東京裁判の際に、裁判の様子を映像に記録したものを見たことがある気がするのですが、

その映像って現在どこに保管にされているか教えて下さい!

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  • 終了:2008/08/19 18:23:11

回答(2件)

id:kin1974 No.1

kin1974回答回数1139ベストアンサー獲得回数232008/08/19 17:38:01

id:ryota11

え?これ??

これなんですか??

これは当時のいろんな映像を集めた映画だと思ったのですが。

この中に入っている可能性はありますが、原本のありかを知りたいのです。

ありがとうございます。

2008/08/19 17:40:10
id:kappagold No.2

kappagold回答回数2710ベストアンサー獲得回数2482008/08/19 18:16:09

ポイント65pt

1番の方の回答は的はずれというわけではないような気がします。


太平洋戦争敗戦後の昭和23年、市ヶ谷の旧陸軍省参謀本部にて開廷された裁判の模様を、裁判より25年の後に公開されたアメリカ国防総省の長大なフィルムをもとに製作した記録映画。という事なので、アメリカのペンタゴン(国防総省)にあるようです。

http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=148593


国内では、日本ニュースに写っているものがNHK資料センターに永久保存されているそうです。

http://www.nhk-ep.com/shop/commodity_param/ctc/+/shc/0/cmc/11929...

id:ryota11

激しく納得です。

両名さまともありがとうございました!!

2008/08/19 18:22:55
  • id:takokuro
    治安維持法交付(勅令により朝鮮、台湾、樺太にも施行)
    普通選挙法
    1925年の「ジュネーブ議定書」(生物化学兵器の禁止)
    太平洋問題調査会(IPR)・・・
         戦前、日本人クリスチャンが多数参加した国際的な組織
         IPRはハワイのYMCA(キリスト教青年会)の汎太平洋YMCA会議の発展組織として
         1925(T14):太平洋問題調査会(IPR)設立、
               Ⅰホノルル会議
         1958(S33):ⅩⅢラホール(パキスタン)会議を最後に消滅
    1936(S11):Ⅵヨセミテ(米国)会議を最後に日本IPRは解散、
    1950(S25):ⅩⅠラクノウ(印)会議で、戦後再結成され、日本IPRの復帰
    初期日本IPRを背負ったのは・・
      日本近代資本主義の父・渋沢栄一(評議委員会会長)、
      井上準之介(初代理事長)、
      新渡戸稲造(Ⅱ理事長)
      活動の中心は新渡戸の時代に影響を受けた新渡戸人脈・・・
        高木八尺(一時クエーカー)、
        前田多門(聖公会からクエーカー)、
        鶴見祐輔(晩年クエーカー)、
        高柳賢三、那須皓らに委ねられる
        樺山愛輔もⅢ京都会議に参加し、
        彼の弟子・松本重治、
             牛場友彦、
        樺山の女婿・白州次郎
    IPRは新渡戸、渋沢、樺山の弟子達の集会化
    樺山・・・
     満州事変直後、険悪となった日米関係の修正に渡米し、
     訪問先は: 
       ボヘミアン・クラブ(米国エスタブリッシュメントが一同に集合)
       グリュー(モルガン家と姻戚。妻=アリス(大叔父は黒船のペリー提督)通じ、
       米金融界のモルガン家とのパイプを持つ
       井上準之助亡き後、モルガン家のJ・P・モルガン社・名会長・トマス・ラモントとの親交を引き継ぎ、
       戦後、樺山丑二(樺山の長男)はモルガン銀行東京支店顧問に就任
          松本(薩摩の松方正義の孫)が携わった国際文化会館事業を通じ、
          ジョン・D・ロックフェラーⅢとIPRで親密
          IPRのスポンサーにはロックフェラー財団も名を連ね、
          IPRは、ロックフェラー家がサポートしている
       トライラテラル・コミッションや
       ウィリアムズバーグ会議の前身とも言える。
    このロックフェラーⅢ人脈は後に吉田茂へも引き継がれることになる。
    幼少時から『赤』マッカツ系人脈に囲まれて育った西園寺公望は、
    10年間、当時は『赤』マッカツが欧本陣をおいていた仏に10年間洗脳留学
    42才年下の政敵・近衛文麿(1891~1945 12才で襲爵し近衛家当主になり、父の多額の借金も相続)を
    彼の父・篤麿のアジア主義ではなく
    『赤』マッカツの子分の仏蘭欧米型自由主義に文麿を育てようとするが??
    学習院中等科を修了後、
    華族の師弟は『赤』マッカツ系洗脳教育でもある学習院高等科に
    そのまま進学せず、
    小泉八雲や漱石ら『白』人脈が生まれてる一高を受験して進学
    (が、当時の旧制一高校長・新渡戸稲造(『赤』マッカツ系と連携したIPR『青』系)が
     漱石とはすれ違わせている・・
    続いて東京帝大で哲学を学び、
    高名な経済学者で、当時急速にマルクス経済学に傾倒しつつあった河上肇に学ぶため、
    京都帝大・法学部に転学した。
    1914(T3)、近衛文麿(25)、在学中、Ⅲ『新思潮』:
        「社会主義論」として
        オスカー・ワイルド『社会主義下における人間の魂』翻訳、発表
          ↓
        禁止処分 宮内省で厳重注意
    1936(S11):2.26事件直後・・・
        岡田啓介首相の後継として
        近衛文麿(37、五摂家筆頭、反英米協調外交)、
        次期首相の大命降下
          ↓
        近衛の支援者・陸軍皇道派勢力、
        相沢事件と二・二六事件により側近を失脚され田状態の、
    1937(S12)6/4:元老・西園寺の推薦の下で、Ⅰ近衛内閣:
        直後に、
        治安維持法違反の共産党員や
        二・二六事件の逮捕・服役者の大赦を主張し(元、荒木貞夫陸相の無国家主義)
        二・二六事件以降は
        真崎甚三郎ら皇道派将校救済のために
        近衛は主張するが、西園寺の反対で実現なし
      7/7、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争(支那事変)が勃発
      7/9、不拡大方針を閣議で確認
      7/11、現地の松井久太郎大佐(北平特務機関長)と
         秦徳純(第29軍副軍長)との間で
         停戦協定締結されたにもかかわらず、
         内地3個師団を派兵する「北支派兵声明」を発表
         しかし、その後の国会では「事件不拡大」を言い続け、
     7/17、¥1000万余の予備費支出を閣議決定
     7/26、陸軍が要求していないにも拘らず、
        \9700万余のⅠ北支事変費予算案を閣議決定し、
     7/31、\4億超のⅡ北支事変費予算を追加
     8/2、増税案を発表
         この間宋子文を通じ和平工作を行い、近衛と蒋との合意成立、
         特使を神戸から船にのせ南京に送って欲しいとの電報が届くと、
         杉山元陸相に確認を取り、
         宮崎龍介を特使として上海派遣を決定したが、
         海軍通じこの電報を傍受した陸軍内一部の強硬論者が
         これを無視して憲兵を動かし、
     8/4、宮崎を神戸で拘束し東京送還し
        この和平工作は立ち消えとなる
         杉山陸相の真意は不明で、
         宮崎派遣を了承したにもかかわらず
         部下には工作妨碍を命じたとも、
         確認のつもりで部下に言ったため
         一部の強硬論者が勝手に動いたとも言われているが
         杉山はこれについて追及せず
         事後了解を与えたとして、近衛は杉山に強い不信感を抱く

    8/8、日支間の防共協定を目的する要綱を取り決め
    8/9、上海で、二人の日本人将兵が殺害され、それに応じ
    8/13、二個師団追加派遣を閣議決定
    8/15、海軍による南京に対する渡洋爆撃を実行し、
        同時に、「今や断乎たる措置をとる」の声明を発表
    8/17、不拡大方針を放棄すると閣議決定
    9/2、「北支事変」という公式呼称を「支那事変」と変更を閣議決定し、
       戦域を拡大
    9/10、臨時軍事費特別会計法が公布され、
       「支那事変」が日清戦争、日露戦争、ⅠWWと同列の戦争と決定され、
        不拡大派の石原莞爾参謀本部作戦部長が失脚
    12/13、南京攻略
    翌1938(S13)1/11、御前会議で支那事変処理根本方針が決定され、
       ドイツ仲介による講和(トラウトマン工作)を求める方針が、
    1/14、和平交渉の打切りを閣議決定し、
    1/16、「爾後國民政府ヲ對手トセズ」の声明を国内外に発表し、
        講和の機会を閉ざす
       更に、汪兆銘政権を樹立し、
       石原莞爾らの独自和平工作を完全阻止
    5/5、支那事変のため、
       かつてソ連がしたⅠ五ヶ年計画と同じパターンで
       国家総動員法や
       電力国家管理法
       を成立させ、
       経済の戦時体制を導入し、
       日本の国家社会主義化開始
    1941(S16)、国民学校令制定
       (独ナチスのフォルクスシューレのパターンの教育制度)
    この頃、近衛は、
       閑院宮陸軍参謀総長らに根回しをすることで杉山の更迭成功し、
       後任に、小畑敏四郎を考えたが、
       西園寺勢力の圧力により
       板垣征四郎(不拡大派)を後任させようと
       山東省の最前線の板垣へ民間人の古野伊之助を派遣
    この時期の内閣改造は、
       陸軍の非主流派や不拡大派の石原莞爾らが主に入閣し、
       軍部を抑えさせようとするが
       板垣が「傀儡」となり失敗
       この際、近衛は、宇垣一成を外相にしたものの
       宇垣の和平工作を実現するのに非協力的で
       近衛が興亜院設置をこころみたり
       9月に辞任
    8月、麻生久を書記長とする社会大衆党を中心として、
       大政翼賛会へ至る独裁政党への第一歩・大日本党の結成を目指すが、
       時期尚早とみて中止
    11/3、「東亜新秩序」声明を発表
    1939(S14)1/5、総辞職
    1940(S15)5/26、木戸幸一や有馬頼寧と共に、
       「新党樹立に関する覚書」を作成
        再度、ソ連共産党やナチ党をモデルにした独裁政党の結成を目指す
    6/24、「新体制声明」を発表
    7/19、組閣の直前、荻窪会談を行い、
       入閣予定の東条英機、吉田善吾、松岡洋右と
       「東亜新秩序」の建設を合意
       のちにⅠWW後のパリ講和会議に
       日本全権として参加した際にも近衛を秘書として伴っている
    1940年7/22、Ⅱ近衛内閣
    7/26、「基本国策要綱」を閣議決定し、
      「皇道の大精神に則り
       まづ日満支をその一環とする大東亜共栄圏の確立をはかる」
       (松岡外相の談話)構想を発表。
       新体制運動を展開し、全政党を自主的に解散させ、
    8/15、民政党の解散をもって、日本に政党が存在しなくなり、
       議会制民主主義は死を迎える
       しかし、一党独裁は日本の国体に相容れないとする「幕府批判論」もあり
       会は政治運動の中核体という曖昧な地位に留まり、
        独裁政党の結成には至らず、
    10/12、大政翼賛会の発足式で「綱領も宣言も不要」と新体制運動を投げ出した
        新体制運動の核の一つであった経済新体制確立要綱が
        財界から反発を受け、
        小林一三商工相は経済新体制要綱の推進者である岸信介次官と対立、
        小林は岸を「アカ」(マッカツ?)と批判
        近衛は革新官僚を「国体の衣を着けたる共産主義」として敵視し、
    12月、平沼騏一郎の入閣で、
        経済新体制確立要綱を骨抜きにさせて決着を図り、
        平沼らは更に経済新体制確立要綱の原案作成者たちを
        共産主義者として逮捕させ、岸信介も辞職
        この間、新体制推進派は閣僚を辞職し、
        平沼は大政翼賛会を公事結社と規定し、
        大政翼賛会の新体制推進派を辞職させた
    9/23、北部仏印進駐。
    9/27、日独伊三国軍事同盟を締結。
    1941年(S16)4/13、日ソ中立条約を締結。
        近衛らは
        三国同盟を骨抜きにする日米諒解案による交渉を目指すが、
        松岡洋右外相は反発し、
        松岡による修正案がアメリカに送られたが、アメリカは修正案を黙殺
    6/22、独ソ戦が勃発、
       独伊と三国同盟を結んでいた松岡外相の日本として
       独ソ戦争への対応を御前会議で練られる
        松岡は、陸軍?独ソ戦争を、
        仮想敵国ソビエトに対し軍事行動をとる千載一遇のチャンスとして、
        海軍は、資源が豊富な南方進出方針を主張
        大本営政府連絡会議で
        松岡外相は三国同盟に基づいてソ連への挟撃を訴える
    7/2、御前会議で「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」が決定。
       この国策の骨格は
       a)海軍が主張した南方進出と、
       b)松岡外相陸軍が主張した対ソ戦準備
      という挟み撃ち戦略
    7/7、御前会議決定を受けて、
       b)松岡外相と陸軍:対ソ関東軍特種演習を発動し
         独ソ戦争の推移でソビエト侵攻戦略
    7/28、a)海軍:南部仏印進駐を実行し
         米経済制裁が実行される
         在米日本の経済の米政府管理と
         日本の南部仏印進駐を確認し、石油の対日輸出の全面禁止
    7/18、昭和帝より、
       対米強硬派、且つ北進論の松岡洋右外相更迭され、近衛内閣、総辞職
    9/6、 米対日石油全面輸出禁止に反発し
       「帝国国策遂行要領」を御前会議で決定し、
       対英米戦方針を定める
    1941(S16)7/18、Ⅲ近衛内閣
       米要求(すでに桎梏にすぎない松岡洋右更迭)に従ったふりをして
       『赤』マッカツ方針を引き継ぐ外相・豊田貞次郎海軍大将(南進論)、就任
    7/23、すでに独に降伏した仏ヴィシー政権から
       インドシナ油田権益を奪い、
    7/28、南部仏印進駐を実行し、
    7/30、サイゴン入城
       東条英機陸相が開戦と天秤にして
       日本側の要求交渉の場を要求し
       近衛内閣、やっと日米首脳会談にもちこむが
       在米中国派(のちの台湾蒋介石?『赤』マッカツ勢力)が会談を頓挫させる
       (つまり・・在日『赤』マッカツと
        在米『赤』マッカツとが
        日英米との間に介入して
        平和交渉を邪魔していた・・!?)
    9/6、御前会議で、「帝国国策遂行要領」決定:
       米英に最低限の要求内容を明示し、
       交渉期限を10月上旬とし、
       米、蘭、英(当時、『赤』マッカツが実権を動かしていた)に
       開戦方針を示す
    9/6夜、御前会議のあと、
       近衛は駐日米大使ジョセフ・グルーと極秘会談し、
       危機打開のため
       日米首脳会談の早期実現を要請
       グルーは、その夜、直ちに首脳会談の早期実現の要請電報を本国に打ち、
       直ぐに、
       国務省で
       日米首脳会談の検討がされ
       妥協ではなく武力による日本封鎖を決定
    10/2、米国務省は日米首脳会談の事実上拒否を日本へ回答
       陸軍はこの回答により
       日米交渉の事実上決裂とし、
       参謀本部(陸軍管轄)は政府に、外交期限を10/15とくぎる
    10/12、戦争決断を迫られた近衛は
       政府の重要閣僚を自宅に呼び、
       対米戦争への対応協議「荻外荘会談」:
        c)近衛=対中撤兵による交渉を主張
        d)東条英機陸相=c)に反対し、
                総辞職か国策要綱に基づく開戦を主張
        両者は
        東久邇宮稔彦王を次期首相に推すことで一致し、
    10/16、内閣は投げ出され
    10/18、総辞職
    1941(S16)12/8、太平洋戦争勃発後は、
        c)d)共に軍部からは倦厭された吉田茂(のちの首相)と接近
    1942(S17)のシンガポール占領と
       ミッドウェー海戦大敗をチャンスに
       吉田は、
       『赤』マッカツに取り巻かれてる英米に交渉するのではなく
       『白』ユダヤ資本の本拠・スイスに近衛を派遣することで
       英米との交渉を開く戦略をとる・・
       近衛はうっかり!『赤』マッカツの木戸幸一にこのことを漏らしたため
       木戸によりこの案は握り潰される(ボンボンの不用心、浅はかさ?)
       『赤』マッカツは東條を悪者に仕立てる方針で
       東條の指示によるとしているが
       『赤』マッカツ紀元前から続く『生け贄』作戦である・・?!??・・
    1943(S18)皇道派軍人・真崎甚三郎や小畑敏四郎らの
        軍部赤化論や共産革命脅威論(無国家主義化テロへの危惧)を
        吉田の指示で
        殖田俊吉は小畑と共に、
        近衛に説き、
        のち、「近衛上奏文」へ発展
        以降、近衛は、彼らグループの中心として、
        親ソ的な現、陸軍首脳部を追放することで終戦を目指す
    1944(S19)7/9のサイパン島陥落で、
        『赤』マッカツ勢力が自分たちが直接政権をとろうと
        東條内閣の退陣要求するが
        近衛は戦局の好転は無いものとして
        「東条政権堅持」に尽力し
        『赤』マッカツらの憲兵政権勢力には
        戦争責任追及をにおわせて政権交代要求を抑え込み
        敗戦後の日本の国体で
        『白』社会のシンボルの神道を卑弥呼の代から
        繋いできた天皇制を
        『赤』マッカツらが戦争責任追求により
        撤廃さえ、
        日本の完全『赤化』(巨大資本と軍事力最優先で世界征服独裁し無国家にする)を狙ってるのを
        阻止しようと尽力するが
        3月事件(1931)や拓相・朝鮮総督・軍人の小磯国昭を看板にたて
        海相・海軍大将の米内光政が実権をもった連立内閣をたて
        
        (東條が何も言わずに
        本当は反戦側として尽力してきたにもかかわらず!
        A級戦犯として何も釈明しないまま、死んだのはその為だし
        『赤』マッカツも彼に戦争の真相をバラされると
        自分たちこそがA級戦犯となるので
        口封じでえん罪処刑する??)
    1945(S20)
        1/13(仏滅):am3:38、愛知県西尾市三河地震を発生させ
           (内陸直下型 mg6.8)
           2306名暗殺するが
           報道管制で被害状況を隠滅
           (1944(S19)3/3:抗日民族戦線を裏切って
               新南京政府主席の汪兆銘、渡日し
              11/10:名古屋大学病院で入院死・・暗殺??
            つまり・・抗日民族戦線による仕込み?地震??
            抗日民族戦線とは・・『赤』マッカツ勢力??
              11/7:尾崎とゾルゲは死刑で口封じ
                 西園寺に1年半(執行猶予2年)判決
                 犬養は無罪
                (のち、佐藤の逮捕で借りを返す羽目となる?)
        1/14:『赤』マッカツ系英スコットランドらが特許を持ってる接着剤や
           耐水技術で
           『釘なし船』を東京芝浦で披露し、
            世論を三河地震から離す
        2/14、近衛は昭和帝に
        早期和平の要望書「近衛上奏文」を奏上
        戦局悪化するにつれ、
        近衛は独自の終戦工作を展開し、
        看板自体が『白』のスイス、バチカンや、
        また看板自体が『赤』のスウェーデンなど中立国を仲介にせず
        1944に『白』スターリンが大元帥となってるソ連に
        和平仲介をもとめたが、
        すでに木戸ら『赤』マッカツと連絡済みの台湾・蒋介石と
        英チャーチル『赤』マッカツ勢力?が
        アメリカで開催しているヤルタ会議(2/4)で
          米ルーズベルトに
          戦後の欧州勢力テリトリー配分にからませ
          ソのスターリンに
          対日参戦で『赤』マッカツの徹底壊滅を示唆させており・・??・・??
        
        他方、日本側『赤』マッカツの木戸の勧めで
        近衛がモスクワ訪問の意向を示すが
        スターリンは回避・・・・??
        近衛は
         『赤』マッカツ勢力がすでに統治してる・・
          日本の全海外の領土(琉球諸島、小笠原諸島、北千島)を
          ソ連に代わりに統治してもらうことで
          治安を維持しようとし
          そのためには、労働力協力を申し出る案だった・・??
        2/19:『赤』マッカツの工策員として
           米留学しカナダ公使館武官として
           『赤』マッカツ側の戦略指示をうけた栗林忠道陸軍中将は、
           孤島の硫黄島で日本兵2万3000名を無駄死にさせて
           戦後日本に日本人男性人口を減らし、
           『赤』マッkツ男性が入り込みやすいよう混血を進めるため??
           もう一つは、
           米『白』勢力が『赤』マッカツらに終戦させようと
           日本の『赤』マッカツらが密かに開発中の原爆や地震天災兵器など
           施設壊滅したり、
           東京の公施設近辺に埋め込まれた人為的地震発生偽装のための
           爆弾などを
           爆破させ、一掃するための
           東京大空襲や長崎・広島の原爆投下するため
           B29の護衛戦闘機の発着点として硫黄島を必要としてるのを
           奪われて日本占領達成を流されないように
           硫黄島を死守しようとした??・・??・・
           (つまり・・日本占領のために
            『白』米B29との攻防戦を繰り広げ
             最悪でも、日本兵の全滅で『赤』マッカツに少しでも有利にしようとした・・??)
    1945(S20)8/15、太平洋戦争終結すると、
           東久邇宮稔彦王内閣がで近衛は国務大臣
       10/4、近衛、GHQ総司令官ダグラス・マッカーサーを訪ね、
          持論の軍部赤化論を説き、
          天皇中心の封建勢力や財閥が
          開戦ブレーキの役割を果たした、と説明し
    皇室と財閥を除くと
    日本はたちまち『赤』マッカツにより赤化すると主張
          マッカーサー、サザーランド参謀長およびアチソンGHQ政治顧問は
          これに肯き、
          近衛に憲法改定を託す
        BUT!木戸幸一や原田熊雄が
          国内外の新聞メディアに、
          戦時体制のリーダーだった近衛に責任追及世論を
          書かせることで
          大衆の戦時中からの抑圧感情の爆発を
          近衛に対し
          血祭り?生け贄?(拝火教系の特徴)にすることで利用し
        他方、蘭英スコットランド系『赤』の白洲次郎らも、
          マッカーサーが近衛に憲法改定を託したと宣伝して回り、
          米『白』マッカーサーの失脚を仕組む
          (それをうまく収めたのが吉田茂??)
     11/1、メディア世論に圧されたマッカーサーは、
        近衛の憲法改定に
     GHQは不関与を表明するために、
     砲艦に、近衛を呼び出し、
     軍部と政府関係について質問し
     近衛に近衛演説(1921)を説明させようとするが
        裁判の場でないところで
     天皇の統帥権を述べると
     その統帥権が『赤』マッカツに
     明治期より虜にされて
        日中戦争が在日『赤』工策員により、
        国内からも国家方針をゆがめられえん罪失脚で
     人事替えされ、自分たち日本人勢力は日本国家乗っ取られ状態だったことまで説明しなくてはならない為
    (座敷牢に入れられて実際はすでに暗殺されてる北鮮将軍様状態?)
       そうなると・・
        政財界権を握ってる『赤』マッカツらが
        昭和帝の口封じをするために暗殺するので
     統帥権については口にできず、
     太平洋戦開戦の全責任を
     軍部に転嫁し、
     自分は軍部独走を阻止できなかった政治責任を説く
    1921:近衛演説・・・『世界文化』に「手記~平和への努力」を発表
        近衛演説・・・
        英仏スペイン、伊、仏ら
        『赤』マッカツによる資本主義化国は
        統帥権をまず懐柔することで
        将来、軍部と政府が
        二元化してきた危険性を説く

      
    1945年12/6、GHQからの逮捕命令を聞いて、A級戦犯として極東国際軍事裁判で裁かれることを知
    1945年12/6、近衛文麿、巣鴨拘置所出頭最終期限日、
       GHQからの逮捕命令の日?(実は、前日??) 
      (A級戦犯として極東国際軍事裁判への出廷要請)
       東京荻窪の自邸(荻外荘)で、
       『赤』マッカツ木戸幸一、
       731部隊から入手した
       青酸カリを次男・近衛通隆にわたし
       暗殺させる??
       自殺の前日日付で、
       次男の近衛通隆が口述筆記したという、
       偽の遺言状
       「自分は多くの過ちを犯してきたが、
        戦犯として裁かれなければならないことに耐えられない…
        僕の志は知る人ぞ知る」が残る
       『われ巣鴨に出頭せず 近衛文麿と天皇』by都留重人とハーバート・ノーマン
       (工藤美代子著、日経新聞社、2006年ISBN 4532165636)
       木戸幸一が責任追及を恐れ、近衛を口封じ暗殺
       近衛文麿、東大時代に、
       のち「宮中革新派」の
       木戸幸一(のち内大臣)や
       原田熊雄(のち西園寺公望秘書)ら華族子弟と近づき
       背後霊のように絡みつかれる人生・・・
       民主・小沢氏や兄・鳩山氏の如く??・・??
    原田熊雄・・・先祖
    直次郎(1863~99)独留学後、明治美術会創立支、工策活動
       孫七郎(安土桃山の貿易商)ルソンを拠点に
         秀吉の親書をもってルソンに渡り、
         入貢を要求(ヤクザの場所代徴収みたいな感じ??
         出さないと邪魔するゾ??恐喝!?)

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