*以下の文章を読んでどう思われますか。簡単で良いので感想をお寄せ下さい。
今インターネットを日常的にやっている人と、そうでない人は、意識に画然とした違いがあります。私は日常的に色々な人に接していますが、二種類の人間にハッキリ別れつつあると思います。インターネットによる意識革命に対応している人としていない人に。将来の人間の二層化は、非常に洗練された形で社会を支配する、「科学技術を使いこなす人たち」と、それなりに幸せに暮らしているけれども、実質的な決定権は何もない、「科学技術を使いこなせない人たち」、そういった形になると思います。(立花隆)
インターネットに対応していても、「科学技術を使いこなせない人たち」はどうなっちゃったんだ?この範疇の人ってすごく沢山いるはずなのだが。街中にも、携帯サイトに頻繁にアクセスして、メール打ちまくりの「頭悪そうな」若者(見えるだけですから)がごまんと居ますが、その人たちは「支配層」なのでしょうか?
反対に、インターネットに関与していなくても、「科学技術を使いこなす人たち」は居て、その人たちの成果は、社会に貢献しているんじゃないかと。インターネットが至上の情報ツールとは考えにくい。嘘を見抜けなければ、返って危険だし。
どうも、立花氏は、自分の好みを押し付ける傾向があるんだなぁ。
立花隆ですか。。。また見てしまった。
文化相対主義を思い出しました。ジャングルや砂漠に住む人々の文化、私たちのように都会をつくり生活している民族の文化。いろいろありますが、それらの文化はどれが勝っているわけでも、劣っているわけでもなく、それぞれ民族固有のものであり、比較はできない。というものです。
さて、インターネットの話では、私たちは同じ民族なわけですが、インターネットを使える人もそうじゃない人も、自分の意思でそうしているものと思われます。だから「別に好きでやってんだからいいじゃん」と思ったのが1つ。
2つ目は「科学技術」を使いこなしている一方、逆に使役されている人が多いことです。いつみても携帯ばっかイジってる奴、いつもパソコンばっかしている奴。いますよね? 彼らがインターネットをしているからといって、使いこなしていると表現するにはちょっと躊躇います。逆に、彼らが未成年なら、そんなもん知らずにただひたすら勉強でもしていればいいのに、と思ったりします。
そうでしょうか?そのような事はないと、私は感じます。
インターネットを日常的にやっている人が社会を制するように
聞こえますが、そうでしょうか?ばからしい話のように思えます。
いずれユビキタス社会というものが実現するんでしょうけど、インターネットをしない人が愚かであるというような論旨はどうも受け入れ難いものがありますね。
まず、前提となっている「ハッキリと意識が分かれてきている」というのは著者の実感であって、論理ではありません。云うなれば「俺が外に出る日は晴れていることが多い」みたいなもんでしょう。統計をとっているわけでもなさそうですし。
それに、意識に画然というほどの差があるとも思いませんし。
ネットに関してという意味ならば、多少の意識の差はあるんでしょうが、それは実践的にスポーツをしている人間と、全くやらない人間の差のようなものだと思います。
インターネットを日常的にしている人が、「科学技術を使いこなしている」というのはわかりますが、その全員が実質的な決定権を持ち社会を支配していくというのは疑わしいですね。
インターネットの世界は玉石混交ですから、そこで何を得るか、何をするかが問題であって結局はそれをどう使いこなすかが重要ではないかと思います。
読んだ瞬間にひっかかりました。
インターネットを日常的にやっている人よりも、例えば:本を読んでいる人たちの方が洗練された形で社会を支配する気がします。つまり、知識や体験・考えなどを深めている人たちです。なぜなら、インターネットは直接本人が使いこなせなくても、なんとかなる気がするからです。
いわゆる「デジタルデバイド」の説明ですね。
しかしネットという汎用技術を「科学技術」とまで言っていいのかなとは思います。
一昔前の図書館のように、
「自分には使いこなせないし興味もない」という「バカの壁」をつくりたがる人はいつまでも残るでしょう。
初等教育でさえ分数がわからないオトナなどの
とりこぼしを一定の割合で出していますから、義務教育さえ完璧ではありません。(つまりデジタルデバイドが発見される前から学歴社会のような形で格差は存在したのです)
ケイタイでネットをする高校生、中学生が増えているように、「技術」がわからなくても使うだけは使えるのだから、だれも怖がることはないよ、やってみなよとみんなに教えてあげたいですね。
たしかにインターネットを使いこなしている人と全く使ってない人の差ってのは大きいと思いますが。
しかしインターネットを使ってる人の中には中毒のように依存している人も少なくなく単純に2つに分けるのは難しいかなと。
ただ情報格差であることは間違いないかなと。
インターネットからのみではないにしても意識改革に対応できる人とできない人との差は大きいと思いますが、支配というかたちで社会に対して影響を与えるほどではないかなと。
おはようございます。
みなさん、わりと「支配」というコトバに過敏な反応を示していますが、
まあ社会学で普段 使われているような意味で解釈すれば、そういうコトもあるかなあと思います。
ある特定の層が別の層に対して権力を行使している(しかも互いにそれに気づいていない)、
という状況はありうるコトだと考えています。
でもねえ、
>私は日常的に色々な人に接していますが、
というだけでそれが見抜けるのでしょうか? 私はできないと思います。
「科学技術を使いこなす人たち」vs「科学技術を使いこなせない人たち」
で境界が引かれるかどうかは差し当たり不明としか言いようがないですし、
そこに対する掘り下げがこの文章には全然ありません。
なので、支配の枠組みを科学技術に当てはめるコトについては私は懐疑的。
結局最終的には、ツールの問題ではなくて、頭脳の問題だと思います。
使いこなしている様に思いこんでいる、錯覚している人が大多数ではないでしょうか。
ネットサーフィンすることが、使いこなすことではありません。
1.インターネットを日常的にやっている人
2.インターネットによる意識革命に対応している人
3.科学技術を使いこなす人たち
この3つをおなじカテゴリーの人として扱っているようですが、まったく違うと思うので、全体的にあまり意味のない文章ですね。著者が偉い人なので、名誉のためにいうと日本におけるインターネットの黎明期にデジタルデバイドのようなものが起きることを警告したい意図で書いたのではないでしょうか。
ケータイで日がな一日メールやネットをやっている女子高生は、「科学技術を使いこなす人たち」の部類にはいるのでしょうか。(^^)
それにほとんどの高校生が使っているので、格差は生じていないということになります。
格差の波 ~ さらば、マクルーハンの時代 ~
むかし新聞記者は、テレビを電気紙芝居と蔑み、いまテレビ関係者は、
ネット(2ちゃん)を便所の落書きと呼んでいます。
いつの時代も、古い世代が若い世代にケチをつけるのです。
── ハンドルを握ると、とつぜん人格が変る人がいます。キーボード
を打ち始めると、おなじように人格が変化するのではないでしょうか。
「質問:ネットでは人は攻撃的になるのですか?」に対して。
http://q.hatena.ne.jp/1096826783#a176039
McLuhan, Marshall Herbert 19110721 Canada 19801231 69 /~“The Massage is the Message”
竹村 健一 社会評論 19300407 大阪 /~《マクルーハンの世界 1967 講談社》
立花 隆 社会評論 19400528 長崎 /~《電脳進化論 1993 朝日新聞》
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20060211
もうひとつの格差 ~ パソコン音痴の人々 ~
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20070215
九段の妻 ~ 働かない男 ~
http://q.hatena.ne.jp/1169876011
パソコンに毎日4時間も向かわない人は、どう思っていますか。
(↓)Myブログ“便所の落書”
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20060321
あれかこれか ~ あれよあれよ ~
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20060306
愚問検討 ~ 茶を濁す人々 ~
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20060218
投稿削除 ~ 掲示板の謎 ~
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20041212
往きずり世論 ~ すれちがう人々 ~
ネットを使いこなしてるからといって、
使いこなせていない人の差は
一般人だと知識の深さ・広さでしょうか。
知識といっても自分の興味あることしか
調べないだろうから
ゴシップ好きの人ならとにかくゴシップに詳しく慣れます。
だからといって生活面でそう大差が生まれるわけもなく。
結果的にはネット使ってるほうが、
ちょっとウマイ生活がおくれる。って思うんですよね。
で、洗練された人たちはネットがあろうがなかろうが
支配をするとおもいますが、ネットを使いこなしたほうが
とても効率が良くなるので結局使うのだと思います。
知識を効率よく収集するんでしぃおうかね?
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