場所によっては爆弾が落ちてくるかもしれないのに、農家の人たちは普通に米や野菜を作ったり、猟師の人たちは海に漁に出てたりしていたのでしょうか?
また、戦争に人員が大量に狩り出されましたけど、農家や猟師は徴兵を免除されたり、あるいは、徴兵された夫の代わりに妻が農業や漁業をする、なんてことがあったでしょうか?
太平洋戦争の時
食料は国内自給のみでした。
現在のように中国から輸入というのはありませんでした。
田舎にはアメリカとて爆弾は落としません。
率が悪いからです。
つまり、田舎に落としても人を殺す確率が超低いからです。
だから、言うならば安心して農耕できたそうです。
漁業も日本海側とかは出漁できました。
農家や漁業だからといえども、徴兵のがれは出来ません。
それができれば、どうやって公平に徴兵するかという難しい問題が出ます。
徴兵された夫にかわり、妻が農業は当たり前でした。
漁業も多少はありました。
だから、都会の人は高価な着物などをわずかの食料に交換してもらって、その日の空腹というより飢えをしのいだそうです。
サツマイモの「つる」を食べていたという話があります。
おかずでなく、米でなく、さつま芋でなく・・・
さつま芋の「つる」です!
「つる」でさえ食べられれば裕福(?)なほうだったということですから・・・
つまり、日本人は相当に飢えてました。
それが終戦(=敗戦)の原因でしょう。
太平洋戦争の時
食料は国内自給のみでした。
現在のように中国から輸入というのはありませんでした。
田舎にはアメリカとて爆弾は落としません。
率が悪いからです。
つまり、田舎に落としても人を殺す確率が超低いからです。
だから、言うならば安心して農耕できたそうです。
漁業も日本海側とかは出漁できました。
農家や漁業だからといえども、徴兵のがれは出来ません。
それができれば、どうやって公平に徴兵するかという難しい問題が出ます。
徴兵された夫にかわり、妻が農業は当たり前でした。
漁業も多少はありました。
だから、都会の人は高価な着物などをわずかの食料に交換してもらって、その日の空腹というより飢えをしのいだそうです。
サツマイモの「つる」を食べていたという話があります。
おかずでなく、米でなく、さつま芋でなく・・・
さつま芋の「つる」です!
「つる」でさえ食べられれば裕福(?)なほうだったということですから・・・
つまり、日本人は相当に飢えてました。
それが終戦(=敗戦)の原因でしょう。
ありがとうございます。
なるほど、農業や漁業をしてても危険性はそれほどなかったのですね。
父方も母方も北海道の内陸部なので、農業の話しかわかりませんが……
農業従事者は徴兵は普通に来ていました。
しかし、当時は家族総出で農作業をしているのが一般的だったので、ご質問の文章にあるような「夫の代わりに妻が」といった構造が改まって持ち上がることはありませんでした。
> 「つる」でさえ食べられれば裕福(?)なほうだった
それは東京などのごく大都市部などでの話でしょう。
父も母も農家だったわけではありませんが、終戦まで白米を普通に食べていました。
むしろ戦後の方が大変だったようです。
戦中の食料事情については、アメリカのプロパガンダで針小棒大になっている部分が多いと思います。
ありがとうございます。
家族総出、ってことは、大黒柱がいなくなったら、その分他の家族が役割を埋めた、という考えでよろしかったでしょうか。
祖父母が島根県に在住しています。
祖父は七人兄弟で、戦中は祖父のみ沖津島(山口県)の海軍学校に行っていました。
そこでの食糧事情は祖父自身もあまり覚えていなかったそうですが、少なくとも毎日日の出前からの訓練に支障をきたすほど食料が少ない、ということはなかったようです。しかし、潤沢なものとはいえなかったでしょう。
なぜかというと、うちの祖父の兄弟は皆祖父以上に大きいからです。弟二人はいずれも160センチ後半ですが、祖父だけ150センチ代です。
ここから、おそらく成長期の食生活によって身長の伸びがある程度規定され、そして食生活の質は上の回答から推測しまして
(都市部一般市民)<(軍人)<(農民)
かと思われます。
ちょっと質問の意図から方向性が離れてますが、貴重なお話ありがとうございます。
兵庫県の中部に先祖代々住んでいます。祖母の話によりますと、兵隊に徴収されたのは年齢的なことから、男5人兄弟の長男のみだったようです。
田舎なので当然農作業は行っていましたが、国から徴収される量がきまっていて、その量はというのが収穫のほとんど全部だったようです。
ほとんど全部の農作物を取り上げられて食べるものもなく、周辺の家ともども野に生えているペンペン草を採って食べていたそうです。
ちなみに出兵された長男はシベリアでなくなりました。栄養失調とのことです。
ありがとうございます。
年齢的なことから長男のみ徴兵、ということは、他の子供の兄弟(とお母さん?)で家の仕事を分担しなければならなかったということでしょうね。
それでも家庭のやりくりが苦しかったのですね。
すこし話が飛びますが、日本を現在の領土と同じ範囲で考えるならば、そもそも戦前の日本は米を完全自給してはいませんでした。朝鮮半島と台湾から米を輸入していました(だから「大日本帝国」全体の自給率と日本本土のみの自給率は異なる)。
人口と食料生産(環境・資源の制約) -戦前の日本及び旧植民地を例にして-
http://park.itc.u-tokyo.ac.jp/iee/kako_ronbun/SEEPSsum_ohura1008...
戦中戦後の食糧事情悪化には、国内での生産事情よりも、海外領土からの輸入が困難になったことがより大きく影響しているのではないでしょうか。
ありがとうございます。
海外領土から食料を輸入していた、というのは初めて知りました。
疎開という言葉をご存知ですか?
都会にしか基本的に爆弾は落ちないんです。
疎開は知っています。義務教育の中で教育されているはずですし。
それに、都会にしか基本的に爆弾が落ちない、というのは違いますよね。軍事施設があるところも優先的に狙われますよね。
それよりも、ken33jpさんの回答の書き方がちょっと気になりました。なんというか、高圧的、というか。。。
そういうキャラクターを演じられているのかもしれませんが、ちょっと回答を開いて、切なくて悲しい気持ちになりました。
2003年度の東京大学入学試験(日本史)第4問より、
米を食べるという習慣は戦争のために出来上がったという側面があります。農村では特別な日にしか口にしなかったが、配給制により習慣となっています。
ありがとうございます。
米を食べるという習慣は戦争のために出来上がった、というのも初めて知りました。
手元に、「戦争中の暮しの記録」という本が。(暮しの手帖編)
http://www.amazon.co.jp/%E6%88%A6%E4%BA%89%E4%B8%AD%E3%81%AE%E6%...
中に、「百姓日記(米作農家の側から見た敗戦の年の記録)」という記事があります。
方言がきつくて読みづらいので引用はしませんが(写すのもつらい)。
まあ、「麦芋なら供出しなくて良い」とかいうのどかな話ではない様子です。
(当時は、パンや油、衣類にいたるまで、広範囲の生活物資が配給制でした。……ということは、配給する前の段階では、政府が生産者から「適正な価格」で買い上げていたわけで。末期には、米ではなく、代用食料として「食用粉」とかいう謎の物体が配給されたり)
空襲の恐れがないとは言え、農村でも徴兵はありました。
農家が戦争に必要だ、となったら、工場労働者も必要なわけで、誰も徴兵できなくなってしまいます。
(戦争に必要な研究をしている、とされた学者なんかは後回しにされましたが……)
人手が足りない上に、肥料の配給もどんどん乏しくなり(肥料を作る工業力がなくなっている)、農機具も配給制……というのでは、生産力の低下は避けられません。
その上に、
「政府命令により、耕作面積の75%以上は必ず蒔き付けねばならぬ」
「1月に麦を蒔けなんて無茶な」
「蒔き付けには女学生を派遣する。弁当は持参させるので、昼食時に味噌汁だけ出してくれればよい」
「その味噌汁をどうしろと……」
「今年も田植えは全部するか?」
「なんでそんなことを?」
「肥料はないし資材もないし供出は厳しいし、作れば作っただけ損をするじゃないか。その上、出征した~~さんとこの田んぼも引き受けてるからとてもやってられない」
「しかし作らねば国家総動員法違反だと」
「木炭は?」
「米と引き替えに売ると言われた」
「塩は?」
「米と引き替えだと」
「どいつもこいつも……」
それでも、自分たちの分の米は抑えておける、という意味では、都市部よりずいぶん有利でした。
(ウチの母方の祖父母は田舎の出ですが、戦中・戦後とも、さほど飢えることはなかったようです)
「やっぱり困っていることは同じことばってん、食糧が身近にあるけんよかたい」
だとか。(前掲書)
できた米を少なく申告して、残りはこっそり隠しておくとか。
(末期には、政府は種籾まで供出しろと言ってくるのでそうせざるを得ない面もあった)
大きな目で見ると、労働力を兵士として前線に引き抜いて生産力を低下させた上、生産された食糧も前線に送る(そのかなりの量が、途中で輸送船が撃沈されるなどして失われる)わけです。
自給率はひどい有様で、前線はもちろん国内平均でも必要カロリーを割っていました。
1945年夏に終戦を迎えたわけですが、万一あのまま冬を迎えていたら、かなりの国民が餓死していたものと推定されています。(一説には1/3)
戦後、吉田茂が
「450万トンの食料支援がなければ餓死者が出る」
とホラを吹いて、アメリカの支援をとりつけた話は有名です。
実際は70万トンでなんとかなったのです。
……ってことは、戦後ですらやっぱり70万トン足りなかったわけで。
まあ、北朝鮮に比べたらずっとマシ、ではありますが。
ありがとうございます。
大変な苦労を強いられた時代だったのですね。
ありがとうございます。
なるほど、農業や漁業をしてても危険性はそれほどなかったのですね。