人間の言語は、音素(Phoneme)がひとつ違うと、まるで意味が変わります。


例1)
あんこ あそこ あびこ アリコ あやこ あいこ  

例2)
sit    knit    fit    bit    kit  quit lit

問1) このような一音素が変わると意味が変わる特性を、言語学ではどのように呼ぶのでしょうか。

より正確にいえば、一音素が変わると、意味するもの(シニフィアン)が別のものとして認識されて、対応する意味(シニフィエ)が別のものになってしまう、というべきでしょうか。

問2) 一音素が変わると意味が変わるときに、きちんと音素が伝わるようにするために、人間はどのような努力をしているでしょうか。あるいは言語にはどのような誤り訂正機能があるでしょうか。

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回答16件)

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「区別がつく」 sibazyun2008/08/30 13:36:34ポイント3pt

またこんにちは。

  • 問1:こういうのを日常的には「区別がつく」といいます。言語学では、すこし難しく「示差的」とか「弁別的」とか言います。英語なら distinctive です。で、音素が代わると弁別がつくのではなく、(音声的に)弁別がつく単位を音素といいます。
  • 問2:個人個人ということでなく、社会的に言語現象、特に単語をみた場合に、「冗長度がある」ということができるでしょう。似たものに似た名前をつけるというのは、「名づけ」の場合にはありますが、名づけを意識しない昔からの単語では、似たものに音声的、音素的には離れた名前がけっこうついています。ringo と nasi ではまったく違いますね。もちろん、ringu (=指輪)とか似た音素の語はあります。しかし、「果物」という分野で話しているときには、かりにringu と聞こえようが、ringa と聞こえようが、ringo と多くの人は理解します。これが他の方も言っている「文脈」ですが、「文脈による理解」が成り立つ理由は、このような、冗長度があるからと考えられます。別な方が1(iti) と 7(siti)の例を挙げていますが、外来語(漢語)の社会的影響が、冗長度を少なくした例と思われます。
それでは、こう質問させてください ShinRai2008/08/30 14:59:14

「(音声的に)弁別がつく音素」によって、組み立てられているのは、人間の言語だけでしょうか。

人間の言語が「(音声的に)弁別がつく音素」によって組み立てられていることを、何と呼ぶのでしょうか。

そうですね sibazyun2008/08/30 19:44:40ポイント2pt

わたしの乏しい動物のコミュニケーションに関する知識で言うと、

  • 人間の言語における「音素」のような短い時間単位の音のつながりを弁別単位としている動物はいないのではないかと思われます。
  • もっとも、(高等)動物においても「餌がある」「あぶない」などのシニフェの区別があってコミュニケーションしていると思われますが、シニフェ自身の区別が少数なので、それに対する音が、あえて描写すれば gyaa であろうが、gyee であろうが、同じ同じであり、kyaa や kyeeと区別すれば十分、ということもあろうかと思います。つまり、動物自身が、われわれならgyaa, gyee と聞き分けるところを弁別単位としてはいない、ということがあるかもしれません。ただ、これは、学問的な裏づけのあることではなく、私の思うだけですが。
人類の文明や文化の発展と、その本質的欠陥がそこにあるかも ShinRai2008/08/31 08:00:59

sibazyunさん、

貴重なコメントありがとうございました。

数ある哺乳動物の中で、人類だけが、音素という離散的符号を作り出して、コミュニケーションをはじめた。

それは、符号の種類を桁違いに増加させること、コミュニケーション効率を向上させることになったと考えられますね。

しかし、その符号変換装置、つまり、音素のつながりをシニフィエに結びつけて理解する個別脳内辞書が、個々の人間の経験の中でしか作り出せないから、言葉の意味が消えてしまう。

それによって、人類は、自分だけが偉くて、他の動植物はすべて人間のために存在しているなどというおろかな子供じみた自己中心的な考えをもつ危険性を常に隣り合わせで生きるようになった。

おそらく宗教が、人間の大脳新皮質のもっていない本能の知恵、是非や善悪を、無理やり人間に教え込む働きをもっていたのでしょうが、その宗教ですら、人間が伝えるものだから、うまく機能しつづけるわけではなかったということになりますでしょうか。


私が、人類の文明、あるいは文明の原罪というものに興味を持ち始めたのは、2002年のヨハネスブルグ環境サミットのときからです。

当時読んだ緒方正人著「チッソは私であった」(2001年), 西村肇・岡村達朗著「水俣病の科学」(2001年)、吉田司「夜の食国(おすくに)」(1986年)のどの本の中にも、「水俣病はチッソが悪いのではない。文明の原罪として生まれた」ということが書かれていて、文明とは何か、文明の原罪とは何かということを、考えてきました。

その結果として、西原克成博士や、島泰三博士(ちなみに島先生の著作には、はてな で質問してめぐりあいました)の研究とめぐり合い、言葉と裸という現生人類の最大の特徴の起原にこそ、文明の原罪は潜んでいるのではないかと思い始めたのです。

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