強かったんじゃないかとおもうんですよね。
原始神道はいわゆるアニミズムやシャーマニズム的で
仏教を取り入れたというか、飲み込んだというか、
並存してそれが外来仏教とも違う日本の独自の文化に
なっていったと思うんですね。比較的に寛容な文化ですよね。
それこそ、けものも虫も神なんだから、
仏教だったりヒンドゥだったりの神も
弁天だの権現だのって相互相乗りで吸収してきたと
おもうんです。
で、封建社会になって、武士、侍の時代になると、
強力なメッセージがやっぱり必要になって、
仏教の側も日蓮宗とか一向宗とかが出てきて、
神道の側からも吉田神道とか、復古神道が出てきますよね。
寛容な文化へのカウンターカルチャーというか
もう一神教に近い思想ですよね。
殺し合いやってるのに、そこいらに神がいるって言われるより
絶対的な存在っていうほうが、必死になれますから。
このあたりのメッセージの強力さは、儒教の影響というのは、
やはり大きいと思います。(強力なメッセージ性という意味で)
朱子学→国学→復古神道→国家神道という流れが、
原始神道の八百万の神というのとは対照的に、
イザナミ・イザナギから天照そして天皇家へつながる
神こそが特別だとする上下秩序を重んじる厳格な方向に
シフトしちゃったんじゃないかと思います。
自分が信じていた宗教が何か他の宗教と合わさっちゃうわけなんで、なんだかよその敷居をまたいだような気分になってしまったんじゃないでしょうか。
すがる思いで仏教を信じていたら、実は神様だったから明日から神様っていえって言われても、と思う。
そんなこんなで日本は無宗教に近い人が多くなったんではないでしょうか。
廃仏毀釈もあったのかな、ということは。国家神道。
イスラム教・キリスト教世界では一神教が当たり前。それに対して日本の神道は八百万の神々がいるとされています。だから、日本人の宗教観は宗教はなんでもありになっている。それでその神々の中に仏教も含めてしまったのだと思います。日本人にとっては宗教はなんでも有りが常識でも、世界全体から見ればこれは異端で珍しい考えなのです。よく言えば寛容、悪く言えば宗教に対して無節操で確たる宗教的規範を持っていない国民性なのです。だから、みんな結局いわしの頭も信心で「自分教」になちゃう。神仏習合についていえば、日本の国の権力者は寺社を民衆の権力支配の一機関にしてたので、国の権力側の思惑で民衆支配の道具に仏教・神道相反する宗教をチャンポンにして取り入れたともいえます。神仏習合によって日本の仏教は形骸化して本来の仏教からかけ離れたものになったんじゃないかな。例えば、タイなど他の国のお葬式には仏教のお坊さんを呼ぶ風習はないのに、日本ではお葬式にお坊さんを呼びます。これは江戸時代に始まった風習で本来の仏教にはなかったものでした。日本ももうそろそろ仏教を本来の仏教の形に戻した方がいいんじゃないかな。
「日本を創った12人」という本があり、その中の聖徳太子の項で神仏習合と日本のあり方の変化について書かれていたように思います。
昔から何でも擬人化して教え込まれますよね。
「まだ使えるのに捨てたりしたら鉛筆さんが可哀そう。」とか。
「この樹は昔からいろんな事を見たり聞いたりしてるんだよ、偉いね。」とか。
この寛容性が日本人の良い所なんじゃないですかね。
良い所ばかりでなく悪い側面もあるとは思います。あら捜しすれば。
肉を食べる習慣が付いたと大学で習いました。
それまでは,あまり肉は食べなかったようで仏教のナマグサがその礼だとか。