「平仮名の作文、『八つ』を『はちつ』=国語力低下、教師9割が実感-岩波書店調査」という12月8日の報道記事で、「数え方を知らずに、何でも『個』とする児童がいたという」とあるのを読んで、「自分も含め、大人が何でも『個』にしていることもあるかも」とふと思ったので、質問してみることにしました。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071208-00000048-jij-soci
これを忘れていた! 「一個、二個」など数助詞の使い方に何も特別なところはないのですが、『二百十日』から、当時の東京の人の会話をリアルに写し取った部分。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/751_14958.html
筒袖(つつそで)の下女が、盆の上へ、麦酒(ビール)を一本、洋盃(コップ)を二つ、玉子を四個、並べつくして持ってくる。
「そら恵比寿が来た。この恵比寿がビールでないんだから面白い。さあ一杯飲むかい」と碌さんが相手に洋盃を渡す。
「うん、ついでにその玉子を二つ貰おうか」と圭さんが云う。
「だって玉子は僕が誂(あつ)らえたんだぜ」
「しかし四つとも食う気かい」
「あしたの饂飩(うどん)が気になるから、このうち二個は携帯して行(い)こうと思うんだ」
「うん、そんなら、よそう」と圭さんはすぐ断念する。
「個」は「存在」そのものを表現している感じがありますよね。なんというか否定できない力があるというか。
というご投稿があったので、それに極めて近いと思われる表現のひとつで、有名な堀辰雄の一節を挙げておきます。
少し長く引用します:
ところが現在のように、自分が彼女たちの前にいる瞬間は、彼はただそのことだけですっかり満足してしまうのだ。そしてその瞬間までの、その心像(イマアジュ)が本当の彼女によく似ているかどうかという一切の気がかりは、忘れるともなく忘れてしまっている。それというのも、自分が彼女たちの前にいるのだということを出来るだけ生き生きと感じていたいために、その間中、彼はその他のあらゆることを、――果してその心像(イマアジュ)が本当の彼女によく似ているかどうかという前日からの宿題さえも、すっかり犠牲にしてしまうからだった。
しかし漠然(ばくぜん)ながらではあるが、自分の前にいる少女とその心像の少女とは全く別な二個の存在であるような気もしないではなかった。ひょっとしたら、彼の描きかけの「ルウベンスの偽画」の女主人公の持っている薔薇の皮膚そのままのものは、いま彼の前にいるところの少女に欠けているかも知れないのだ。
堀辰雄、『ルウベンスの偽画』
月影白き前艦橋に、二個の人影(じんえい)あり。その一は艦橋の左端に凝立して動かず。一は靴音静かに、墨より黒き影をひきつつ、五歩にして止(とど)まり、十歩にして返る。
徳冨蘆花、『不如帰』
これは、ルビがありませんが、あきらかに「ふたつ」ですね。後続する「一」は「ひとつ」と読むのだと思います。
やがて婆さんが二個の皿へ盛った食物を持ってきた。
田中貢太郎、『蕎麦餅』
……総発売元は各支店へ戸棚二個、欅吊看板二枚、紙張横額二枚、金屏風半双を送付する。
織田作之助、『勧善懲悪』
ここに出てくる「戸棚」が今の「食器戸棚」のような大きなものだったかどうかを調べないと何とも言えませんが(卓上に置ける大きさのもののことかもしれない)、「棚」について「二個」と数えている例です。
たとえば私はいろんな事の褒美や何かでおやじから金時計を四ツとプラチナの時計を二個貰っていたが、実物はまだ一度も手にしなかった。
夢野久作、『ざんげの塔』
これは、ルビがありませんが、前が「四ツ(よっつ)」ですから、「二個」は「ふたつ」と読んでいたのではないかと思います。
そばには二個の大きな碑が建てられて……
岡本綺堂、『綺堂むかし語り』
「大きな碑」も「二個」。
きりがないのでこのへんでストップしておきます。
甲板(デッキ)より帰来(かえりきた)れる一個の学生は、室(しつ)に入(い)るよりその溽熱(むしあつさ)に辟易して、
「こりゃ劇(ひど)い!」と眉を顰めて四辺(あたり)をみまわせり。
泉鏡花、『取舵』
「それじゃその莨(たばこ)を喫んで謹聴し給え。
去年の夏だ、八田潟ね、あすこから宇木村へ渡ッて、能登の海浜の勝(しょう)を探ろうと思って、家を出たのが六月の、あれは十日……だったかな。
渡場に着くと、ちょうど乗合が揃ッていたので、すぐに乗込んだ。船頭は未だ到(い)なかッたが、所(ところ)の壮者(わかいもの)だの、娘だの、女房(かみさん)達が大勢で働いて、乗合に一箇(ひとつ)ずつ折をくれたと思い給え。見ると赤飯(こわめし)だ。」
「塩釜よりはいい。」とその友は容喙(まぜかえ)せり。
「謹聴の約束じゃないか。まあ聴き給えよ。見ると赤飯(こわめし)だ。」
「おや。二個(ふたつ)貰ッたのか。だから近来はどこでも切符を出すのだ。」
ibid.
下のほうは、弁当の折を「一箇(ひとつ)」、「二個(ふたつ)」としています。上は学生が「一人」ではなく「一個」。
また同じ人ですが、牧逸馬(『丹下左膳』を書いた林不忘の別名)の文例:
ニューヨークから急行した二人の顔を見知っているウォウリング警部は、一瞥してこの二個の死体をモスタアとダグラスと確認した。もう駄目だ。事件は、事件として綺麗に解決したのだ。
牧逸馬、『チャアリイは何処にいる』
これは物語自体がおもしろそうなので後で読もうと思います。(思いつきで検索してみたら、いろいろおもしろそうなものが出てきますね、青空文庫は。)
相馬泰三という作家を私は知らなかったのですが、上の牧逸馬が「二個の死体」としているのと非常によく似た例があります。(これをきっかけに読んでみよう。)
……二個の酔漢はよろよろと互いに相もたれ合うようにしてその下を当てもなくさまよい歩いた。
相馬泰三、『六月』
谷譲次(『丹下左膳』を書いた林不忘の別名)の文例:
ところで、「近処の床屋(ネイバフッド・バアバア)」と言えば、その舞台装置はたいがいきまってる。あんまり綺麗でない壁にあんまり綺麗でない大鏡が二個乃至(ないし)三個ならび、そのあいだに角の演芸館(ヴァライティ)の二週間まえのびらと、ジョニイ・ウォウカア―― Born in 1882, still going strong ――の広告絵がかかり、あんまり綺麗でない白衣を着た床屋が――床屋のくせに髪をぼうぼうさせて――とにかく、出はいりの誰かれとみんな知合いとみえ、……
谷譲次、『踊る地平線 02 テムズに聴く』
床屋の大きな鏡(大鏡)のことを、「二枚、三枚」とせず、「二個、三個」としています。
堺利彦 (1871 - 1933) の文例:
吾人はこのごろの新聞紙上において実に面白き二個の広告を見当たりたり。一は「白縮緬兵児帯」と題し、一は「徳用飯殖焚法」と題せり。
「白縮緬兵児帯」と題するものは、「桐生特産優美観光織」と称せるより見れば、いわゆる観光縮緬のことなるべく、それを帯一筋につき一円二〇銭より一円七〇銭までの間にて売るものなるが、……
堺利彦、『面白き二個の広告』
「二点」でも「二件」でもなく、「二個」です。あと、帯(兵児帯)の数え方が「一筋」というのは知りませんでした。
堺利彦の『獄中生活』から。国語力が低下していたのか、唯物論ゆえか、何でも「個」で数えています。(←冗談です。為念)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000164/files/2948.html
四 巣鴨監獄の構造
……まず正面の突当りが事務所で、その左右に南監と北監とがある。両監とも手の指を拡げたような形になって五個ずつの監に分れている。すなわち合計十監あって、その一監が、二十幾房かに分れている。それから遙か後ろの方に、七個の工場が並んで立っている。
七 特別待遇
六監にいること十日ばかりの後、予は十一監に移された。この十一監は十個の本監のほかにある別監で、古風な木造の、チョット京都の三十三間堂を思い出させるような建物である。監房は片側に十個あるだけで、前は廊下を隔てて無双窓になっている。房内は十二畳ばかりで、前後は荒い格子になって、芝居の牢屋の面影がある。……
一九 出獄当座の日記
……
二十七日 秋水の家に風がよく通すので、午後半日をそこで暮した。二個の病客が床を敷き並べて相顧みて憮然たるところ百穂君か芋銭君かに写してもらいたいような心地がした。
国木田独歩の文例:
……兼ねて此部屋には戸棚というものが無いからお秀は其衣類を柳行李二個(ふたつ)に納めて室(へや)の片隅に置(おい)ていたのが今は一個(ひとつ)も見えない……
国木田独歩、『二少女』
この例からは、独歩の時代には「一個、二個」と書いて「ひとつ、ふたつ」と読む(読ませる)ことがあったということがわかります。「不良」と書いて「ワル」みたいなものでしょうか。(←たぶん違います。)
あと、この「兼ねて」は当て字ですよね。独歩の文章は、探せば探すほど、いろいろとおもしろい日本語の使い方が見つかりそうです。
ついでなので、青空文庫で「二個」で検索してみた結果から、おもしろかったものを並べておきます。
まずは夏目漱石の文例。『虞美人草』についての質問に答えている箇所: