日本で犯罪が起こると犯人の家族が不利益を受けるわけだが、
そういう野蛮人的な悪習は廃絶すべきじゃないですか?
事件や事故が起こると、犯人の家族が被害者や家族に謝るらしいですが、
それは野蛮の極地なので今すぐ止めるべきだ。
また、被害者らの犯人の家族に対する批判・謝罪請求・賠償請求は弾劾され、非難されるべき。
今でもこれらは『不法行為』であるはずだが、守られていないし認識されていない。
もういっそ新しい法律を作って、連座責任的行為・本人以外の家族に不利益を与える行為をする者を訴追すべきだ。
おれはこんな野蛮な国に住むのはつらすぎる。
議論してください。
>考え方次第では被害者への償いを分担する連座制の方が被害者側の立場からすれば効率的かもしれないですし。
この考え方をする人を必ず見かけるが、本質が分かっていないと思います。
問題は、『なぜ何の責任も存在しないのに不利益を受けたり罪悪感を感じねばならないのか?』
ということ。
つまり、連座的な習慣は、家族や親族の”関係”を理由に不利益を受けるという点で、非常に理不尽かつ非人間的な習慣です。
『何の責任も存在しないのに不利益を受けたり罪悪感を感じねばならない』ことは、その主体となる人にとっては、悪質な人権の侵害でしかありません。
そういう習慣があるという点で、”野蛮”と表現しました。
『考え方次第では被害者への償いを分担する連座制の方が被害者側の立場からすれば効率的かもしれない』
被害者だろうがなんだろうが、何も責任の無い人に何かを求める権利はありません。
むしろ、それは”悪”です。
そもそも『償い』とは、不法行為や悪に対してなされるものですから、無実の者にそれを要求するというのは勘違いも甚だしい、単なる『恐喝』です。
『被害者』というのは、不道徳行為や不法行為をする免罪符になりません。
もしそれらの行為をするなら、ただの『犯罪者』または『無法者』です。
いくら『被害者』が『効率的補償』という利益を受けたとしても、それが連座的な要素を含む限り、一種の不法行為であると見なされなければならないと思います。
あなたの書かれた考えでは、万引き犯が不法行為を行って『おれが利益を受けたんだからよいんだ!』と言うようなものです。
あらかじめ書いておきますと、私が書いた「連座制の方が被害者側の立場からすれば効率的」の部分は必ずしも"野蛮"とはいえないと言う一例で、連座制を肯定しているわけではありません。
私は質問をみて質問者が"野蛮"という言葉を多用し、だからやめましょうという理論を展開しているが、それに説得力がないと言っているのです。
冷静に質問を読み返したら感情に訴えているように思えませんか?
"野蛮"というのは大多数の人間の価値観がそろわない限りは文化や習慣や価値観の差異でしかありません。
例えば捕鯨問題で牛やカンガルーを食べる国が鯨を食べる国を"野蛮"と言って非難していますが、ベジタリアンからしたら肉を食っているのでも"野蛮"だったりするのです。
返信の「何の責任も存在しないのに」という部分だけとっても、回答をみてもわかるように価値観が多様に存在しており、質問者が"野蛮"と思ってそれをベースに説得しようとしても"野蛮"と思わない人には意味がないのです。
そもそも人権の侵害かどうかを野蛮かどうかの尺度で計るのも微妙ですけどね。
ただ、返信は冷静に書かれており「連座的な習慣は、家族や親族の”関係”を理由に不利益を受ける」などは切り口を考えれば説得力が出ると思います。
これを見ると連座制の根底は日本人が昔から個人よりも団体を尊重する傾向にあるためかと。
弱者をチームワークで救える長所もあるが、責任も追わないといけないと言う短所もあると。
連座制はこれを逆手にとって、犯罪者の親族に必要以上に負荷をかける要因となっているため、今後は個人を尊重し、責任などもシフトして不要な負荷は減らすべきかと。
そして、これを実現する近道が教育なり法整備なり啓蒙活動だったりすると。
私も書いていて練りが甘いし、根底もこれで正しいかは考えないといけない部分は多いとは思っていますが、少なくとも"野蛮"だからやめようと言う最初の質問状況よりはいいのではないでしょうか。
確かに、最初から議論らしくすればよかったと思います。
最初に野蛮ということばを使ったのは、今日ではほとんど弁解の余地がない悪習、
例えば”不当な差別”などに劣らぬ劣悪さであることを強調したかったんです。
私が述べた、『全く悪を為していないにも関わらず不利益を云々』というのは、
何も物理的なものだけではありません。
精神的なものもです。
この場合『子供が犯罪を犯した場合の保護者』は特殊なので置いときますが、
それ以外の身内、例えば兄弟や親が犯罪を犯したとき、何故か罪悪感を感ずる人がいますよね。私は冗談抜きで、その感情が理解できないのです。
なるほど、他人の感情や心情を合理性や条理によって頭ごなしに否定するのは得策ではないかもしれませんが、こう考えることもできます。
例をあげると、『部落差別』。戦前、この差別は、『当然』であり、否定することは『悪』と思われていました。
本気でです。
その考えの中にいる人間にとって、いくら合理的・論理的に善悪や道徳を説明しても、
なかなか受け入れられません。
これは日本だけではなく、どの国もそうです。
しかし、日本が先進国と呼んでる国は、さまざまな流れのなかで”悪”や”不条理”を廃して、人類的な徳や正義に近づこうとしています。
今議論している連座的な責任の問題で言えば、
アメリカ・カナダ・イギリス
保護者や親の責任はさておき
その他の家族親族の責任は全否定しています。
日本人が根拠に使う『倫理的責任』ってやつもです。
むしろ、その考えは”悪”とされています。
他の国は調べてないので知りませんが、
”先進国”では悪習から脱却した国家が多いのは確かだと思います。
あと、厚かましいようですが、
umi_no_shizukuさんに反論したいのですが、
私の脳味噌が未熟でできません。
『それは明らかに違うだろ!』と思ってても、敢然たる反論ができないことってありますよね?
力をかしてください。できれば代りに・・・
>問題は、『なぜ何の責任も存在しないのに不利益を受けたり罪悪感を感じねばならないのか?』ということ。
なんだかんだ言っても、ここですね、問題は。
家族、親族には『何の責任も存在しない』と考えるかどうかですよ。
ケースによっては「親にも責任有るだろ」っていう犯罪もあるという
考え方が今の日本では一般的ってことでしょう。
質問者さんはあらゆるケースにおいて家族には何の責任も存在しないというお考え。
しかし、教育や躾などについて考慮する必要はない、と考える人は恐らく少数派じゃないかな。
あと、質問文中にある『犯人の家族が被害者や家族に謝る』ことは、べつに野蛮な行為ではないでしょう。
「恐喝」されて謝罪するのならともかく、申し訳ないと頭を垂れること自体が野蛮とは思えない。
それが仮に論理的に間違った行為であるとしても、少なくとも野蛮ではない。
>ケースによっては「親にも責任有るだろ」っていう犯罪もあるという
>教育や躾などについて考慮する必要はない、と考える人は恐らく少数派じゃないかな。
うん、親は別個に考えるべきでした。失念してた(汗
じゃあ、
①親
②その他
という分類で、
②に関しては一切の連座的責任を全否定してもいいでしょうか。
(あくまで連座的責任ですので、共犯の要件を満たせばそれはそれで問題にしますが)
いわしなので変なところをつつくようですが、文化や価値観や習慣の差であり、"野蛮"か違うかという問題ではないと思います。
考え方次第では被害者への償いを分担する連座制の方が被害者側の立場からすれば効率的かもしれないですし。
や‐ばん【野蛮】
1 文化が開けていないこと。また、そのさま。「―な土地」
2 教養がなく、粗野なこと。また、そのさま。「―な行為」
ただ、"悪習"であることは私も同意です。
"野蛮"だからやめようというのでは説得力に欠けると思われるので、ここは一個人の自立の重要性やそういった側面を法や文化的に強調し、犯人(もちろん成人した人についてですが)とその家族というのは別なのだという意識をつけることができれば連座制の考えは減るのではないでしょうか。