以前僕は「前世も来世も存在しない」と考えていました。理由は存在を証明できないからです。
しかし最近「あるかもしれない」と思うようになりました。理由は存在しないことを証明できないからです。
ぼくは男ですが、前世も男だったという一貫性もなければ、日本人だったということもないので、アフリカ人女性だったかもしれません。
しかし性別だけでなく人間だった保証もないのでカマキリだったかもしれません。タンポポだったかもしれません。
しかし地球上の生物だったということも証明できないので宇宙人だったかもしれません。
またテレビでタモリが前世占いをした結果が「歯ブラシの柄」でした。w
よく考えると意識をもった生物である保証もないわけで、来世は机かもしれないし、窒素かもしれません。
この考え方についてどう思いますか。
「前世とはなにか」という定義づけによるのでは。
どういう場合を「前世」というのかも考えてみると面白いと思います。
考えようによっては私の前世は今朝食べた菓子パンとか、お昼に飲んだお茶などたくさんのものです。
一瞬前の自分が今の自分の前世、という考え方等もありだと思います。
前世の記憶を持って生まれたり、前世の魂(これも定義が要りそう)を持って生まれたり、という証明できない類のことも、私は否定したくないです。
存在すると断言までは出来ないですが、「存在するかも」「存在してもいいな」ぐらいには考えています。
ただ、「存在しないことを証明できない」というのは『悪魔の証明』といって、「~~ではない」という現象についての説明は科学的な立証が困難であると言われています。
ですから存在することを証明するほうが圧倒的に簡単なのです。
しかし現代ではまだその「存在すること」がまったく証明出来ていないので、存在しないというのが科学的に見た前世の一般論で間違いありません。
無機物に関しては前世として考えるか微妙ですね。
それを含めると、「終わり」が存在しなくなってしまうため輪廻転生という考えに無理が生じます。
例えば炭素に生まれ変わったら何百年経っても何億年経っても炭素のままですよね。
人間も死んでも身体はそのまま残ってるわけですから、土に埋めても焼いても元素単位での物質は残ります。
ですから前世や来世という考え方に関しては「生物」に限定されると思います。
確かに人間は死んで焼かれると人間としては存在しないことになりますが、炭素は炭素のままですね。
しかし炭素を構成している電子、原子核レベルでの分解はあるのでしょうか?
もしあるとしたら恒久的な炭素の存在はないですね。
そのあたりもう少し調べてみます。
前世も来世も無いと思います。真実は死んだ時わかるかもしれませんねw
「前世、来世は存在すると考える人」の意見を聞きたかったのですが、残念です。
しかし「真実は死んだ時わかるかも」という言葉から死後の世界を経験したが息を吹き返した、という話を思い出しました。
たとえば三途の川みたいなところを渡ろうとしたけど、現世からの声が聞こえたところ引返したら生き返った、というような話です。
しかしそれはただ夢を見ていただけで「死後の世界を経験した」ことと「死後の世界を経験した夢」を見ていたことの線引きはどうやって行うのかな、と思います。
「前世とはなにか」という定義づけによるのでは。
どういう場合を「前世」というのかも考えてみると面白いと思います。
考えようによっては私の前世は今朝食べた菓子パンとか、お昼に飲んだお茶などたくさんのものです。
一瞬前の自分が今の自分の前世、という考え方等もありだと思います。
前世の記憶を持って生まれたり、前世の魂(これも定義が要りそう)を持って生まれたり、という証明できない類のことも、私は否定したくないです。
そうですね、前世来世にかかわらず物事を考える上で定義というのは非常に重要であるにもかかわらず軽視されている気がします。
前世は現世以前、来世は現世後、という固定観念をもっていましたが、前世と現世が同時に存在するという考え方は一理ありますね。
非常に興味深いです。
ありがとうございます。
私は人の前世が見えます。あんたの前世はタニシです。
なるほど、タニシですか。
ちなみに前世は過去でしょうか?
時代やどの場所に生息していたタニシだったかも知りたいです。
非常に個人的な勝手な思いこみですが、
科学というものを知った子どもの頃から
なぜか有機物にしか意識は存在しない、と思ってました。
燃えて灰になったときに意識が昇化するんだ〜と。
なので、生物でなくてもありだと思います。
http://q.hatena.ne.jp/1161183249
また、
夢野久作の「ドグラ・マグラ」に
「胎児の夢」という、登場人物が書いた架空の論文(エルンスト・ヘッケルの反復説を下敷きにしているそうです)がありますが、
それに拠れば
ヒトの細胞の一個一個が
地球の生物が体験してきた進化や経験の記憶を持っているそうなので、
その記憶が前世、後世は私の細胞を分解した微生物、と言えなくもない…
と思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B...
ドグラ・マグラは途中まで読みました。
細胞の話も読んだかどうか憶えてませんが、それも面白い考え方です。
「その記憶が前世、後世は私の細胞を分解した微生物、と言えなくもない」という部分はいってる意味がよくわかりません。
また、無機物にも意識があるかどうかは面白いテーマだと思います。
ある性質を持った個体(人間)が産み落とされて、両親、周りの人間に接し、その他いろいろな経験をして、その一人に今の「前世はあるのか、ないのか」と考えていらっしゃるあなたがいる訳で、同様の「思考」をもった人が前世や来世にいるというのは考えにくいです。
「ある性質を持った個体」がたまたま、異なった時代で産まれたとしたら、それが前世や来世になるのかもしれませんね。
横レスですが、無機物には、意識はなくても記憶はあるんじゃないか、と思います。
そうですね、ある個体とある個体が別々なのか、そうでないかというのを定義するのは判断するのは難しいです。
たとえば僕は「インターネットが好き」という性質を持っていますが、平安時代に生まれていたらその性質は持ち合わせてなかったわけで、前世ではなく別人が存在していたことになります。
また「意識はなくても記憶はある」という考え方は非常に興味深いです。
記憶というのは意識の一部であると考えていたので、どうやら別の考え方のようですね。
よろしければ詳しくお聞かせください。
その考え方には私も同感です。
ですが最近、歯ブラシの柄のような意識のない(と思われる)ものが前世だった場合、意識がないのに「前世」だったってどういうことなのだろう?と思うようになりました。
また、人口が増え続けていることを考えると、ある一定数の何か(命とか意識といったもの)が何度も生まれ変わってこの世界ができてる、というふうに考えるのは難しくなると思うのですが、どうでしょうか。
前世を語る上で、そもそも「意識」とはなんなのかを考える必要があることに気づきました。
また、人口が増え続けている件ですが、仮に前世も来世も人間だったとして説明がつくと思います。
もし死んだ瞬間にバトンタッチで切れ目なく来世が始まり、それが永遠に続くとすれば人口は一定だと思います。
しかしある人の来世は3日後に始まり、ある人の来世は1万年後だとしたら人口の増減は起こりうると思います。
また、人間ではなく前世はペスト菌だったならばペストが絶滅した分人間が増えると考えても説明ができます。
脈絡 ~ 連続しない論理は反復しない ~
つぎの結論は、すべての生物には“親の前世”があり、その遺伝子を受け
ついだ個体にかぎって“子の来世”がある、というものです。
非生物については、これまでのところ合理的な定説がありません。
── 「すべての生物には親がある」
── ド・クライフ/秋元 寿恵夫・訳《微生物の狩人》
Spallanzani, Lazzaro 17290110 Italy 17990212 70 /
── 「だれも歴史を見ることはできない。草が成長するのを見ること
もないように……」
Simon, Claude 19131010 France 20050706 91 /《Histoire,1967》
── 「ある時ふと、誰かのことを思いだす。この現象はなにか?」
(ヒトに関する数々の不思議のなかで、最後の謎は“記憶”ではないか)
Tonegawa, Susumu 19390905 Nagoya /
http://q.hatena.ne.jp/1151355319#a558514
↑過去回答↓
http://q.hatena.ne.jp/1149960115#a547853
ありがとうございます。
でもすいません、言っている意味がわかりません。
たとえば「すべての生物には親がある」ですが、宇宙誕生時には生物はいませんでしたが、現在いるということは史上初の生物がいるわけで、それには親はいない?
でも僕が言葉の意味を誤解している気もします。
根拠はないけれど、前世がありそうな気がします。
会社などで、すごく世慣れていて、人当たりも良く、何事もそつなくこなす人をみると「この人は前世も人間だったのだな」と思います。
何をさせても、本能的で、乱暴であったりすると
「この人は前世は、なにかの哺乳類だったな」 とおもいます
人とのコミュニケーションが全くできず、内向的で、
精神的にも参っている人をみると
「この人の前世は、なにかモノだったのだな。人間になるのははじめてなんだな」と思います。
私にとっての「前世」は、そのジャンル(例えば、人間というジャンル)の経験値みたいなイメージです。
前世がモノだと次もその性質に似ているという理論の流れが納得できません。
省略 ~ 承認された論理は立証しない ~
オパーリン《生命の起源》によれば、最初は非生物の物質が、結晶や
融合によって分離・合体し、あたかも成長・繁殖しながら微生物に進化
したと、ダーウィン《種の起源》を補強しています。
クロード・シモンは“意識”を、利根川進は“記憶”をもって、存在
の主体とみています。親の遺伝子を(進化しながら)子に伝える個体を
総称して“生物”と呼ぶのです。
したがって、非生物には親がない、成長しないものは生物ではない、
繁殖しないものは生物ではない、と考えられます。
(ヒトは、考えることによって、いささかの例外を認められています)
もちろん、個々の生物に、訊ねてみたわけではありませんが……。
線に面積がなく、点には面積も距離もないのに、点の連続が線となる
ように“時の概念”が出現するのではないでしょうか。
前世と来世は、概念として存在するが、実在しない。
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19391127
存在すれど実在せず ~ esse vs exsistere ~
再度の回答ありがとうございます。
非生物が微生物に進化するという考え方はおもしろいですね。
実際宇宙誕生時には生命は存在しなかったが、現在存在する事実を説明するにはそう考えざるを得ませんね。
「意識」と「記憶」についてはさらに突っ込んで考えてみたいところです。
また「点の連続が線となるように」とのことですが、その考え方は間違いではないかと思います。
0を何億個集めても0であるように、点はあくまでも点であって、線にはなり得ないと思います。
同じように線をいくら集めても面にはならないと思います。
直接ではありませんが、以下の本からの考えです。
そうですね、前世来世にかかわらず物事を考える上で定義というのは非常に重要であるにもかかわらず軽視されている気がします。
前世は現世以前、来世は現世後、という固定観念をもっていましたが、前世と現世が同時に存在するという考え方は一理ありますね。
非常に興味深いです。
ありがとうございます。