あと、「見えざる手」はスミスの代名詞になっているぐらい有名ですが、彼は当時それほど深い意図を持って書いたわけではない、と私は思うのですがどう思いますか?(こちらの質問は任意で結構です。ただこちらの質問だけに答えるのはご遠慮ください。)
── スミスは、個々の市民がてんでんばらばらに利己心の追及に明け
暮れているのに、社会的総結果がこのように調和的でありうるのを、
「見えざる手」(invisible hand)の導きによるといったのである。
この表現は、あの彪大な『国富論』全巻のなかでも第四編第二章で一度
使われているだけだが、スミスの市民社会分析を特徴づける標章のよう
になってしまった。
── 《世界の古典名著 19931130 自由国民社》P103
Smith, Adam/水田 洋・訳《国富論〈全4巻〉1776-200005‥ 岩波文庫》
Smith, Adam/水田 洋・訳《道徳感情論〈上下〉1759-200302‥ 岩波文庫》
── 古典のつねとして、誰でも名前は知っているが、ほとんどの人が
読んだことがないのが『国富論』だともいえる。たぶん、『国富論』と
聞くと、自由放任、神の見えざる手、市場原理などの言葉がすぐに頭に
浮かんでくるはずだ。(略)
(ちなみに「神の見えざる手」は一度しか使われていないし「自由放任」
はたぶん一度も使われていない。「市場原理」もでてこない)
http://homepage3.nifty.com/hon-yaku/tsushin/koten/bn/wake.html
── 山岡 洋一『国富論』の新訳を考える理由
あなたのIDを見て、回答をオープンにするか迷いましたが、オープンしてみるとやはりな回答ですね。私の質問とあなたの回答はまったく呼応していません。
>ちなみに「神の見えざる手」は一度しか使われていないし
そんなことはわかっているから、2番目の質問をしたわけです。たった一度しか使われていないのに、現在こんなに有名なのは、市場原理主義者などによって意図的に誇大に解釈されているのではないか? というのが下の質問の主旨です。ちなみに「invisible hand」は「見えざる手」であって、「神の」は要りません。
>「自由放任」はたぶん一度も使われていない。「市場原理」もでてこない
そんなことはどうでもいいわけです。質問の本題とまったく関係ありません。
この前あなたが回答した時に、回答履歴も見て思いましたが、あなたは質問に答えるフリをして実は単に自分の主張(正確には自分の主張ではなく、単なる的外れの引用)をしているだけです。あなたはブログも持っているのですから、自己主張はブログでやってください。あなたの回答はあまりに自分勝手な回答が多すぎます。みなさんに回答履歴を見てもらえばいいでしょう。質問の意図を取り違えたというのとは全く違います。取り違えたというのならば仕方がないと思いますし、またそういう場合は質問に問題がある場合も多いと思います。しかし、あなたはそうではない。確信犯でしょう。私は質問の意図を取り違えただけではこんなことは書きません。
仏様は三度までなのかもしれませんが私は仁徳者ではありませんので、今回で二度目の悪徳回答になり、回答拒否にさせていただきます。またこの回答はゼロポイントとさせていただきます。もし他の回答者が現われなかったら、この回答はキャンセルします。あなたのこの回答にポイントを出すのは嫌です。とはいえ、ここまで書くような質問者に回答しようという回答者は現れそうにはありませんので、このままではキャンセルの可能性が高そうですね。あなたのせいでポイントの支払い率が下がってしまうわけです。
追記 他の回答者さんが現れないので、キャンセルします。やはり私にはこの回答にポイントを出すことはできません。しかし、私のようなひねくれ者にも武士の情けというのはあったようです。ID拒否はやりすぎかもしれないと思ったので、ID拒否は解除します。ですから今後もし私の質問に答えることがあれば、その時は「教えてやろう」という気持ちで質問に沿った回答をしていただければ、幸甚です。最初あなたの回答を見た時に少し怒りが込み上げ、冷静さを欠き、コメントなどで少し言いすぎた部分がありましたが、それは謝罪します。すみませんでした。ただ、そんな気持ちを抱いたのは事実なので、文章は削除しません。今度からはよろしくお願いします。