人間と機械のこれからについて、個人的に考えていて……袋小路にハマっちゃいました。人間は機械を使う事で幸せになったのか? とかですね。
インターネット関連に限らず、それこそ電車や自動車、リモコンや電卓などといったことまで含めてOKです。何でも。
よろしくお願いします。
「旅に出て農村を通る。すると、行く先で何も
買わなくてもお茶やお菓子、たまにはできた農作物の一部などをくれるという。
忙しいのに悪いし、お返しできることもないからと、最初は受け取らない。
しかし、何度も通ることがあって、断れずにいただいた。
するといろいろな困っていることや
愚痴も混じった話につきあわされることになり、
しかもその相手からは、「愚痴につき合わせてわるいなあー、でも
あなたのような人と話すのも久しぶりで楽しかった」のように言われた。
まず受け取ることをいやがらなくなってからは、
きっちりギブアンドテイクというわけにはいかないが
関係を築くことができた。」
つまり、頼ること、負担をかけることを怖がらないことは、
通常の社会的コミュニケーションの第一歩でもあるのです。
旅なれた椎名氏ばかりではなく、
人生のそこここで応用できると思うのですが、いかがでしょうね?
もちろん、有名な人じゃないといやだからといって、
ノーベル賞学者にばかり頼ろう教わろうとするのは
明らかに相手の負担でしょうけれど、
ある程度は「人に頼る」ことを
敢えてしたほうがいいと思いますよ。
「使えない人」と思われても、確認したほうがいいこともありますし。
メール使うだけでも全部自分でできればコンピュータを使える人。いくら詳しくてもわからなくなって他人に頼るのは使えない人。
言われると思い当たる気がします。
>運動不足
ムーアの法則がありますが、あれを見るたびに人間が生まれるときに最初脳細胞が指数関数的に増加する所と似ていると思います。
そのうちに成長が止まるのですが。
恐らく現在コンピュータは成長中なのだと思います。
個々の細胞が集まって人間になるように人間が集まって電脳で情報が結びつけられて行き一つの個体になるでしょう。
自分の意思とは別にネットワークからの情報で人々が動かされるようになったらそれが始まりだと思います。
機械が強いことと人間が強いことを的確に使い分けれるひとが
「コンピュータを使えるひと」と思います。
プログラミングや回路設計など、実際にその便利なものを作れるかどうかじゃなく、誰かが作ったその「便利なもの」に対して、たとえ中身がどうなっているか詳しくわかってなくても、どこまで上手に使って、しかもそれをどこまで人間が機械に勝る事と上手く組み合わせれているかではないでしょうか。
オスマントルコに敗れたスペインが、その後、彼らのいいところを取り入れて大航海時代において無敵を誇ったように、結局ものは使いようです。何事もバランス感覚が大切なのでは。
それは使っている人の使い方が間違っているのです.技術とは本質的にそういうものではないでしょうか?
ことが少なくなるということだと思います。
コンピュータはとても便利ですが、ウィルスやら、不具合やらいろんなことがおきて完全なものではありません。そこが人間と似てるかもしれません。
依存するのではなくうまく距離を保って関わっていけば、幸せになれるのではないでしょうか?
ことが少なくなるということだと思います。
そして人件費は数十万~で使えない社員よりもよく働く達者な奴!
しかし融通の利かない頑固者!簡単に情報を漏らしてしまうやんちゃなパソコン君。電磁波にはちょっと弱いし、人間の頭をゆるくしちゃうかもしれないけど、やっぱり切るに切れない麻薬的な存在☆
パソコンを使うってことは、人を使うのと似ても似つかないけど、なんとなく共通点はあるよね^^*
パソコン使うようになってから運動不足になりました。頭ばかり使って体動かさないとバランス悪くてしょうがない。情報過多は考え物です。
機械にはそれぞれ目的があると思うんです(たとえば自動車なら早く移動するためとか)。
それで、その目的を持つ人にとっては幸福なんじゃないでしょうか(早く移動したい人にとっては、自動車があれば幸せ~・・・みたいな)。
だけど、その目的を持たない人にとってはどうでもいい、または、邪魔な存在なんじゃないでしょうか(別に早く移動したくない人にとっては、自動車は邪魔!・・・みたいな)。
人類の進化(退化)の1ステップだと思います。
人類が変化するとき、この変化により、幸福と感じる人、不幸と感じる人が二極化されるのでは...幸福と感じる人の方が少し多いかも?
いまや、携帯電話やパソコンがないと生きていけないような気がしてきます。昔はそんなのなくて当たり前で平気だったのに、便利になったことで、何かやることが増えたように感じる
道具を使わずにやるよりも労力、時間を節約できたならば道具を使えるということになると思います。
嫌煙者が禁煙を迫る事、と、自動車排気ガスによる温暖化。。。この二つは似てる部分が僅かにあるなと思うんですね。。。
嫌煙者は「複流煙の害を考えれば禁煙が妥当」「肺がんの危険があるのに何故禁煙出来ないのか。薬物依存症と同じで情けない」などなどと普通言うものですが、、、喫煙者にしてみればですが、例えば、煙草はストレス解消に便利なものだったりします。。。一種の興奮剤ですからね、落ち着く訳ですね。。。喫煙者は禁煙を想定するときに「これが無くなると不便だなあ、特に禁煙し始めたばかりの期間はさぞや困るだろうなあ」「煙草無しでは困る」と思う訳です。
自動車も同じではないでしょうか。自動車がこれだけ多い世の中ですね。。。世界中で膨大な排気ガスを日夜生産している訳ですから、当然、温暖化を自動車だけでも一気に推し進めてしまいます。。。瀬戸内海では、温暖化で日本の歴史上初めて、魚の生態系が変わってしまったそうですね。。。平安時代、江戸時代、昭和時代には瀬戸内海に居なかった魚が大量に生息するように、ここ10年で変わったらしいですね。。。日差しも心なしか強く感じますし、冬も寒くなくなったように思いますが、それでも、「自動車が無くなれば、さぞや不便だろうなあ」などと思う訳です。「自動車の無い世の中じゃ生活に困る」と思う訳ですね。。。
パソコンもそうかもしれませんね。。。パンにバターが乗ってるのか、バターにパンが乗っているのか、、、すなわち、人間がパソコンを使っているのか、パソコンが人間を使っているのかと。煙草に吸われているのか、自動車に乗られているのか、、、
。。。そう考えますと、面白いですね。。。
例えば電卓:自分では計算しない、頭を使わなくなった
パソコン:文章を紙と鉛筆を使って書かなくなった(全くなくなtったわけではないですけど)
パソコン:検索すればそれが正しいか間違っているかは別として、ある程度情報を得られるようになった、
よって、図書館に行ってまで調べることが少なくなったので、脚を使わない。
直接人に聞かないで、パソコンを頼りにしがちになった(コミュニケーションの減少)
洗濯機:洗濯板を使って洗濯をしなくなった
冷蔵庫:食料の買いだめをするようになった
(もっと昔の人はたぶん自分で食料を集めたと思いますが)
などなど。
便利なのが当たり前になってしまって、便利ではない生活に後戻りできなくなった。
どの時代からかわからないくらい一長一短を繰り返してますよね。。。
「コンピューターを使える=操る、操られる」みたいな感じ。
パソコンでネットやワープロなどからSEまで。
主人がSEだから余計思ってしまいます。
機械を使うようになったことで便利にはなっていると思いますが、幸せにあったとは限らないと思います。
例えば、コンピューターじゃないですが、電気についても、夜の暗闇を減らしてくれましたが、
その代償として、月明かりや星の美しさを減らしてしまっています。
ネットのこのようなサイトで他者とのやりとりが簡単になりはしましたが、
一方で他人の目を見て話をすることの大切さが見失われているような気もします。
物質化された社会は便利ですが、感性とか、自然に対する感謝の気持ちなど、自然の中で生きる生き物として大切な事柄を忘れてきているような記がします。
機械に頼るかわりに余った時間を有効活用できれいればよいのでしょうけど、現実、残念ながらそうはなっていなくて、
逆に使い方がわからなくて機械に振り回されているような気がしなくもない(悲しいですが)