変な宗教にはまっているひとを指して「あちら側へ行っちゃった」とよく言いますが、この場合の「あちら側」と「こちら側」の境目ってどこなんでしょう? ここ数年のスピリチュアルブームについても「こちら側」と「あちら側」の線引きがある気がするのですが、個人的な意見で構いませんので、皆さんのご意見をお聞かせください。
神が居ることを物理的に証明した人はいません。そのまた逆に、居ないことを証明した人もいません。
居るのか居ないのかわからないものは結局、「わからない」が答えです。
あちら側に行っちゃった人からしたら、そこに神は居るのでしょう。
でも、その人も神の存在を証明することは出来ません。そして、居ないことも証明できません。
だから、線なんて引こうと思うことは、実はとても難しい問題なわけです!人知を超えたところに答えがあるんじゃないですか?
少なくとも私にはわかりません。
しかし、すごいシンプルでいい質問ですね?
また、変な宗教の定義として、変な宗教とそうじゃない宗教の区別はどうなのか?と、いった場合。それは社会貢献しているのか?そうじゃないのかの差ではないでしょうか?
いずれにせよ境目があったとして、そういことで身近な人が迷っていたら話を聴いてあげられる、そんな自分がそこに居ればいいんじゃないですか?
こちら側は多数
あちら側は少数
元々多数側だった人が少数側に回ったとき、多数側の理解を超えるため、「あちら側」と表現するのではないでしょうか?
宗教だけでなく、自分の理解できない行動をする人が少数派だった場合、「あちら側」と多数派が認定するだけのものだと思います。
世間の常識とされる風習・儀式などを他の人と同じように行うかどうかなのではないでしょうか。
他人に考えを押し付け始めて、それが『良い事』だと認識しはじめたらもうアウトな気がします。
意識的に世間とのバランスをとっている(人に迷惑をかけない)なら、こちら側にいて、あちらの意見を参考にしてるだけだと思います。
トンチンカンチン一休さんも言ってます。
「シチメンドクセーシャラくせー」
そういう意味では、一神教はカワイソーです。
早く最強になれるけど、その分周囲からも狙われる訳です。
米国でも英国でも、テロが相次いでますよね。
下らんテロで命を落としちゃぁ、犬死にでしょうね。
つまりは、行きすぎた多様化がもたらした結末でしょうな。信ずるべきものが多すぎると、ヒトは混乱するのです。混乱するよりは、信じるモノがある方が良いんです。「信ずる者は救われる。」
しかし古来の日本は、八百万の神が宿る美しい国だったのです。
#某安倍氏の著作は読む気はないが、同じことが書いてあるなら、買って読んでやっても良い。
だから、一神教を是とする欧米諸国の猿まねは止めた方が良いでしょう。
ということになるとあちら側なんでしょうね。まあ、好きにすれば良いと思うけど他人にその考えを押し付けなければ。
一票
相手の考えを無条件に自分の考えとして受け入れちゃうと、もう「あちら側」ですよね。
例えば、こんな感じです。
ある宗教を信仰しているAさんが、友人Bさんから、ある深刻な悩みを打ち明けられたとします。
「こちら側」のAさんの態度:
Bさんはすごく悩んでいるようだ……自分の宗教では、悩んでいる人のことは親身になって心配し、相談にのってあげるように言っている。かなり大変そうだけど、自分もBさんのために、悩みを聞いて、助けのできることはできるだけ助けよう。
「あちら側」のAさんの態度:
この宗教に入れば救われるから! 教典読んでみて! 教祖さまの話をぜひ聞いてみて! 悩みの内容? そんなのは私が聞くより教祖さまに聞いてもらったほうが絶対いいから!
宗教の内容や良さを語りだしたらアウト
「あちら側」は自分で考えることを止め、相手の考えに染まること。「こちら側」は自分の意思を持っていること。
宗教は本来、幸せになるためにすることですよね。でも「あちら側」の人は家族を捨てたり、多額のお金をお布施したりして逆に不幸になっていることが多いですね。
なので家族を犠牲にしているかどうかというのは1つの判断基準になると思います。
宗教団体に所属するかしないか、が境目って感じがします。
つまり、その宗教の「本を読む」や「ホームページを見る」以外で、実際に行動を起こして自分の自由な時間やお金を宗教に裂いてしまうと、あちら側ってイメージです。
スピリチュアルブームだと、例のウサンクサイおっさんのでている番組や書いた本(あるかどうか知りませんが何となくありそうです)を熱心に見ているだけなら、こちら側ですが、冷やかしじゃなく本人やそのような人に合いに行っちゃうと、あちら側って感じです。
とても個人的な意見ですが。
話している言葉の中に自分なりの考えが含まれてるかどうかが目安になるでしょうか。
誰かに教えられた、誰かの考え方や知識を自分なりに噛み砕いた感じがしないままただ繰り返してるようだといくらか「あちら側」にいってるのでは、と警戒ほうがいいと思います。
さらにその話している内容が常識離れしてきたら、かなりヤバイ「あちら側」に突入しつつあると判断します。
宗教無くても関係ない人が大多数なので、宗教に熱心=変わった人
のように感じる。本来はそういうものじゃないけどね。
無宗教の国ですから。
「変な宗教」と質問者さんは書いていますが、当のはまっている人はそれを変とは思っていないわけです。-
つまり「世間一般」の価値観を共有できるか出来ないか、が「あっち」と「こっち」の分かれ目である(すなわち、その間に境界が存在する)と思います。-
民族学っぽく言えば、常識を軸に結束したムラと、異なる価値観をもつ異物・よそものの対立といえるのではないでしょうか?
ではないでしょうか。いわゆる「ア・プリオリ」。