社会科学は科学だと思いますか?


「科学」とはなにかをきちんと定義して答えるべきか、そもそも定義可能か、等の考慮は各人にお任せします。

回答の条件
  • 1人1回まで
  • 登録:2008/05/22 19:05:05
  • 終了:2008/05/24 20:09:07

回答(8件)

id:melon10 No.1

melon10回答回数162ベストアンサー獲得回数32008/05/22 19:19:31

ポイント10pt

まず科学について

引用大辞林

(1)学問的知識。学。個別の専門分野から成る学問の総称。「分科の学」ないしは「百科の学術」に由来する。

(2)自然や社会など世界の特定領域に関する法則的認識を目指す合理的知識の体系または探究の営み。実験や観察に基づく経験的実証性と論理的推論に基づく体系的整合性をその特徴とする。研究の対象と方法の違いに応じて自然科学・社会科学・人文科学などに分類される。狭義には自然科学を指す。

この定義からいうと社会科学は科学に分類される。


我らがウィキペディアによると

科学(かがく、英: science )という語は文脈に応じて多様な意味をもつが、おおむね以下のような意味で用いられている。

* (広義)科学的方法に基づく学術的な知識、学問。

* (狭義)体系化された知識や経験の総称であり、自然科学、人文科学、社会科学の総称。

* (最狭義)自然科学。

まず広義から、科学的方法って言うのは

引用ウィキペディアから

科学的方法 (かがくてきほうほう scientific method )とは、物事を調査し、調査結果を整理し、新たな知見を導き出し、知見の正しさを立証するまでの手続きが、ある一定の基準を満たしているものである。

この定義から言っても社会科学は科学に分類できる。


次に狭義だが、これは書いてある通り。


最後に最狭義だが、「社会科学=自然科学」であるかという問題。

これもまあパスしてると言っていいのでは?

id:R_Smullyan

スマートな回答、ありがとうございます。

ウィキペディアの「科学的方法」についての説明は、A・ギデンズ『社会学』でのそれと似ています。

ということは…一部の社会科学者が、自分たちに都合の良い「科学の定義」を持ちあげているのではないか…とは考えられませんか?

(社会科学は科学ではない、と言われて強い反感をお持ちになる方がいらっしゃるのは知っています、ですから念のため、「社会科学は自然科学のような厳密さに欠く」などという厳密さのかけらもない見解に私はくみしているのではない、ということは言っておきます。)

2008/05/22 19:45:48
id:pahoo No.2

pahoo回答回数5960ベストアンサー獲得回数6332008/05/22 21:58:27

ポイント10pt

「科学」とは、明治初期、"science" の訳語として造られた言葉です。一方、英語の science の語源は、ラテン語の scio(知る)です。

したがって、“知る”行為全般は science であるというのが、科学に対する最も広い解釈であると考えます。

本来、「社会科学」か「自然科学」かという違いは、“知る”対象が「社会」であるか「自然」であるかの違いに過ぎません。


にもかかわらず、日本では science に対する認識は、欧米とかなり異なっています。

たとえば Science Fiction の訳語は「科学小説」となるべきなのに「空想科学小説」が一般的です。

欧米では、メソッドが科学的であるものは、Social であろうが Novel であろうが Science になり得るのです。

ところが日本の「科学」は、法則性のある、再現可能なものを扱う学問――すなわちWikipediaが言うところの最狭義の意味に限定されているように感じます。

id:R_Smullyan

私の質問に対する回答の戦略は、一般化して以下のものになると思われます。

まず、科学と非科学に線を引く基準をもってくる。基準は、方法論の考察や定義や語源考証など。

その次に、社会科学は線引き基準からして科学だ、あるいは非科学だ、という。

pahooさんは、語源考証型の基準設定ですね。回答に示された基準では、神学も科学だと帰結するのが不満です。少なくともリチャード・ドーキンスは憤慨しそうです。

2008/05/23 13:21:53
id:miharaseihyou No.3

miharaseihyou回答回数4545ベストアンサー獲得回数5702008/05/22 22:30:56

ポイント10pt

俺論的見地から定義してみましょう。

 

科学と言っても目的が違います。目的別に分類された科学を定義する試みです。

 

1、西洋文明由来の科学は神の目的をかなえるものです。「生めよ増やせよ地に満てよ。」でしたっけ。種族の繁栄と地の占有を目指して知識を有効利用しようとします。

したがって自然や社会を知的体系に関連付けて類型的に定義します。ひとつひとつ異なるものをも一元的に分類しようとする欠点を持ちます。

 

2、東洋には科学という概念は本来無いように見えます。

知識を体系付けるよりも、実用に役立つ知識の体系を産業として継承してきました。

多くの体系は社会集団によって分離独立して独自の進化を遂げました。

ほぼ全ての集団は宗教の影響が強く、宗教集団そのものも知識の一体系として見れば同列に論じる事が可能です。

宗教の弊害そのものに全てが足を引っ張られるという欠点を持ちます。

 

3、私にとっては、科学の本来の目的は知識を得ることです。前提となる有象無象は境雑物でしかない。

従って、ありのままの現実を情報として定義する知的体系は全て科学の範疇です。

科学という言葉を使うことすら科学にとっては冒瀆であるような気持ちがします。

 

社会科学は本来、フィールドワークを体系化した科学で、神の意思を実現しようとする観点からすると「絶対的な結論を持ち得ない」という欠点を持ちます。

必要に応じて帰納法的にづるづると発達してきた。従って本来の意味での西洋的な科学ではない。

しかし、もっと大きな範疇に科学を定義しようとすれば、科学の目的に注目するべきでしょう。

 

社会科学は結論が不可能な知識体系である。

しかし、社会を運用するためには有益な知識体系である。従って科学である。

 

以上


 

id:R_Smullyan

自然科学との比較で社会科学を評価する、という戦略を一部とっていますね。で、比較の基準となる自然化科学をどのようにお考えなのか。誤読してない自信がないですが次のようになるのかと。

近代の「聖俗革命」を経て自然科学はキリスト教から解き放たれた、この事情を認めるなら、回答で示された基準では近現代の自然科学ですらも科学でない、でもやっぱり自然科学は社会に有益な知識体系は科学である。こう読めました。

基準を二つ以上提示している回答であることを、むしろ評価します。ただひとつの線引き基準でないといけない、といことはないはずですからね。

2008/05/24 12:05:12
id:smilydogs No.4

smilydogs回答回数181ベストアンサー獲得回数42008/05/22 22:37:15

ポイント10pt

科学の定義としては

客観性・・・どの視点・観点から見ても

普遍性・・・いつでもどこでも再現可能で

合理性・・・説明できるだけの論理的な整合性がある。

のが重要なのだと思います。


自然科学と違って社会科学の多くは、統計的手法や論理的整合性によって解明・証明するので、スカッと答えが出るケースは少ないでしょう。科学ではないとおっしゃる方の気持ちもわかります。でも、私は科学だと思います。

結局、統計の手法や結果を信用するのかどうか、論理的整合性だけで納得するかどうかという点に集約されると思いますが、それ以外の手法がない、あるいは使えない以上、認めざるを得ないとも言えると思います。


以下、参考サイトです。

http://pm.soc.or.jp/study/study_12.html

id:gryphon No.5

gryphon回答回数334ベストアンサー獲得回数92008/05/23 01:19:57

ポイント10pt

よく「実験ができない」ということをいいますが

何かの事象から一般法則を見つけ、普遍化できれば科学だと思います。



だから古代人が「月蝕は神のお怒りだ」と考えるのも、科学でしょう。

それがより明快である「太陽と月の位置関係による」という考え方にとって変わられただけで。


そういう点で例えば政治学などが

「小選挙区制は二大政党をもたらす」ということを今までの事例から法則化し、今後を予測したら、それはかがくだとおもいます。

id:takejin No.6

たけじん回答回数1495ベストアンサー獲得回数1942008/05/23 09:36:26

ポイント10pt

科学的、と言う言葉を自分なりに定義すると、

・仮説を立てられる

・仮説の検証方法を提示でき、その結果を明示できる。

・検証結果によって、仮説の正誤が判断できる。

・第三者によって、検証が可能である。

こうなります。

社会的な出来事には、再現性が少ないので、「再現性を求める」方式が多い自然科学とは別に考える必要があるでしょう。しかし、仮説と検証という方法であれば、類似な事象や反対の事象等から、仮説の検証を行える「方法論」を提示できるでしょう。

この方法論が、大半の人が「妥当」と判断できる内容であれば、科学として成立するのではないかと考えます。

id:complexequality No.7

complexequality回答回数3ベストアンサー獲得回数02008/05/23 20:42:11

ポイント60pt

 科学哲学等の知識はほとんどございませんので、むしろ私自身が考えるためのきっかけ…というような身勝手な答えをさせていただきたいと思います。つまらなかったらスミマセン。

■1.わたしの脳内イメージ

 「社会科学は科学だと思いますか」という問いに対して、感覚だけでストレートに答えるのならば、「科学っぽくないところが沢山あるけれど、がんばって科学っぽくしようとしているもの」とかといった感じでしょうか。

 わたしの脳内では、「科学」という概念は

 (1)反証可能性が確保できていたり、過去の議論に反論をして、再反論をしてというサイクルをきちんと積み重ねるうちに

 (2)対象についての性質を明らかにしていくことがきちんとできるもの。

 …みたいな領域に対応付けられています。たぶん、科学哲学とかに詳しい人からしたら、ポパー的なものを引きずってるだけの素朴なものなのかもしれませんが、まあ、とりあえずわたしの脳内では、そうです。

 で、仮にそこらへんを「科学」という概念の中心的な部分だとするのならば、社会科学とされている領域は、そのような意味での科学であろうとする志向性をもった活動、みたいなもんだと思っております。その志向性自体を科学だと、名付けるのならば科学かもしれない。((そういった志向性が、対象を明らかにするために本当に効率的なシステムなのかどうか。または、それで本当に対象が明らかになっているのかどうか、ということは、また別途に議論ができるのでしょうが、それはさておきます。))自然科学は「科学っぽく」あるためのとても効率的なシステムを備えていると思います。数学も同様。ぼくは、数学や、自然科学が「科学そのものである」と考えているというよりは、「科学」とされているものの典型的なイメージがあり、それにどのぐらい適合度が高いかどうかでもって、「科学」と呼ばれたり、あるいは呼ばれなかったりしている、というイメージです。その典型性を支える個々の用件について、科学哲学とかの人たちは議論している?のかな?と妄想しています。その典型的なイメージを採用することに、どのぐらい意味があるとか、ないとか。

■2.いくつかの争点

 いままでの回答では、観察対象の再現性の低さのほうが問題になっていたので、別の観点から答えます。

□2-1.問題を理解できるかどうかこそが問題

 社会科学の中でも、定量的な分析をして、ある程度まで共通のアジェンダ・セッティングをわかりやすく落とし込めた経済学だとかは、かなり「科学っぽく」あることに成功している。けれども、共通のアジェンダ・セッティングに失敗気味……つーか、アジェンダ・セッティングをきちんと理解するだけで一生が終わってしまいそうな哲学よりの社会学だとか、哲学よりの政治学の世界とかは、何に反証すればいいのかがわからないため、科学っぽい活動をするための効率性がとてもわるい。ルーマンとか、何言っているか、ワケワカラソ。

 社会科学においては、「何が問題になっているかを理解できているか」が「問題」である、ということがもう一つの議論の焦点としては面白いのかな、とおもいます。

「ハイデガーの技術論について論じたいのであれば、ドイツ語の原典で読まなければならない。」といったタイプの、スパルタは社会科学(というか人文科学?)ではよく言われたりしますけれど、ああいうスパルタってすごいなぁ、、、、とおもいます。確かに、何が問題になっているかわからずに、車輪の再発明をしてしまう人に対しては、「おまえはそもそもわかってない」という批判はいいのでしょうけれど、新しくて面白いことを言っている人がいたとしても、それが本当に新しくて面白いことを言っている人なのかどうかを判断するのが、とても大変になってしまう。

 たとえば人類史上で、最高にある対象Xについての理解水準の高いAさんという人が仮にいたとする。そして、Aさんが、誰よりも妥当性の高い議論を展開したとする。しかし、Aさんのの議論の中身を理解するためには、Aさんと同じレベルの理解水準に達していなければいけない場合、Aさんの議論の理解をするためには、Aさんと同水準かそれ以上の人が誕生しなければならない。((余談:そう考えたとき、社会科学者として優秀であるためには、新しくて妥当性の高い議論を展開することが必ずしも重要にならない場合がある。現在の研究者たちの平均的な理解水準を鑑みて、彼らの理解水準にあわせて、何かを言っていったほうが社会科学者のコミュニティにとって好意的に受け取られる可能性が高い。というか、実際の社会科学コミュニティはそういう形でまわっていると思いますが。でも、まかり間違って、わけのわからん宇宙言語を操るおっさんの研究内容が、「この議論は最高だ!」とか理解水準が高いとされている人たちが評価しはじめると、理解水準が高くない研究者もそれに付き合わされてしまうことになり、…まあ、そういったことの積み重ねで、ときにはソーカル事件的なことも起きるのかな、と。#ただ、ソーカル事件的なことが起きてしまうメカニズムを内包しているということと、そもそもにおいて「科学的であること」への志向性を持たないということとは別のことだと思っています。弱点はいろいろあるけれど、それでも科学的であろうとしている何かではあるだろうとおもいます。))

□2-2.神学と社会科学の線引き

 もう一つ。神学を科学に含めるかどうか、という問題に言及してらっしゃったので、そっちの観点から答えます。

 「神学」も、反論を積み重ねていったり、神の存在証明とかをしたがっているという点では、たぶん科学的であろうとしている何かではあると思います。ただし、神学を社会科学などとは別の領域である、と分けるのであれば次のような線引きになるのかな、と。

 理論が正しいか、正しくないかは、観察対象としてアクセス可能な「社会」とか「自然」といったものに照らし合わせて、「あー、その通りだねー」「うーん、ぶっちゃけ、ウソだねー」と言うことができる。ですが、照らし合わせるべき観察対象が、個々人で様相の違う「信仰」というものを基礎にして議論を立てるタイプの「神学」は、正しいか、正しくないかの判定方法というのが、正直よくわかりません。というか、ほんとにどうやって議論をしているのか、素朴に知らないのですが、聖書の解釈学とかだったら、聖書にはみんなアクセスできるので、その範囲で共通の話をして、反論したりしてみせることはできるのでしょうけれども、聖書というみんながアクセス可能なものの「真意」がどう書かれているかを問う話となると、「これが真意に違いない」と言ってみせるための評価手法が「みんながそう思うかどうか」とか「えらい人がそう思うかどうか」の水準以外には確保しづらい。多数決とか、権威とか伝統とかでもって正統性を召喚するほかにない。(のだと思う)

 まあ、社会科学の世界に多数決とか、権威とか伝統とかという正統性のシステムがあるかないかと言えば、どう考えてもある、とは思います。だけれども、権威を批判するために「統計とってみたら、ほにゃらら大先生の理論には、まったく妥当性がありませんでした。色々な複合要因の可能性も排除してみましたが、ハッキリ言って間違ってると思います。」という反論の仕方を、何の権威もない人がやってしまうことも可能ではある。でも、神学は(たぶん)できない。

((余談:、、、、もしかすると、神の奇跡とかをガンガン見せつけるジャンヌ・ダルク的手法をとってすれば、可能なのかもしれませんが………でも、ジャンヌ・ダルクが神の加護を受けているかどうかを検証する方法と、統計が事実かどうかを検証する方法とで比べると、統計の検証可能性のほうが、よっぽど沢山の人によって試されている。あるいは、論理学の方法についても同様のことが言えるのかな、と。))

■3.まとめ

 なんか、話がぜんぜんスマートじゃなかったですけれど、

 「科学だと思いますか」という問いに対して、結論を短めにまとめます。

  • (0)「科学っぽくないけれど、科学であろうとしている」とは思う。科学であろうとしていることをもってして、「科学」というのであれば、科学。程度問題でいえば、あんま科学っぽくない。
  • (1)どこらへんが科学っぽくないかというと、社会科学は、対象/理論の再現可能性の低いので、検証が大変で、非効率
  • (2)そして、反証可能性とかって言うにしても、何が問題になっているかをそもそも理解するのが大変なので反論が非効率。
  • (3)でも一応、神学とかと比べると違いがある。妥当性を確保するための手法については、効率は悪くても理論の判定方法について、個別の人間や社会に依存しない形の反論方法は存在している……ということになっている。そういう線引きの仕方もある。そこで線を引いても言い。

 という感じでしょうか。不勉強なもので、適当な記述をダラダラと述べてしまって恐縮ですが。

■4.ついでの思考実験

 あと、ちょっとした思考実験として、

 仮にタイムマシンが発明されて、ムハンマドや、キリストに直接に真意を聞きに行ける手法が担保されたとする。ややこしいタイムパラドクスとかの話とかもスルーできてしまうとする。そういうことが可能になった場合は、聖書の解釈学とかって、いきなり「科学的」なものになってしまえるのかもな、と思います。それが信徒にとって本当にしあわせな結末を生むのかどうかはわかりませんけれど…。

id:Gedol No.8

Gedol回答回数1ベストアンサー獲得回数02008/05/24 12:59:31

ポイント10pt

とりあえず「科学」の境界を示さないとそこに「社会科学」が含まれるかどうかを論証することは不可能なので、ネタ定義でやってみます。


インチキ宗教的な解釈


 「インチキ教」において「科学」とは、「神の御業について検討する神学の範囲内において、複数の事象を比較検討可能な程度の同一性を持つ状態にモデル化して検討する技術」と説明される。その為、「社会科学」もモデル化の精度の範囲内において「科学」であり、その精度を超える範囲において「呪術」であると考えられている。


 実は自然科学もモデル精度の範囲内なら「科学」で範囲外なら「呪術」なのだが、一般にモデル精度を超える精度の検討結果を要求されることが(疑似科学者以外の科学者は)少ないので「科学」の範疇を超えることが少ない。

 一方、社会科学で利用可能なモデルは大抵精度が低いのにモデルの精度を超える検討結果を要求されることが多いので「科学」から逸脱している様に見えることが多く、数多の社会科学者が枕を濡らしている。

  • id:R_Smullyan
    うーん、一般には、社会科学の科学性は反証可能性があることを根拠に認められる、とされています。でもその反証可能性による線引きが私は不満だったのです。社会科学が科学だと、私は認めますが。科学だけれど、社会科学系の一部の研究者が自負しているところの科学性はなんかオカシイゾ、と。
    とりあえずは、complexequalityさんの回答で少し満足です。真摯に考えてくださりありがとうございました。
  • id:feenal
    英語と日本語は分けて考えた方がいいんじゃないかなー?
    例えば英語では理系の学生を science students、文系の学生をarts studentsとか言うみたい。
    文系科目ならarts subjectとか。

    だから英語では文系はscienceとは完全に別物扱いなんですね。
  • id:R_Smullyan
    feenalさん、英語で書かれた「文系」学問の本を読んだことはありますか?
    例えば、behavioral scienceという英語表現があります。行動主義は、科学であろうとした最たる潮流です。(そしてその行動科学の基底に、私は異議があるのです。)

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