サンフランシスコへの航海は有名なのですが、アジア、アフリカなどへの航海記録がありません。
幕末の福沢諭吉などが咸臨丸に乗り込み、アフリカのガーナかベナンあたりで日本人が奴隷を解放したという文献をどこかでみたような覚えがあります。
日本人による【奴隷解放】の詳しい記事を教えてください。
アフリカ人たちが日本人を好きなのはこの事件が背景にあるとおもいます。
携帯で確認したいのでいわしで質問します。
たぶんこれでしょう。他にもないか自分でさがしてみます。
書き忘れてしまいました.
奴隷については遣米使節のようですが,
>ピラミッドの前で写真
についてはおそらくスフィンクスのことと思います.
http://inforyoma.com/bakumatu/sisatudan.htm
この写真は咸臨丸あるいは福沢諭吉が参加した第一次遣欧使節団ではなく,仏艦ル・モンジュ号でヨーロッパへ向かった第二次遣欧使節団のものです.
ちなみにスエズ運河はこのころ完成前だったため,陸路で地中海へ抜けたようです.
携帯では見づらいかもしれませんが,
http://tozenzi.cside.com/oguri/column/aroundw/aroundw1.htm
http://www.tenri-u.ac.jp/tngai/americas/files/newsltrs/06/6redis...
万延元年(1860年)の新見豊前守正興を正使とする遣米使節で、アメリカでは奴隷制廃止数年まえの時期であった。高官三使は首都のホテルでの黒人盲人ピアニストの演奏会に招かれたが、随員の中には、黒人女性に差別の実状を訴えられ、不憫に思って持参の扇子を与えたりした者もいた。奴隷制廃止の機運にあることを知っていた通詞のひとり名村五八郎は、人身売買を極悪だと非難している。一行は帰路、希望峰回りの米船で日本に向かうが、ポルトガル領ルアンダに寄港する。同地での原住民の印象や米船が600人ほどの奴隷を仕入れたらしい旨の記述(村垣淡路守範正『日記』)がある。名村の日記では、一行の船の乗組員が、近くの海岸で売られようとしていた200人ほどの奴隷を見つけこれを助けた、と記している。
ただしそれが咸臨丸ではなさそうですね。
まず咸臨丸に着目しますと、この船はアジア、アフリカ地域ではほとんど航海していません。
可能性があるとすれば製造されたオランダから日本への回航時だけですが、この時には日本人は乗っていません。
諭吉と咸臨丸の関係は1860年の遣米使節の副史、木村摂津守の従者として乗船したのが最初で最後です。
この遣米使節は帰途、アフリカを経由して帰国していますが、諭吉は木村摂津守と同道して、咸臨丸で太平洋経由で帰国しているのでアフリカの土は踏んでいません。
また翌年、諭吉は遣欧使節団の一員としてスエズ経由でヨーロッパに向かっています。
諭吉(もしくは日本人)と奴隷解放のエピソードについては興味があったので調べてみてもみつかりませんでした。
もしそんな話があるとすれば、遣米使節がアフリカに立ち寄った時か、諭吉のヨーロッバ行きの途中のどちらかの話だと思います。
可能性としてはアフリカに滞在した期間の長さなどから、遣米使節の方が大きいと思います。
他に写真があったと記憶しているのですが・・・