何かの現象や物体を見たときに、それを言葉にすることは、デジタルの世界でいう「量子化(quantization)」、そして「符号化(coding, encoding)」にあたるといえるでしょう。また、言葉を意味へと還元するときにも、「復号化(decoding)」が行われます。これらの量子化、符号化、復号化の処理の際に、量子化誤差・符号化誤差・復号化誤差のようなものが生まれるから、言葉によるコミュニケーションには誤解や勘違いが生まれるのではないでしょうか。
禅が、言葉に依存するな、言葉を使ってものを考えるな、不立文字というのも、言語のデジタルな処理による誤差を排除することが目的ではないでしょうか。
皆様、いかがお考えになりますか。
符号化・復号化しているのならば、正確にその言葉だけが再現できるのではないかと思います。
「愛している」を符号化・復号化して取り出された情報は「愛している」でしかない、
それを大切な言葉だと認識するのはその言葉を発した人がどんな人か、表情や、どんな口調で言っているのか、を総合的に判断しているのではないでしょうか?
Gay Yahngさん、
書き込みありがとうございます。
人間の符号化・復号化の問題は、その符号化・復号化装置がひとりひとりの脳内にあって、てづくりであり、その人の人生の中で、じっくりと育っていくものだからではないでしょうか。
さらに、個々の人がどのような符号化・復号化を行なっているかが見えないところも、問題かもしれません。
もちろん、だからこそ、言葉以外の声の調子や顔色を伺うことに意味があるわけでしょうが。
言語による情報伝達に誤差が生じるのは個別の脳は言語だけでなく、
経験的にも異なる構造をするから。
人類は成長するにつれて、様々な社会と関わっていくし、様々な経験をします。
その過程は人によって異なるので、そこから得た成果でコミュニケーションを取り合えば
いくらかは誤差が生じるのは必然的。
善悪・正誤が実在しない社会は、正誤の判定という概念はそもそもないので
それが誤っている方向であるということにすら気付かないというときもある
道徳や教育、政治、自由は比較対象があってはじめて批判できる
おっしゃられるとおりだと思います
だからこそ、我々は言語によるコミュニケーションのもつ限界、あるいは誤差必然性を理解しておかなければならないのだと思います
デジタルな言語 - ノート『YES』のブログについて、長いので日記を書いてきました。
結論
情報の善悪・正誤を経験的に判断し、同系列の別の存在と比較する事でその価値の度合いを計測・消費プロセスを作る。社会の内部においては、比較対象の正誤・善悪の判定を他者の経験にも委ねる。その上で必要な共通的な概念が便宜的に必要であったので言語化された。社会が存在しないときも脳内に辞書を設けて比較するために名詞化・形容詞化される。
直感には個人の意識や比較が存在しないので、その直感を与える物のありがたみさえ知ることは無いし、改善改良する対象が無いので道徳的な思想も要さない。その教えによって誘導されて生きながらえる点で動物以下の存在になる。
ブログも拝見いたしました。興味深い考察ありがとうございます。
意識による思考作用と、直感と、どちらが正邪を判断できるのでしょうか。
私は、意識自体には、正邪を判断することはできないが、本能的な直感にはできるような気もします。
人間が自分で考えると、動物以下になりえるが、人間が自分で考えることをやめて、宇宙の真理と一体化すると動物並みに正しく生きることができるような気がします。
こういうようにもいえませんかね。 短い言葉で、大切なメッセージを送り、伝えることができるのは、個々の人間の脳が、情報源符号化・復号化を行っているからだと。