ここでは、コミュニケーションは「話す事」と「聞く事」とから成り立っていると、仮定します:つまり、一方が話す事をもう一方の人が聞く事という構図が、お互いについて存在している時、コミュニケーションがあると考えるとします。 一方的に話す、もしくは一方的に聞くだけでは、コミュニケーションと言わないとします:例えばマス・コミュニケーションは、ここでは扱わないとします。
Twitterでのつぶやきはまだありません
これ以上回答リクエストを送信することはできません。制限について
ログインして回答する
コメント(12件)
>どちらもたいして大切ではない。特に、言葉よりも態度。
「どちらも」は「話す事と聞く事のどちらも」の意味。
「特に、言葉よりも態度」というのは、「言葉よりも、態度の方が特に大切」という意味です。
他にも突っ込みがあれば、こちらへどうぞ。
また、「自分が聞いた事を理解する能力」の前提として、「相手の言葉から相手の環境状況を再構築する」能力と「それをまた自分でわかる言葉にしてみて考える」能力が必要だと思います。
態度や以心伝心(が出来るかの把握)といった部分は、伝える受ける部分での手段であって、「自分が伝えたいことの把握能力」ではなくて「言葉や態度へのエンコード能力」のひとつで、また受け側も同様と考えます。
落語なら枕、漫才なら掴み。私は電話に出た相手の挨拶だけで以後の話し方を決めることがあります。
上司はいわゆる「一を聞いて十を知れ」というタイプで、長くチームを組んできたこともあり「以心伝心」でやってきましたが、異動があり、部署が離れました。
離れたのですが、所属上まだ直属の上司でして、以前のように顔を見て話せば「以心伝心」でわかることでも、メールなどではさすがに明瞭さに欠け、さらに、互いの「このくらい言わなくてもわかるだろう」的な甘えと慢心からミスや齟齬を起こして、先日話し合いをしたばかりです。
自分が発信したことを、相手に「正確に」「意図したとおりに」伝わったかどうかを確認するすべはなく、その逆もまたしかり、です。「以心伝心」というのは、長年連れ添った夫婦などが経験則で身につけた「ツーといえばカー」の関係以外ではありえないのではないでしょうか。
やはり、聞くこと(受信)も話すこと(発信)も同じだけ重きを置かねばと思う次第です。
また、自分の意見を聞いてもらった満足感があれば、人の話も耳に入りやすいそう。
ただし、「聞く」の限界はプロのカウンセラーでも1時間半が限度。
仕事でもプライベートでも、過度の「しゃべりっぱなし」は相手に不快感をあたえることもあるので、注意が必要。
特に、愚痴などのマイナスの話は、聞く相手にも相当なエネルギーを消費させることを、心の片隅に置きながら、話をしたいものです。
(愚痴をこぼすときは、たいていそんな余裕はないものですが…)
と心から感じることで信頼関係ができるからです。
そもそも、最初に「コミュニケーションは話す事と聞く事とから成り立っている」と仮定しているのに、何が大切かとか聞いてる時点で愚問なのです(笑)。
その点を考慮すれば、「両方大事」も実は「愚問」と本質的には同じです。したがって、「両方大事」が一番多いのは、あらかじめ予想できた事です。
設問には『”一番目に”大切なもの』と書いたのですが、コメント欄を見る限り、これを『必要なもの』の意味にとった人が案外いるような気がします。
さて、私の意見ですが、やはり「聞く」事が一番目に大切だと考えています。私と同じ意見の人が比較的はてな利用者には多いようで、私自身は満足です。
しかし、話す事が一番目に大切だと考えている人も無視できない程度いらしゃるようです。
私が「話す事」を一番目ではないと考えるのには理由があります。
まず、相手がそもそも人語を理解しない場合、話す能力はあまり役に立たないからです。例えば、相手がペット、あるいは赤ん坊の場合です。恐らく、ペットを飼っている人や子育て中の親は、コミュニケーションしていると感じていると思います。
また、相手が自然界の場合、かれらは人語を意に介しません。この場合われわれは観察する意外にどうしようもないわけです。科学はまさに、自然の声を聞くところから始まります。それで初めて、私たちは自然に働きかける事もできるわけです。
なお、「一番目に大切」でない事と「不要」である事とは全く意味が違います。「二番目に大切」なものも大切である事には違いなく、言うまでもなくどちらも「必要」なのです。