【本質的かつ具体的なものとは何か】


齋藤孝氏の著作の中には、

「本質的というと、抽象的・一般的な印象を与えるが、本質的かつ具体的なものというのは存在する」

というような記述を見かけることがよくあります。
私は、本質的というのは抽象的なものだと認識しているクチなのですが、
この齋藤氏の述べていることがなんとなくわかるようでわかりません。

「本質的かつ具体的なもの」というのを詳しく説明していただけないでしょうか?

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  • 1人1回まで
  • 登録:2008/09/01 18:44:05
  • 終了:2008/09/06 10:27:06

ベストアンサー

id:webees No.2

webees回答回数89ベストアンサー獲得回数92008/09/01 19:57:55

ポイント50pt

私達がモノを考える時には、前頭前野という所をつかって論理的に考えます。しかしこの前頭前夜君はすべての事象を理解しているわけじゃありません。例えば「匂い」とか「恐怖心」とかいうものは前頭前夜を飛び越えて記憶されちゃったりします。例えば何だか分からないけどコワイものがある、というのは前頭前野では理解していないけど、扁桃体あたりが恐いと記憶している状態だったりします。蛇が恐いというように、DNAに組み込まれてしまっているものもあるようです。

あと、「自転車の乗り方を理解している」(抽象的)と「自転車に乗れる」(体感的)では、どちらが本質的な物事の把握かと考えた場合、自転車に乗れるという事の方が本質的な把握だと言えるでしょう。自転車に乗れるのは、論理的に覚えるのではなく、小脳が自転車の乗り方を「理解」し「記憶」するからです。

例えば「ほっとする感じ」とか「幸せ」を理解するには、抽象的に理解するのではなく、「日本に帰って来た時にみそ汁の匂いを嗅いで感じるキモチ」とか「草むらで寝そべったときに感じるキモチ」などの方が全体的で包括的だと言えます。

これを展開して考えると、源氏物語を理解する、ということは「源氏物語を抽象的に理解する」よりは「声に出して読んでみる」(すなわち感覚や体感といったものを取り込んだ方が、より全体的で包括的な理解だ)ということになるのではないかと思います。



ただし、体感に基づく本質的な経験には大きな欠点があります。他人との間には経験の違いがあり、ほっとする感じが「みそ汁」だったり「ミネストローネ」だったりするわけです。持ち運びができないのです。だから抽象的で論理的な本質は、経験の違いを超えて他人と理解し合う上だとも考えられます。

id:BLOG15

回答ありがとうございます。

本質的かつ具体的というのは、まず身体的感覚を伴うということでしょうか。

そしてそれは個人的な経験に基づくということでしょうか。

なんとなく方向性がわかってきたような気がします。

2008/09/03 08:28:29

その他の回答(1件)

id:pahoo No.1

pahoo回答回数5960ベストアンサー獲得回数6332008/09/01 19:17:17

ポイント20pt

座右のゲーテ -壁に突き当たったとき開く本 (光文社新書)

座右のゲーテ -壁に突き当たったとき開く本 (光文社新書)

  • 作者: 齋藤 孝
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • メディア: 新書

齋藤先生がゲーテに傾倒しているわけですが、この本に具体的な事例が述べてあると思います。

たとえば

一番よいのは、対象を十か十二くらいの小さな個々の詩にわけて書くことだろう

といったような、ゲーテの本質論、というか方法論が該当するのではないでしょうか。

ただ、この一節をゲーテの著作で読んだ記憶がないので、本当にゲーテが言っている言葉かどうかは確信が持てませんが‥‥。


私はシステム開発を生業としているのですが、システム開発における「本質」は「具体的」でなければならないと常に感じます。

というのは、システムを開発する際にはプロジェクトチームを招集するわけですが、チームメンバーの思想/信条/経験/受けた教育は千差万別です。唯一共有できるのは、そのシステムを開発するためのスキル――コンピュータ言語などの開発環境に対する習熟度――です。

となると、この具体的なスキルを共通言語として、対象業務の「本質」を共有していかざるを得ません。

十分に準備期間があれば、対象業務の「本質」を抽象化・一般化することは可能なのでしょうが、あいにく納期がそれを許してくれません。


それが良いか悪いかは分かりませんが、私たちは業務分析する際、本質的かつ具体的なものを核にして整理していかざるを得ません。

id:BLOG15

回答ありがとうございます。


>一番よいのは、対象を十か十二くらいの小さな個々の詩にわけて書くことだろう

>といったような、ゲーテの本質論、というか方法論が該当するのではないでしょうか。


最小単位に分割するということでしょうか。まだなんとなくよくわからないです。

2008/09/03 07:08:03
id:webees No.2

webees回答回数89ベストアンサー獲得回数92008/09/01 19:57:55ここでベストアンサー

ポイント50pt

私達がモノを考える時には、前頭前野という所をつかって論理的に考えます。しかしこの前頭前夜君はすべての事象を理解しているわけじゃありません。例えば「匂い」とか「恐怖心」とかいうものは前頭前夜を飛び越えて記憶されちゃったりします。例えば何だか分からないけどコワイものがある、というのは前頭前野では理解していないけど、扁桃体あたりが恐いと記憶している状態だったりします。蛇が恐いというように、DNAに組み込まれてしまっているものもあるようです。

あと、「自転車の乗り方を理解している」(抽象的)と「自転車に乗れる」(体感的)では、どちらが本質的な物事の把握かと考えた場合、自転車に乗れるという事の方が本質的な把握だと言えるでしょう。自転車に乗れるのは、論理的に覚えるのではなく、小脳が自転車の乗り方を「理解」し「記憶」するからです。

例えば「ほっとする感じ」とか「幸せ」を理解するには、抽象的に理解するのではなく、「日本に帰って来た時にみそ汁の匂いを嗅いで感じるキモチ」とか「草むらで寝そべったときに感じるキモチ」などの方が全体的で包括的だと言えます。

これを展開して考えると、源氏物語を理解する、ということは「源氏物語を抽象的に理解する」よりは「声に出して読んでみる」(すなわち感覚や体感といったものを取り込んだ方が、より全体的で包括的な理解だ)ということになるのではないかと思います。



ただし、体感に基づく本質的な経験には大きな欠点があります。他人との間には経験の違いがあり、ほっとする感じが「みそ汁」だったり「ミネストローネ」だったりするわけです。持ち運びができないのです。だから抽象的で論理的な本質は、経験の違いを超えて他人と理解し合う上だとも考えられます。

id:BLOG15

回答ありがとうございます。

本質的かつ具体的というのは、まず身体的感覚を伴うということでしょうか。

そしてそれは個人的な経験に基づくということでしょうか。

なんとなく方向性がわかってきたような気がします。

2008/09/03 08:28:29

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