「楽しいことをするために生きている」「気持ちよくなるために生きている」という人がいます。では、「楽しいこと」や「気持ちいいこと」に価値はありますか? それらに意味はありますか? なぜそれが生きる理由になるんでしょうか?(できるかぎり長文でお願いします)
関連:
http://q.hatena.ne.jp/1154283434
http://q.hatena.ne.jp/1154352829
長文は非常に苦手なので・・・、ごめんなさい。
笑いの効果
①免疫力を高める
②細胞や血管を若くする
③脳を刺激する
④ストレスを解消させる
⑤痛みを抑える
⑥美容にも笑いは効果的
⑦大笑いすれば腹筋や横隔膜が鍛えられ、便秘が改善されます。
⑧よく笑うことで体の筋肉を使い、心地良い疲れによりよく眠れるようになる。
爽やかに生きることで健康効果がある!
しかし、自分の爽やかさのために他人を不愉快にするような人は大嫌いですが・・・
まず、楽しいこと気持ちいことを概念的に捉えれば、意味はないでしょう。それは理論的に整理されるべき問題ではないからです。そして、楽しいこと、気持ちのいいことが意味を成すのは、人間の感覚であったり、感情であったりします。もし、気持ちのいいこと、楽しいことが否定されるならば、人間という生物は非常に無味乾燥とした生き物になってしまいます。
まず、注意すべきは、これは人間特有のものではなく、動物にも存在するということです。動物を飼ったことのない方にはわからない心境かも知れませんが、動物にも確かに気持ちよさそうにしている瞬間があり、また、楽しそうにしている瞬間があるからです。
人間も動物の一種です。従って、理性によってそれらを判断するよりも、感覚と感情で判断されるべきであると思います。
楽しいことのため、快感のために生きている、という人の話は私も良く聞きます。この方達のことはこの方達で、人間的な価値観よりも、より本能的な価値観を求めているのだと思います。あらゆる人間があらゆる価値観を持っていますので、これはこれとして大変意味のあることであると思います。
私にしたところで、一杯のコーヒーに思わず目を瞑って「うまい」と言ってしまうことだってありますし、タバコを風呂上りに嗜みながら夜空を眺める瞬間は最高のひと時です。人間の知性や理性を重視することは大事ですが、本能との兼ね合いが重要かと思われます。
ありがとうございました。
人は様々なことに楽しみを見いだし、快感を見いだします。
たとえば、学ぶことは楽しいですよね。
子供でも大人でも、初めて知る事には目を輝かせます。
同じように、色々な体験を積んだり、
経験を深めていくことも楽しいです。
そして得られる成長の実感。
これが快感なんです。
見聞が広がり、知識が高まり、実力がつき、
ちょっと前に比べて一回りも二回りも自分が大きくなっている。
この楽しみ、この喜び、この快感。
真の快楽主義というのは、自らを成長させる快楽を知る、
そしてそれを至上のものとして追い求める。
そういうものだろうと思うんです。
成長の快感のない楽しみは刹那的です。
そんなもの、すぐ飽きます。
そんなもののために生きられるほど、
人は辛抱強くはありません。
でも、自分を成長させていく楽しみと
それによって得られる快感は、
まさに「生きる目標」と一致します。
みんな、それが欲しくて、
それを見つけたくて生きているんです。
そしてそれを見つけると、
あー、俺はこのために生きていたのかと。
そう思うことになるわけです。
ありがとうございました。
まず、自己や遺伝子の存続のために良好な状態の時に脳がとる一状態を、
日本語では「楽しい」とか「気持ちいい」と表現するように
なっています。
例えば楽しいことは好意を持つ他人との生存相互協力や
良好な生殖相手との生殖合意回数を増加・良質化させたり
生存のための各種技能の獲得を促したりすることが多いでしょう。
例えば気持ちいい状態というのは、体調が良好であったり
良化を促したりすることが多いでしょう。
ただし、あくまで一般的な話であり、脳が判断ミスをすることも
多々ある、そして現代科学を用いれば他人の脳に判断ミスを
させることがますます容易になっているということでしょう。
一方、不快なことというのは、内臓等にダメージを負ってでも
逃走に適した肉体に仕立てる効果があるようです。
もともと不快というのは、逃走したほうが良いという
本能的な判断状況のことでしょうし。
そのような生存に不利だったり、内臓にダメージを負う状況は、
もともと避けられるなら避けたほうがいいでしょう。
まあ根拠があるとはいえ、「楽しいことをするために生きている」
「気持ちよくなるために生きている」というのは
本能寄りの判断にとても従順だ、という感じです。
ありがとうございました。
要するに「生きがいを感じる人生を送りたい」っていうことだと思いますよ。(生きがいというか、達成感というか)「楽しい」「気持ちいい」=「楽をしたい(怠けたい)」ということではないと思います。アテネで北島が金メダルをとったあとのインタビューでは、「ちょー気持ちいい」って言ってましたので。最も「楽をしたい」という考えも、大事といえば大事です。この考えがあってこそ、効率的にやろうと考えることになると思うからです。
ありがとうございました。
自分の確固たる意志でもって生まれてくる人はいない。
そして誰もが必ず死ぬのだけれど、程度の差はあるにしろ死ぬ時には苦痛が伴う(と大方予想されている)
参考提示されている質問者さんのアンケート
http://q.hatena.ne.jp/1154352829
において自分は「死ぬため。」を選択したけれど、より正確には「死ぬまでは生きている」と回答したかった。
生まれて来る場合と異なり、死ぬ場合は大体の到来の見当がつく場合がある。
死を目前にした人が「楽しいこと」や「気持ちいいこと」の上に意味を見出すことが出来るだろうか(死ぬ間際の苦痛軽減は別として)
生まれてくる場合と異なり、死ぬ方法や時期はある程度自分の意志でも選ぶことが出来る。
苦痛が伴うと思われる死を選ぶ人には、「楽しいこと」や「気持ちいいこと」がなくなった、或いは死より重要でなくなったと言えるのではないだろうか。
自分は「楽しいこと」や「気持ちいいこと」が生きる上での目的たり得るとは思えない。
しかし同時に死ぬまでは生きなければならない現実の前に、「楽しいこと」や「気持ちいいこと」を求めるのは自然なことだと思う。
要するに自分で呼吸を止められない分、時に現実を忘れさせてくれるものが必要なんだと思う。
「楽しいこと」や「気持ちいいこと」の為に生きている、とそれが人生の目的のように言わなければならない人というのは、ギブアップ寸前のしんどい人生か、同じくギブアップ寸前の暇で暇で暇に殺されそうな人生を歩んでいる人ではないかと思う。
改めて書きますが、人生の意義というのは自分で見出せるものですけれど、明確に答えがある訳ではないですよね。
目が覚めたら否応なく自分の分に応じた人生を毎日毎日生きる他なくて、そこには迷いとかままならぬ焦躁とか矛盾とかいっぱいあってなかなか楽じゃないです。
でも自分で死ぬ程のことでもないので、「楽しいこと」や「気持ちいいこと」に意味が出てくるんじゃないでしょうか。
今はそう思っています。
ありがとうございました。
価値はあります。
ただし、それは、個々にです。
自分にとっての価値は、他人にとっては無価値です。
楽しいことのものさしも、キモチいいことのものさしも、皆違います。
皆違いますが、個人個人には価値があります
ありがとうございました。
では、あなた個人はどう思っているのですか。
私は、「楽しくないのに笑う」ことには、価値がないけれども、「本当に楽しいと思って笑う」のには、価値があると思います。
イギリス人は一日に平均18分本気で笑うといわれていますが、医学的にも効果はあるようです。ただし、本気での場合ですが。
ありがとうございました。
町田康という人の本の一節に、「人生に意味は無ぇよ、けど有効」というフレーズがあります。これは人生の捉え方を非常にうまく表現したものだと思います。
前の質問での回答でもお書きしましたが、生きる意味なんて宗教でも持っていなければ追求しきれるものではありません。宗教を持っている人にとっては「絶対的な価値」があり、それはまさに絶対的で、理屈ではなく「とにかく価値がある」ものですから、その価値につながる行為には価値がある、というように論理の根本として存在します。
宗教を持っていなければ絶対的な価値が無いかというと、それは違うと思います。私たちは頭で考えますが、ボディを持っています。ボディは、たとえば肩が凝ったときに揉まれると気持ちがいいですが、この気持ちのよさには価値がないのでしょうか?「自分が気持ちよくなったところで何にも意味が無い」と捕らえるか、「気持ちいいんだからイイに決まってんじゃんギャハハハハ!」とテクニック的に思考停止してみるか、どちらの価値観を自分が持つかは選択できることです。
糸井重里という人が言っていることですが、生きる価値などといった哲学的なテーマを頭で考えて追求していくことには「クラクラくる気持ちよさ」があるけれど、それはボディにくる気持ちよさとは違うはずです。
そもそも、論理的に考えるのならば、絶対的な判断基準を自分の中に内蔵していない限り、絶対的に正しい答えなど得られるはずもありません。しかし、私たちは身体を持っているし、その身体は私たちの思考や快楽を支配しています。あえて、この身体というものを絶対的な価値基準に据えるという選択をすることで、身体が求めるものをひたすらに求めるという人生の方向性を得られるのではないでしょうか。
個人的には、楽しいことや気持ちいことに価値はあると思います。なぜ価値があると思うかといえば、「本当かどうかはおいておいて、とりあえず価値があると信じておこう」という信条のもとに生きているからです。「なぜ信じるのか」は考えません。それが生きるテクニックというやつだと勝手に思っています。
ありがとうございました。
私はmizunotoriは気持ちいい、楽しいという事に対して肯定したほうが良い気がします。
気持ちいい・楽しいと思うのは人によりけりだと思いますが、
自らが物事に対してどう感じるかという指標の一つにしかならないと思います。(実際に気持ちよいと思っているつもりでも実は自分の一部は気持ちよくないことであったり、楽しいと思っていてもそうでなかったりする場合もあると思います。)
ただ、自己愛があれば、その指標は非常に重要なものになるかと思います。それらは自分にとってどういう形であれその場では自分の益になると感じるからこそそれらの感情が生まれるのだと思います。
人は全て意識下であろうが、無意識下であろうが、自らの益のために生きているものだと考えています。
その益のうちの一つになるわけですからそれは非常に重要な事だと私は考えます。
ただ、理屈で考えた上での楽しさや気持ちよさというのは純粋に感じるそれらに比べると劣るような気がします。なんか醒めた感じで物事を行ってもおもしろくないというのもありますし。
具体例だと、、、
-仕事
・自分が絶対に良い仕事だと思って取り組んでいた仕事が成功する。たとえ小さな仕事でも。
・お客さん・同僚に感謝されるような事ができたとき。
・おもしろい仕事を思いついたとき。実行できたらもっと楽しい。
疲労・時間の消費などはあるけれどもその見返りとしての充実感っていうのは大きいですね。スポーツに共通した気持ちよさだと思います。
-趣味
・写真を撮っているとき、思った以上に良く撮れていたとき。
・見晴らしのいい場所にたどり着けたとき。
オフロードバイクで林道に行くのは環境には厳しいかもしれませんが、最高に気持ちいいですよ。未経験なら是非(笑
・自転車で気分良く走れたとき。疲労感を得られたとき。
微妙にMなのかもしれませんが、筋肉つくかな?と思うと思わず気持ちいいと思ってしまいます。
・名著に出会えたと思ったとき。
無知なので良い知識に触れられたと思うと楽しい気分になっちゃいます。mizunotoriさんはどんな本が好きですか?
答えにはならなくとも参考になればと思い回答させて頂きましたが、mizunotoriが望む回答をくれるような本当の楽しさ・気持ちいい事の価値というものはわからないと思います。
もしわかるとしてもそれは体感することではないのでやはり十分な理解ではないと思います。
なのでガンガン楽しそうな人とつきあって遊んでみるのがいいと思いますよ。
それか、みんなつまらない!とか思うのであれば自分が思う楽しさってやつを追求してみたらいいと思います。
その状態であるのならばなおさら質問しても回答は返ってこないと思います。よほど親しい友人や家族でもない限り。
楽しいこと、気持ちいいことが見つかるといいですね。
がんばってください。
ありがとうございました。
質問を、何回もてらしながら考えました。
楽しいこと、気持のいいこと、その反対は、悲しいこと面白くないこと、いやなこと腹の立つこと。
でしょうか、反対を並べるのにひとり一人違うでしょう。
私は、すべてがすべて同じようにはいかないと思います。
楽しいことがいつもあるわけでもなく、気持のいいことが長く続くこともありません。
お互いに関係しており、お互いがあることでその意味や価値が生み出されると思います。
いわゆる私は、毎日が日曜日ですが、毎日が楽しいとは感じてはいませんが・・・・・。
生きる理由
楽しいことが、それのみで存在しなく、--反対のものが、交互に訪れるからこそ、面白みがあります。
生きる理由として、楽しいことのみに比重がおかれると(私にとって)アンバランスが生じます。
生きる理由は、それとは別であってもかまわないものだと思います。
長文は、質問があれば・・・。
ありがとうございました。
以下創作ですが、
昔々とある時期に、陸奥に豪族がいました。この豪族の長は安部の某と言いました。安部某の一族はそれまで長きに渡り陸奥を支配してきましたが、京洛の天皇以下藤原氏が抱える武家勢力による武力侵攻を恐れ、毎年膨大な貢物を京へ贈り、その武力侵攻を回避してきました。安部某はもう老年になろうかという年齢であり、支配する陸奥では押しも押されぬ地位にありながら、京洛の武力侵攻のことを考え、一族がどうされてしまうか不安で、もう長きに渡り夜も寝られぬ有様でした。つまり、楽しいことをするために生きている、ということほど彼にとって遠い世界は無かったのです。
さてその時期には、やはり安部某の予想通り、はたして京の源氏の軍勢が陸奥に進出しようと目論んで、毎夜のように集まっては相談し、陸奥の安部某をどうやったら貶めて、謀反人に仕立て上げ、その所領と権力を奪い取って我が物に出来るか、相談を繰り返していました。源の某は重臣や一族衆にこう言いました。「ではこうしよう。一度わしが自ら陸奥へお上の使いという建前で出向こう。そこで安部某に難題をふっかけてやろうことよ。安部某は代々の領袖じゃ。おそらくは腑抜けであろう。衆目の前で無理難題を命じられれば腹を立て、反抗的な言動をいたすであろうよ。わしはそれを誘うつもりじゃ。その言動をとがめだてて、安部某をその場で処刑してやろう。なに、京へ帰れば遠国のこと、なんとでも言い訳は立つわい」重職達はこぞって腹を抱えて笑い、君主源の某の方針に賛成しました。源の某主従は段取りを考え、手はずを整えました。
そのようにして陸奥で出向いた源氏は、陸奥で阿部某の盛大な歓迎の宴を受けました。安部某は源氏のメンバーを上座に並べ、自分が下座に座り、自分の後ろには重臣はじめ全ての家来を並べさせて平伏し控えていました。源某は開口一番に言いました。「安部某、わしの座興のために、舞いを舞え。」
当時の価値観では、君主たるものが舞いを自ら舞って他人の酒の肴にすることは恥とされていました。源某はここで反抗的な態度を見たらその場で阿部某を打ち果たす所存でした。安部某は平伏しながらみるみる自分の耳が恥に耐えるため赤くなるのが分かりましたが、しかし即座に応諾すると、自ら進んで女舞をいかにも楽しませるかの如く、長々と舞ってみせました。源某は途端に不機嫌になり、むすっと黙りこくってしまいました。目論みは見事に不発に終わったのです。相手が手の内を分かっている以上は、これ以上同じことを何度やっても無駄と知ったのです。結局源氏は安部一族に手出しが出来ないまま京への帰途につきました。
安部某は、源氏を見送りに行き、源氏の姿がついには見えなくなると、「きみよし、きみよし」(ざまあみろ)と言いました。敵に逃げ道を与えながら押す、腹芸を使う、長きに渡り悩んだ安部某の勝利だったのです。それからしばらく、安部主従は勝利の杯に酔いました。
長きに渡り心労に疲れる毎日を送った阿部某は、この時に、この上ない快感を得たわけですが、このように、気持ちよくなるということはその一言では語れない裏の流れがある場合があると思います。そして、そういうことは誰にも何かの形であるものです。ですので、どんなときも常に、気持ちよくなるために生きていたとしても、逆に言えば、それはそれで構わないわけです。気持ちよくなるために生きている、ということは、ある意味では、そういうことではないのかなと思います。そして、実際はそういうところではないのかなと考えます。
ありがとうございました。
人が「楽しいこと」や「気持ちいいこと」を求めるのは、自分らしさを求めるということだと思います。「楽しいこと」や「気持ちいいこと」の定義は人それぞれ全く違いますから、楽しさや気持ちよさを感じている時は、誰にも邪魔されずに自分自身を満喫している時なんです。
自分にとって最高に楽しいことをみつけるのは、大勢の中に埋もれがちな本来の自分を発見するのと同じです。だからみんな、それを追い求めて生きているんだと思います。
ありがとうございました。
僕は、酒もタバコも賭け事もやらないので、人からなんか趣味ないの?と聞かれると言葉に詰まってしまいます。別に趣味がなくても人生楽しくなくても生きていけるので「楽しいこと」や「気持ちいいこと」に意味なんてないのかもしれませんが、やっぱり自分にとっての「楽しいこと」がないと生きてるかいがないなとは思います。
ありがとうございました。
裏返して「楽しくないことをするために生きる」「気持ちよくないことをするために生きる」ってものすごく気持ち悪くないですか?僕はそんな人生送りたくないですが....
一人ひとりにとっては「楽しいこと」「気持ちいいこと」は間違いなく価値があることだと思いますし、もっと言えばそこにしか人生の価値はないのでは?
一人ひとりにとっての「楽しいこと」「気持ちいいこと」が社会にとっていいことである場合も悪いことである場合もあり、社会にとっての価値として捉えれば一概には言えないのですが。
社会にとって価値あることが自分にとって「楽しいこと」「気持ちいいこと」だ、というメンタリティの人であれば、その人が間違っていない限りどの視点でも価値あることでしょう。
「楽しいこと」「気持ちいいこと」の一部ですが、ドーパミンとかβエンドルフィンとかの脳内物質出て楽しかったり気持ちよくなったりする系のことありますよね。報酬系ってやつで。
そんな仕組みが備わっているてことは、生き物って、「楽しいこと」「気持ちいいこと」を追求するように出来ているんじゃないですか。それらは、生存や生殖にとってたいていプラスのことですし、生き物として自然なことで、それに価値がないなら生命自体に価値がないというのと同じかも、なんて考えますが。
ありがとうございました。
楽しいことが、待ってるはず、と思えるからこそ、辛いことや、苦しいことに耐えられるのではないでしょうか。
楽しいことは、確かに続きませんが、辛いことや苦しいこともいつか必ず終わると思えるからこそ、次の楽しいことがより楽しめるのではないかと思います。
たとえば、祭りなどは、年に1度のことが多いですが、そのために普段の仕事をがんばっている方々もいらっしゃいますし、祭りが終われば日常生活が、待っていますが、それも来年の祭りを楽しみに過ごすことで、がんばれるんだと思います。
価値基準は、人それぞれですが、その人なりの楽しみは、必ずあると思いますよ。
あまり長文にならなくてすいません。
ありがとうございました。
まず、今の時代、本当に楽しいことや気持ちの良いことを追い求められる人は、一部の恵まれた環境の人だけでしょう。大多数の人はそれを望みながら、生きていくだけで大変で、なかなかそれを果たせないのが実情でしょう。だからこそ、楽しいことを追い求めて生きていると言いたい。そういう環境になりたいという願望が一つ。
そして、たとえば受験生ならこの受験を乗り切って思う存分学生生活を謳歌するぞとか、就活中の学生なら希望する職を得てお金を貯めて憧れの何かを達成するぞとか、社会人なら仕事に努力すればきっと報われてやりたいことが出来るようになるとか、そういう到達目標としての意味が一つ。
さらに、楽しいこと気持ちのいいことはそうした努力の上に成り立つご褒美なのだから、自分はそれを追い求めるために頑張るぞという自分を奮起させる意味が一つ。
そうした前向きな向上心が、自分は楽しいこと気持ちのいいことを追い求めて生きるのだという意識に込められていると思います。
人生の本質から目をそらして享楽にふけるという意味でそう言う人もいるのかもしれませんが、普通の庶民にそれは無理です。努力の末に手に入れる楽しいことは、立派な人生の目標です。
ありがとうございました。
結論から言うと同じ様なことをずっとしていると人生に飽きてきて
生きている意味が見出せないことが経験上ありました。なので人生長いしちょっとでも興味あることは全部やってみた方がイイかと。
結構、この世界では色んな教科書が売っていて、真似すればやりたいことがある程度出来るようになると思います。
私は19の男ですが、中学生くらいにテレビゲームはもう卒業とか言
ってやらなくなったのですが、小学生の頃からのゲーム大好きな友
人が事故で去年亡くなられて、なんとなくゲームをまたはじめまし
てプレステ2を買いました。ヤバイFF10楽しい、FF12綺麗、
海外旅行してるみたい 感動しました。
死んだ友達はFF11までしか遊べなかったことを考えると
『ファイナルファンタジーをやれる』
ということだけでも生きている意味が見出せると思いました。
高校の頃はシルバーアクセサリにはまって大量に買いあさり
ついには卸売りと取引をして売る側になりました。最近はお金を貯
めてオリジナルを工場に発注しようと計画中です。
あと、男子校で今まで彼女いなかったのでナンパの教本を買いまし
た。
それで初めてナンパして電話番号とメルアドを教えてもらいまし
た。残念ながら緊張して登録ボタンを押し間違えて、せっかくの成
功が台無しに・・・。でもその日は嬉しくて熱が出ました(笑)
今まで女のコと話したことあんましなかったし。
ナンパのノウハウは理解できたので
今は女のコを連れ込もうと部屋をオシャレにしているところです。
ありがとうございました。
ナンパ成功するといいですね。
楽しいことは楽しいというだけで価値があります。問題はどのくらい楽しいかということで、一瞬で消えてしまう楽しみに人生をかけることは愚かでしょうが、ライフワークとしてその楽しみを追求し続けていくとか、一回一回は一瞬であっても積み重ねていける楽しみであったりする場合には、そのために生きていると言っても十分通用する価値を持つと思います。
というか、私は生きることそのものが楽しく、日々を過ごすことそのものが気持ちいいという人生を送りたいと思います。それはとても難しいことですが、だから挑戦してみる価値があると思います。具体的にはただ過ごしているだけで楽しい家庭、といったことを想定しています。
ありがとうございました。
人間にはごく基本的な欲求として、食欲・睡眠欲・性欲という3大根源欲望があります。これは何れも自己並びに自己が属する生命体の維持確保という面を達成するための欲望です。
人間はこれらの低次元的な欲求が達成されると、より高次元名欲求の達成を求めるようになります。それが快眠や美味しいものを食べたいとか、素敵な女性と付き合いたいといった欲望となるわけです。
でっその評価ですが、個々人が個別の価値観を有しているため、単純な喜びを勝ちあるものと評価するか、自己実現を達成したことにより得た喜びが、始めて評価すべき価値となるか、温度差があるので、一概に価値あるものとはいえないでしょう。
ただし、一ついえることは、喜びや楽しみを感じた時点で、当該行為が自己にとって有意義なものであったという意味では、程度の差こそあれ価値あるものといえるでしょう。その価値の評価水準が個々人の価値観に起因するため、一般概念として価値あるものというは評価は困難となる可能性があるといえるでしょう。
ありがとうございました。
無理を言ってすみません。
ありがとうございました。