とかで最終回にすべきでした。
最後の方の、テロリストとかの格闘とか、未だに意味が分かりません。
やはり、編集者側が人気の漫画を辞めさせないようにするために起きることなのですかねぇ。
確かに、「ドラゴンボール」も天下一武道会が終わって、悟空がチチと結婚する時に、亀仙人が「もう少し続くのじゃ」と言ってから、その倍以上話が続きましたからねぇ。最後もよく分からない終わり方でしたし。
そう考えると、「デスノート」などは、人気があったのに、スパッと終わって、すべて計画通りっぽい感じだったので、すごいですねぇ。
夢オチ反対派です。
トキに、落ちまでいかずとも、いいとこまで妄想させておいて、実は妄想(夢だった)なんてのは、漫画意外にもドラマでもありますよね。
先日も、そういったドラマのシーンがありました。
非常に腹立たしくなりました。
作者としては、盛り上げるつもりが、読者、視聴者には、全く逆効果で、むしろ、呆れさせていることに気づいてほしいものです
回答ありがとうございます。
夢オチ賛成派は今のところいないですね。
やはり皆さん反対なのでしょうか?
これから、「はてなアンケート」でも聞いてみたいと思います。
夢オチには、賛成ではないですが、江口寿史みたいに、いつも途中で描くのをやめてしまうよりは、マシだとおもいます。
作者だけを責めるのも違うような気がしますね。人気がなければ打ち切りになっちゃうし、人気がでれば、やめさせてもらえないし。
なるほど。作者もジレンマがあるのでしょうね。
6番さんに賛同。作者も当初エンディングを想定していても 作品が人気が出たことによる連載延長、脇役の人気高騰による出番の増加、編集側のストーリーへの介入等、作者が作品に最後までこだわりや責任を持てない結果なのかな~と思います。
海外のテレビドラマもそうですけど 人気がでると強引な続編が製作されます。そこで辞めときゃ名作なのに。(涙)
なるほど。
確かに、「東京大学物語」も大学に入ったあたりに辞めていれば名作として語り継がれたでしょうね。
私はあれは「予知夢」だと思っています。
奇面組との日々は「なかったこと」にされたのではなく、我々が単行本を開けばまた最初から同じ体験ができるわけです。いわばメビウスの輪ですね。
そう解釈していたので、発表当時から非難の声が上がったのには「みんな分かってない」と憤慨しました。
作者も同じ解釈だと思います。今手元に単行本がないので確認できないのですが、描き直した版では曲がり角の向こうに零の影が描いてあるそうです。
おぉぉ!これは素晴らしい解釈ですね。
しかし、私には文学的な資質がないからか、なかなかそういう解釈ができません。
単行本のあとがきでも作者のホームページでも良いので、そういった解釈のもとに「夢オチ」は作られたと書いて欲しいですね。今までのファンを裏切らないためにも、「夢オチ」にするにはそれくらい必要だと思います。
奇面組というギャグ関連の漫画において、突然最後に、そういう解釈を求められても、多くの人には理解できないと思います。
でも、確かに、回答者様のおっしゃることのための「夢オチ」なら、何となく理解できますね。ありがとうございます!
マンガは、マンガ家が生活していくための糧です。マンガを描いて、家族を養うのです。
だらだらとつづけていなければ名作になった、というのは、多くの作品で言われることですが、そんなことは、作者がいちばんわかっていることでしょう。しかし、名作になることよりも、だらだらとつづけている間に得られるお金の方を取る、取らざるを得ないマンガ家もいるのです。数十人の人気作家を除いて、マンガは労力とコストの割に、お金にならない職業です。マンガを描いていないマンガ家は失業中と変わりません。
この点が、破綻したオチ、ゆめオチ、つまり作品の長期化、延命を生む温床のように思います。マンガの収益で出版社に渡るお金をもっとマンガ家に還元すれば、ひどいオチは減るのではないでしょうか。
だれだって、経済的な面を含めて、高野文子(寡作で有名な天才作家)になれるわけではない。
お金と創作は切り離されるべきだと考える人もいるでしょうけど、ぼくは、作家の人生を犠牲にしたマンガなどは読みたくありません。お金の対価として作品を読む。読者とマンガ家はバーター取り引きであるべきだと思います。対等な関係にあるべきだと考えます。
いまのマンガ家の描くマンガにはビジネス面での成功が求められており(連載中の人気を重視した作品づくり。ヒキの強化)、それはある程度、読者側も受け入れるべき要素だと思います。
そのひとつの形が、夢オチに代表されるラストに対する、読者のあり方のように思います。
連載中(ストーリー)の経過を楽しんだだけでなく、ラストにも質の高さを求める。そこまで強く言えるほどの対価を我々は払っているのかという疑問がぼくにはあります。
たとえば、顛末が問題となるデス・ノートのようなミステリィ(?)で、ラストが夢オチなら、それは大問題です。
しかし、基本的に一話完結が多い(連作マンガ)奇面組は、あれでも十分のように思います。連載中、あの作品にすばらしいラストを求めていた読者などいたのでしょうか。そういう描き方の作品ではないでしょう。固定された(閉ざされた)作品世界の中で、主人公たちが動きまわる、言うなれば循環するマンガで、直進に進むマンガではなかったはずです(ラストに向かって進む作品ではなかった)。ラストを考えていた読者など稀でしょう。ぼくは毎週毎週笑っていただけで、先のことなど考えていませんでした。
奇面組の終わり方には、作者の体調や編集者の問題がありましたが、結局、あの夢オチの意味するところは、『長いこと描いてきたので、この辺で連載を終えます。長い間ありがとうございました』という、ピリオド『。』の意味があったように思います。作品の性質上、あれでも十分のように思います。
また、これ以上つづけないという意思表示でもあったのでしょう。その点でゆめオチは有効かつ楽な手法です。
前もって、ラストまで考えている作家も稀なら、ラストを描く時期になって、その通りに描ける作者も稀です(描いている途中で変わる。読者アンケートの影響を受ける)。前の週の原稿を描き終えてから、次の週のネーム(話)を考える作者が圧倒的でしょう。
東京大学物語や代紋のラストを批難する人の気持ちはわからぬでもないですが、奇面組の最後を批難する人の多数は、単純に、夢オチ=悪=奇面組みのラスト、というだけの短絡的な思考の結果に思われ、あまり賛同できません。奇面組が大好きで、ちゃんとした終わり方をしてほしかった、という人の感情はわからぬでもないですけど。
ヒキの話とかもしたかったですけど、あまりに長くなったのでこの辺でやめます。ひとつくらい、毛色の変った意見もあった方がいいでしょう。
夢オチなど、なければないで越したことはないですけど、夢オチだから作品全体を否定する姿勢とは意を一にすることはできません。終わり方は大事ですけど、作品のすべてではないはずです。過程をもうすこし大事にして、楽しんでほしいです。
おぉぉ!すごいですね。ありがとうございます。
確かに、もともとは「奇面組」に多くは求めてはいなかったですね。にもかかわらず、最終回が夢オチだったからと言って、騒ぐのは、確かにおっしゃる通りですね。
「ラブひな」のアニメ版は夢オチになる予定だったという話があります。
http://blog.livedoor.jp/belog/archives/7111999.html
このページでは「ビューティフルドリーマー」に言及してますが、あれもまあ夢オチの一種で、傑作と評価してよいと思います。
「ミンキーモモ(空モモ)」の延長部分も夢の中のお話でした。
こんなふうに、当初から夢オチの布石を敷いて、可能性のひとつとして匂わせてくれるなら、それはそれでアリとは思いますよ。むろん、面白ければですけどね!^o^
まあ、確かに、世界的な名作「不思議の国のアリス」も、よくよく考えると「夢オチ」ですからねぇ。
ご意見ありがとうございます!
少年誌の場合はアンケート史上主義のジャンプに限らず、編集者の意向に反発して
というのが『夢落ち』を選ぶ理由として多いんじゃないでしょうか。
最近で伝説になったのは『勝手に改蔵』の最終回で
精神病院の中の出来事だったという、凄まじい夢落ちでした。
その後、サンデーからマガジンに転向して、
『さよなら絶望先生』というかなりギリギリな作風を生かしてかかれています。
江川氏の場合は、漫画以外にやりたい事が増えて、
正直アイデアも枯渇して煮詰まってしまったのではないかと。
最近の『日露戦争物語』も酷いですし、漫画家としては、終わったかなと。
その後、AV監督などもやったりしますが、今年自ら監督をつとめた
『東京大学物語』で遥視点で作品を描いて、正直、村上視点の妄想が面白い作品なので、だめだなと思いつつ見て、
ストーリーもいい頃の初期の話だけど、
なんか淡々と進み、キャストも三津屋葉子(先日AVデビューした範田紗々も含めて)失敗かなと思いきや
最後にかなりサプライズな展開になって、フォローは出来たんじゃないかと思います。
是非、ビデオ·DVD化されたら、ご覧ください。
ありがとうございます。
「勝手に改蔵」は読んだことないのですが、もし夢オチが作者と編集者の争いだとしたら、読者は悲しいですね。
>登場人物を不幸が襲うようなもので、それを回避してハッピーエンドにしたい、もしくはその逆なら夢オチは楽ですよね。
確かにそうですが、
「ハイスクール!奇面組」
「東京大学物語」
「代紋TAKE2」
で、その必要性があったとは思えません。
やはり、回答者様がおっしゃる通り、作者が最後を締めるのが楽だとか、出版社側の意向だったりとか、するのですかねぇ。