1)位牌は極楽上の魂への窓口なのか?窓口という表現は正しいか?
2)お墓も1と同じ役割を果たすか?お骨はただの抜けがらではないのか?
3)お盆でお墓から位牌まで火を持ってくるのは、魂は墓にいると考えられているからではないのか?
1)位牌は極楽上の魂への窓口なのか?窓口という表現は正しいか?
位牌を持つのは浄土系だからで、他門ではしないところも多いですからそれはそこだけの勝手なものといえます。ビジネスと考え、お金を稼ぐためにしているのでしょう。
2)お墓も1と同じ役割を果たすか?
違います。死んだ人間を成仏させる手段のひとつですので極楽云々とは違います。
お骨はただの抜けがらではないのか?
道を深く求める元となります。
3)お盆でお墓から位牌まで火を持ってくるのは、魂は墓にいると考えられているからではないのか?
釈尊は最初まず魂の話をしないとした、のが仏法です。お盆は中国で作られた商売のものです。釈尊はお盆もお彼岸供養も説いてません。ですからその儀式、火を持ってくるとか精霊流し全部仏法ではなく、成仏に関連するものではありません。
故人に報いるには仏教宗教をするのではなく仏法でなければ成仏しないでしょう。
間接的な連絡先ですがここしか連絡を取るところはありません。
1)位牌の起源は、霊の依代(よりしろ)という古来の習俗と仏教の卒塔婆が習合した物ともされるので、霊が仮に宿る場所、落ち着けるところと考えるのが良いと思います。そのため、窓口でも良いと思うのですが、窓口だとそこから出てきそうな感じなので、極楽浄土からたまに皆さんの様子を見に来たときに、居心地の良いところと考えた方がよいかもしれません。
2)骨も霊魂の依代(よりしろ)です。今まで魂が宿っていた体の一部なので、依代として適しているものと考えています。普段は極楽浄土にいるので、抜け殻といえば抜け殻ですが、祭祀のときには、そこに戻ってきて皆さんに会ってくれるのです。
そのため、墓を分けて分骨した場合には、どちらのお墓にも霊が来てくれます。
魂なので、どこにでもいけるといえば行けるのですがと考えるのですが、ゆっくり出来るところや力を使わないでいられるところに呼んであげたいという願いから、依代を作って霊を呼ぶのです。
3)お墓は、祭祀をする場所という意味合いが強いので、お盆でお墓に来てもらった霊に自分で位牌まで行ってくれというのは冷たい仕打ちになってしまうと考えて、皆と一緒に位牌まで行きましょうということで、お盆でお墓から位牌まで火を持ってくるものと考えています。
そうですね。
私も、霊が存在するのかどうか、霊になったとしてたまに戻ってこれるのかどうか、戻ってこられるとして依代があると戻って来易いのかどうか、そこの根本的なところは全く判りません。
しかし、自分が霊になれて、ちょっとでも戻ってこれるとしたら、残してきた家族のことが心配で、しょっちゅう見に行くと思います。霊界に帰らなくてもよいなら帰らないでしょう。
その時に、居心地のよい場所(依代)があれば、うれしいです。
もし依代の居心地が悪いとしても、家族の気持ちのこもったものでしたら、とりあえず使います。
毎日、拝んでくれていたりしたら非常にうれしく感じます。
位牌が窓みたいになっていて、拝んでくれるのを見たら、疲れていても(霊も疲れるのでしょうか?)すぐに飛んでいきます。
拝んでくれているのをみて、そんな時間があれば、勉強したり仕事したりしたほうがいいんじゃないかなどと思う事もあるかもしれませんが、それでもうれしく感じますね。
Simplestyleさんとしては、自分が霊になったときに、家族にどんなことをして欲しいと思いますか?
仏教からの解釈は、宗派によって異なるものと思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%8D%E7%89%8C
「供養である」とする宗派もあれば、「そんなものに意味はない」とする宗派もあるわけで。
何をもって「仏教の正しい解釈」とすべきかは、お釈迦様に聞かねばわからないでしょう。
そして、おそらく釈尊の時代に位牌や石塔墓はなかったでしょう。
あえてWikipediaの記述から考えるなら、位牌や石塔墓は、卒塔婆と同じく「塔」であって、それを作ることが死者への追善である、という認識になるでしょうか。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ohaka/ohakanorekishi_05.html
上のリンク先(どこまで信用していいのかわかりませんが)に従えば、石塔が建てられたのは当初は祈寿祈願が目的であったが、やがて死者の供養へとシフトしていった、ということであるようです。
いずれにせよ、位牌や石塔に死者が宿るのではなく、それを作ることそのものが供養である、ということのように思われます。
ただ、供養のために作った「塔」なのですから、その前で線香を焚いたり経をあげたりするのは理にかなっていると思います。
(迎え火をするにしても、墓地から迎えるのでないとしたらどこから? という話になりますから)
そしてまた、そうやって朝晩仏壇を拝んでいる個々人にとっては、位牌に故人が宿っているように感じられたり、墓地に死者がいるように感じられたりするのも自然な感情とは思います。
(位牌や石塔の意義が再びシフトしつつある、ということでしょう)
言うまでもないことながら、一口に「仏教」と言っても、日本とインドとチベットではその有り様は全く違いますし、日本国内で「仏式」とされる葬儀であっても、地域によってその実態は大きく異なります。
キュウリの馬だのナスの牛だのに故人が乗るのは日本だけですし。
「法事」とはいえ、宗教行事というのは、他の信仰と習合して変化したり、何の影響も受けないのに時間と共に変質したりするものですから、「これが正しい」という答えを求めるのは困難に思います。(究極的には、故人に聞いてみないとわからない問題ですから)
暫定的な解釈はすでに書いたとおりですが、何を正しいと考えるかは人による、というのが答えではないでしょうか?
位牌やお墓が依代であり、時々霊が戻ってくる場所なのであれば、そこに霊が居るか否か分らないから、毎日拝む事に説明がつかないのですが、如何でしょうか?