自殺についてどのようにお考えになりますか?
日本人の古来よりの処世である
(武士の切腹など)
恥を忍んでも生き延びよ
などご意見をお願いします。
「自殺は悪い事」とか「してはいけない事」と言って、自殺したい人を責める人が居ますが、私はちょっとそれはどうかと思っています。
例外ももちろんありますけど、自殺を実行する人は、その時点で既に精神を病んでいると思うのです。
逆に、気がおかしくなっていないと、怖くてできる事じゃありません。
私はうつ病で、実際に自殺未遂をやった事があります。
冷静になったら、死のうとしていた時の自分を客観的に見る事ができます。
だけど、今まさに「死のう!」と思っている時に「自殺はいけない事」とか頭にありません。
ただ、「死にたい」それだけです。
気がどうにかなっているんです。
そんな人に冷静に「自分が死んだら周りがどれだけ悲しむか?」とか「死ぬ勇気があるなら、生きていける」とか思う余裕はありません。
「死ぬ勇気があれば、どんな事だってできる」というのは、強い人の考えです。
自殺する人は、その時点でもう正気ではなくなっているのだと、私は思うし、周りもそれを知るべきだと思います。
江原啓之さんのスピリチュアル本などにもありますが
魂は永遠であると思っています。
この世に生を受けていろいろ学んでいると考えています。
なので自殺をするということはカリキュラムを放り出すということになり
来世でまた同じ苦しみを味わうことになるそうです。
課題をクリアできなければ先へは進めませんから。
自殺をする決心がつくくらいならすべてを捨てて新しく生きていくこともひとつの手だと思うのです。
逃げるのではなく新しい人生の始まりだと思えばそれもありかなと。
・・・というわけで自殺には賛同しかねます。
私も自殺などは考えません。
ありがとうございます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E7%B8%9B%E9%9C%8A
自殺は よくないですね。
死ねば解放されると思って自殺するのでしょうが、
死んでも解放されません。
たいていは 地縛霊となるようですし。
地縛霊というのははじめて聞きました。自爆は国によっては、結構ありますが。ありがとうございます。
私は、自殺肯定派です。
以前は自殺など考えられないというか、選ぶべきではないと思っていました。
基本的にはそう思うのですが…。
私は無意識のウチに自殺したいと思って実行しそうになりました。
それから、自殺してしまった人がいるとそのときの状況のようになったら仕方ないのかな・・・辛かったろうな・・・と思うようになりました。
無意識のうちに自殺なんて、自殺じゃないと思いますが。ありがとうございます。
何とかして防ぎたいのに、他人の力ではどうすることも出来ないもの。それが自殺だと思います。
でも、たいていの場合、自殺の願望や衝動は、環境的な要因によって形成されているんですよね。本当は自殺じゃないんです。何かに追いつめられて、最終的に殺されていくんですよ。何々を苦にしてとか、何々に失敗してとか、何々を恨んでとか。多くの場合、環境や状況が、死を強制しているんです。
精神を病んで、ということも言われますが、それだって、元をたどれば精神を病ませてしまった原因があるわけです。結局、「誰」と責任者は特定できないまでも、「何か」に殺されるのが自殺の真相なんだと、私はそう思います。
でも、他人には、そういう当人の追いつめられている状況は、全く理解できないんですね。だからさらに、誰にも理解してもらえない、誰にも相談できないという絶望感が自殺の願望に拍車をかけてしまうわけです。
そんな時、たまたま運良く環境や状況が変化すれば、死なずに済みます。そして、長い時間のうちに、死にたいと思っていたからこそ分かる命の尊さにも気が付いていけるかもしれません。私も、そんな経験をしてきた一人でした。
でも、そういう「たまたま」の運に恵まれなければ、耐え難い閉塞感から逃げ出したい一心で、死を選んでしまう、という不幸も起こってしまいますよね。
誰でもどんどん逃げていいんだ、嫌だと思ったら全ての責任をほっぽり出して逃げていいんだという社会なら、自殺は随分少なくなることでしょう。
逃げ出すことに成功した人こそ讃えられるような世の中なら、自殺を必要とする人は、かなり少なくなっていくはずです。
もう逃げるところがない人もいるのでしょうね。ありがとうございます。
うつ病になった場合は、本来自殺反対!と思ってる人でも、可能性はあります。
意思とは無関係に、体が死のうとする行動に出ることがあります。
100%死にたい人っていると思えないです。
「苦しまずに生きる方法が見つからない」
健康な時は、「風向きが変わるだろう」と「少々無責任でも死ぬよりマシ」と思えますが、
うつの症状には、「自分を責める」と
「この苦しみが永遠に続く」という感覚がします。
でも、少しでもホッとしたり、許された感覚になると、別人のように「何で死にたかったのだろう?」と思うのです。
自分で「さっきの誰?」という感覚です。
貴重なお話、ありがとうございます。
こんなことを書いてはいけないのかもしれませんが、人が自殺していけないという理由なんて無いんです。
子供のころに「自殺すると家族が悲しむから」と言われたことがありますが、家族を悲しませないために人は生きてるわけではないでしょう。
生まれつき難病で生きていくのに死ぬほどの激痛を伴うとしたら、激痛に耐えながら一生生きなさいと言うことはできますか?
精神的な心の痛みで生きていくには耐えがたい痛みもあるでしょう。
死んだほうが楽な痛みなんてないって言う人は、生きているからそんな痛みを感じたことはないはずです。
自殺する権利というのは、人間に与えられた最後の権利なのかもしれません。
自殺を擁護するわけではありません。
若い自殺者の中で、世間で最も大切とされている自分の命をわざとごみのように扱って、社会にべろを出して無感情で死んでいくような自殺者もいます。
そういうつまらない自殺者を減らす簡単な方法があります。
自殺をテレビをはじめとするメディアで一切放送しないことです。
問題の解決にはなりませんが、どんなに苦しくても自殺という選択肢に気付かなければ自殺はしない。
若い人の多くはそれくらいの理由で自殺していると思っています。
生きていればいいことがあるなんて、今が無ければこの先いいことなんてないでしょう。
頑張ればなんでもできるなんて、幻想でしょう。
それでも自分が自殺しないのは、自殺をすることなんて最初から選択肢に無いからです。
ありがとうございます。
別に人それぞれ個人の自由だと思います。したい人がいれば勝手にしてくださいという感じです。周りがネチネチ言うことじゃないと思います。
影響が大きい方もいらっしゃいますよ。ありがとうございます。
中央線「新宿駅」のホームで「飛び込んだら楽かも・・・」という自分と、「そんなことをしてはダメだ」という自分がいて、結局、元かかりつけだった心療内科の医師に電話して「今、死にそうなんです」と告げ、「飛び込もうとしている電車に乗ってクリニックへすぐ来なさい」と言われ、今日に至っています。
私も「うつ」と永い付き合いをしていますが、自殺企図はそれ1回だけです。厚生労働省の統計でも自殺者が右肩上がりで、予防策として「うつを見逃すな大作戦」が展開されるようですが、自殺者のほとんどは“ふらっと”というのが、大半ではないでしょうか。
私は、過去の切腹みたいに、何らかの理由で「自殺を決心する人」なんて、ほんの一握りだと考えています。
“ふらっと”心が揺れたときに、思いとどまるきっかけがあるかどうかです。私の場合は、医師の声が救いになったのですが、「隠れうつ」は質問者の方の周りにもたくさんいらっしゃるはずです。これらの方たちは「がんばれ」とか、「努力しなさい」という言葉が嫌いです。なぜなら「精一杯がんばっている(努力している)のに、これ以上どうすればよいのか」と思ってしまうからです。
私も自殺に賛成ではありませんが、「逃げる」というのはニュアンスが違います。正確には「追い詰められている」です。
もし、「隠れうつ」の方から相談を持ちかけられたら、「がんばれ」や「努力しなさい」は禁句にして、ただひたすら話しを聞いてあげてください。そして、心療内科を受診するよう勧めてあげてください。
そうすれば、私のように「生きててよかった」と思う人が増えるはずです。
http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/tokusyu/suicide04/...
貴重な体験談をありがとうございます。
私はプライドが高いです。
「~が辛いから」とか、「~に負けて」とか、「~に責められて」などのくだらない原因で死ぬ気はありません。
今まで自分が生きてきた事を全否定する気分です。それは私にとっては耐えられません。「死ぬ気で何とかする」で何とかしていきました。これからもこの考えは変わりません。
病弱のために、何度か死の淵から復活した人間には、「自殺」は考えられません。
ありがとうございます。
本人がどうしても自殺をしなければならない、という決心に至った場合、事前に知るすべが無ければ、それは本人が本当につらい中で最後の決断をしたのだ、ということを真実であると考えて、本人の意志を尊重します。
自殺に対する考え方のうちの一つには、自殺は悪だ、とか、卑怯だ、とかいう自殺した本人を非難したり責めたりするものがありますが、これはこれだけの決断をするに至った本人の苦悩の大きさに思いを馳せると、亡くなった本人には大変気の毒だと考えるのが妥当だと思うので、自殺した本人は責められるべきではないと考えます。
簡単ですが最重要2点について書きました。
2点ご指摘、ありがとうございます。
「人間は必ず死ぬ」という実感が昔よりも希薄になっているから
「自殺」という結論が出るのかもしれません。
天災・飢餓・戦争などで死体が辻に転がっていたり、
赤ちゃんから子供まで育つ率が低かった頃に、「自殺」という
観念がどこまであったのか、疑問ですね。
もともと日本では「死」は穢れだったのですが、江戸時代までは
一般庶民の死体はだいたい町の外に捨てられていたもので、
江戸時代に入り寺が葬式を一般的に行うようになってから
あまり死体を見続ける機会が無くなった。
辻々に死体が転がっていて「人は必ず死ぬ」とか
「明日は私が死ぬかもしれない」という
意識があったとしたら、自殺っていうのは
なかなか出来ないものだと思うのです。
養老 孟司さんが
「死ぬまで何をするか決まっていない。
それが生きるということですが、
現代生活では定年になったらどうするか、
とかかなり前から準備している。」
「要するにある時から人は死ななくなった
というのが私の感じです。」と仰っています。
「だれかが自殺した・思いとどまった」というより、
人生の中で、「自殺」という選択肢がある状況というのが
生物として、非常に不自然なものだと思います。
そうでよね。蚊なんかでも殺虫剤をまこうとすると必死で逃げますよ。ありがとうございます。
私の兄は自殺しましたが、警察の霊安室で亡くなった兄を見た瞬間凍りつきました。 その時の遺体の姿とその後に警察から見せてもらった、遺体発見時の写真は生涯忘れる事ができません。
安らかな顔ではなく苦しんで悶絶した顔でした。
自分で死を選ぶにせよ、こんなに苦しまなければならないのかと愕然としました。
その時に自殺するのは勇気が必要なのか、それともただの逃げなのかがわからなくなりました。
私も自殺しようと思った事が何度もあります。しかし、その都度恐怖心や母親の顔を思い出して止まる事ができました。
亡くなった人はその後には何もないのですから、それでいいのかもしれません。 しかし残った家族はその思いを自身が亡くなるまで持ち続けなければなりません。
亡くなった本人がもし生きていた時に味わうであろう苦しみに比べれば、残った人の苦しみは小さいかもしれません。
しかし家族の事を少しでも思うならば、躊躇して考え直してほしかったという気持ちは今も残っています。
貴重なお話、ありがとうございます。
私自身、死にたいと思うこともあります。
いじめられる、とかではなく、周囲の人には恵まれているんですが、逆に、そんな周囲に迷惑をかけどおしの自分に絶望することがあります。
しかし、自分に親があり同僚があり、死ねば悲しむ人、迷惑をかける人がいることを思って思いとどまります。
(だから、身寄りのない境遇になったら、たとえ金があってもあんまり長生きできないかも知れません、自分は)
日本でも、「自殺はいけないこと」と教えますが、それはあまり強い文化的背景を有していないと思います。
欧米では、信教の自由があるとはいえ文化的にはキリスト教の強い影響下にあり、自殺は「罪悪」と考えられています。
一方、日本では確かに自殺はあんまりいいことだとは考えられていませんし、逃げだとされることもありますが、「逃げではない、潔い自決」というものもあり得る、と考えられ、「自殺そのものが罪」という認識は薄いように感じます。
せいぜい「あなたが死ねば悲しむ人がいる」くらいですよね。
もちろん、死なずに生き延び、生きている限り自分の境遇と戦い、罪を犯したならそれを償おうとする姿勢の方が立派だ、と、個人的には思います。
(でも、罪を償わずにのうのうと生きるなら自殺しろ、とも思いますよね。私も、たぶん大体の日本人も)
……でも、どんなにがんばっても自分がダメ人間のような気がするとやっぱり死にたくなりますね。
死なないでね。ありがとうございます。
なぜ自殺はいけないのか、理詰めで説明は無理だと思います。
生きてりゃいいことあるから、人生やり直せるから
といったあくまで人類の多数派の経験則から言ってるだけだから。
薬やカウンセリングや徳政令やら失踪で解決できる問題なら
そりゃ自殺をするなと言えるし、止めますよ。
でも、心が傷ついて生きるのが苦痛だったり
生きる意味が見出せない辛い人の自殺を
止めるのが必ずしも正しいかは断定は無理です。
例えば、病気で苦しんで苦しんで回復の見込みがなくて
頼むから人工呼吸器をはずしてくれっていう患者が
いたら、それも自殺だと思います。
肉体的に辛い自殺は理解されて
精神的に辛い自殺は理解できない、というのも
なんか、おかしい気がします。
ただ、目の前に自殺しそうな人がいたらとっさに止めてしまう。そう思う。
理屈じゃないんだと思います。
奥深いご意見だと思います、ありがとうございます。
ある程度、個々の生命の尊厳を認めた生命体の社会システムを円滑に動かす上で、命の消滅を道具として使う行為は、基本的に容認されるべきでは無いと考えます。
殺人等は、その最もたる行為ですが、自殺も自分自身が楽になる為に自分自身の死を道具として使うという点では同様です。
もちろん例外はあります。例外にあたるのは他の存在・他の社会システムから死を強要されるような場合の対抗策として死の可能性を考慮に入れて行動が起こされる場合です。
殺人事件を起こして立てこもっている犯人を、他の存在にこれ以上害悪をなさない為に死を覚悟して捕まえようとする警察官や、大きく言えば祖国を侵略されそうになっている軍の兵士達などはその例外にあたるでしょう。また病気によって死を強要されているような場合も、死の様式を自分で選択する(楽な死に方を選らぶ)という形で例外に該当すると思います。
ありがとうございます。
身内を事故や病気で亡くす場合ですら「死に目に会えなかった」とか「病気による苦痛を理解してやれなかった」など、残された家族は大きな後悔を残し深い悲しみに包まれます。
身内を自殺で亡くした家族であれば、それにも増して「何故自殺したのか」「どうして自殺に至るほどの悩みに気づいてやれなかったのか」と思い悩み、場合によっては「自分のあの一言が自殺の原因になったのでは?」などと一生自分を責め続けながら生きることになります。
「死人に口なし」。自殺してしまってからでは、自分の家族や親しい人が悲しむ姿を見て慰めてあげることも出来ないのです。
ありがとうございます。
成人なら「愚行権」として理論上は止めることは出来ません。ですが、現場で実際にやっているのであれば緊急避難として止めることが出来ます。私ももちろんとめます。
自殺した友人がいます。
私もたまに死ぬと楽になるかなと想像することがあります。
視察の理由は、一瞬ふと死のうと思ったことをつい実行したとき、
世の中のしがらみにがんじがらめになって窮したとき、
将来のことまで頭が廻らなくなったとき、他に選択肢がなくて死を選ぶことがおおいのではないのでしょうか?
ありがとうございます。
自殺する人の気持ちは分かります。
世の中自分でもどうすることもできないほど辛いことが山のようにあるからです。死んだ方が楽になれると今の立場から逃げることができるとそういうふうに考えた方が自分を楽にすることができるからだと思います。
ですが、自殺は周りの人の気持ちをひとつも考えていない独りよがりの自分勝手な行動だと思います。
人は必ず誰かとかかわって生きていると思います。
周りの人はきっと一生苦しむと思います。
なぜ止めることができなかったのか一生考えて生活していくと思います。
自分だけ楽になってあとに残った大切な人を苦しめるのは罪だと思います。
どんなにぶざまでも、情けなくても、醜くても私は最後まで生きたいと思います。それと死にたくなったら死ぬ前に誰かに相談したいと思います。
誰かに自分の気持ちを伝えることで少しは自分の悩みも解決できるかもしれないからです。とは言ってみたものの人の心は揺れ動いてますから、難しいですよね。
ありがとうございます。
場合によると思います。自分を愛してくれる人、支えてくれる人が居るのであれば、自分一人で決めて死んでしまうのは、あまりに自分勝手で思いやりに欠ける行為だと思います。ただ、手の施しようがない病気などこれから先全くの改善が見られず、周囲もそれを承知の場合は、悲しいですが自殺も本人の意志では無いかと思います。もちろんそれがベストだと思いませんが、僕がもしそんな家族や友人を持ち、本人に生きる意志がなく、また僕自身何もしてあげられずただただ苦痛を伴うだけであれば、止める権利は無いと思います。親しい人間が最後に下した悲しく苦しい決断を受け止め、背負っていくのが最後に出来ることだとも思います。難しいですね。
ありがとうございます。
精神的に追い詰められている。
でも何故、「自殺」する人と、そこから「這いあがる」人がいるのでしょうか。
自分の周りに問題があるというのは誰にでもあることですよ。
なぜそんなに簡単に「死にたい」と思うのか、私には理解できないことです。
ありがとうございます。