何かの現象や物体を見たときに、それを言葉にすることは、デジタルの世界でいう「量子化(quantization)」、そして「符号化(coding, encoding)」にあたるといえるでしょう。また、言葉を意味へと還元するときにも、「復号化(decoding)」が行われます。これらの量子化、符号化、復号化の処理の際に、量子化誤差・符号化誤差・復号化誤差のようなものが生まれるから、言葉によるコミュニケーションには誤解や勘違いが生まれるのではないでしょうか。
禅が、言葉に依存するな、言葉を使ってものを考えるな、不立文字というのも、言語のデジタルな処理による誤差を排除することが目的ではないでしょうか。
皆様、いかがお考えになりますか。
>2 概念は言葉がないと存在しえない
これは違うのではないでしょうか。
概念が先でしょう。
特に人間の感情は先に感情があって、言葉が名づけられませんか?
自分の感情なのでどういうものかは分る。概念を形成。それに名前がつく。では?
男の子は「恋」という言葉を知っているドラマでやっているし漫画にも描いてあった。
男の子が女の子をみて何かもやもやした感情を覚える。女の子にちょっかい出してみたり、触ってみたくなったりする。
この気持ちはなんだろうな?と考える。
他人の指摘なり自分で結びつけるなりして、「恋」であると認識する。
また、たとえば、猫は明確な意味での言葉を持っていません。でも概念はあると思いませんか?「さんま」と言う言葉を使わなくても猫の目の前にさんまがあれば「食べるもの」「うまそう」と考えているのでは?
これらの事については、どうお考えでしょう?
私の定義では、概念は「言葉と意味のセット」ですから、はじめに概念があるというのは、定義から外れてしまいます。
餌があるとか、うまそうな魚がいるとか、そういうのは、概念以前と呼びます。(私の定義では)
恋愛感情は、言葉以前のものです。おっしゃるとおりです。
それを恋と呼ぼうと呼ぶまいと。
だけど恋愛感情そのものを指して概念とは呼びません。(私の定義では)
あなたのお話の中で、恋心とか、猫が秋刀魚を見たときの感情というのは、対象へのまっすぐな関係性とでも呼ぶべきものじゃないですか。概念にする必要ないものだと思います。それを概念と呼ぶことは適当じゃないと思います。
ShinRaiさん、またお邪魔します。かなりシリーズ化してきましたね~。
まずは今回の議題ですが、
復号化の処理の際に、量子化誤差・符号化誤差・復号化誤差のようなものが生まれるから、言葉によるコミュニケーションには誤解や勘違いが生まれる
これはそのとおりでしょうね。
厳密に言えば、「処理」の過程で生じる「誤り」以前に人間の「ディコーダー」そのものが一つとして同じではないわけですし、同様に標本値に当たる「概念」そのものが全ての人間の間で共通ではないのですからね。
さて、タイトルの概念はデジタル的かという疑問なんですが、Yahoo辞書のJapanKnowledgeから引用するのであれば、
概念:個々に共通な特徴が抽象によって抽出され、それ以外の性質は捨象されて構成される。内包と外延をもち、言語によって表される。
ってなところですよね。仮に言語をデジタルだと定義した上で、概念がこの言語無しで存在し得ないとするならば、概念は言語と言うデジタル要素からインテグレートされた上層のデジタル要素と言う事に、確かになりますね。しかし、概念とは「表す」という行為を行う際に言語と言うデジタル要素に再ディコードされるだけで、概念そのものはアナログ要素として存在しているのはないでしょうか?
つまり、インプット(理解)の際にデジタル(言語)からアナログ(概念)に変換され、これをアウトプット(表現)される際に再度アナログ(概念)からデジタル(言語)に変換されるのではないかという事です。
というのも、上の辞書の定義には「抽象によって抽出され」とあります。解釈にもよりますが、抽象というのは対義語に当たる具象に対してあいまいなものであり、実際に我々の脳の中にある単語一つ一つに付随する概念と言うのは不変の固定値があるものではないのでしょうか?
Aさんの既存概念にある「りんご」と、Bさんの既存概念にある「りんご」は文頭で言ったように違いますし、またお腹が減った時のAさんの「りんご」の概念と、お腹がいっぱいの時のAさんの「りんご」の概念は恐らく違うと思います。言語化を仮にデジタル化と言うのであれば、その概念をデジタル化する際には確かに「りんご」という離散値が当てはめられますが、思考の中にある「りんご」という概念そのものは精神状態や周囲の状況により左右される、非常にアナログ的なものだと思います。
仮に言語に概念を忠実に再現する力があるのであれば、そもそも「誤差」は生じませんからね。
つまり、標本値に当たる概念がアナログである以上は、アナログエラーが生じる為、これが「誤解や勘違い」になる。と、いうのが今回の意見です。
>これはそのとおりでしょうね。
私はこの前提の「復号化の処理」に疑問があります。
>またお腹が減った時のAさんの「りんご」の概念と、お腹がいっぱいの時のAさんの「りんご」の概念は恐らく違うと思います。
これは少し違うのではないでしょうか?
概念は日々変化するのはありえると思いますが、この場合はりんごの概念があって
りんごがテーブルの上にあると言う情報、お腹が減ったと言う情報のインプットがあるので、そのとき取り出すアウトプット「うまそうなりんご」が出てくるのでは?
>またお腹が減った時のAさんの「りんご」の概念と、お腹がいっぱいの時のAさんの「りんご」の概念は恐らく違うと思います。
私もaustraliagcさんと似たような考えです。
「りんご」という記号(シニフィアン)から思い浮かぶ意味は、同じ人間であっても、時と所、体調や気分、あるいは運や啓示によって、違ってくる。それくらい概念における外延(シニフィアン)と内包(シニフィエ)の結びつきは恣意的なのじゃないかと思うのです。
りんごと聞いて、ワシントン大統領の逸話や、あるいはニュートンの発見を想起する場合だってあるでしょう。あるいは、iPODやiPHONEのアップル社を思い出す人がいてもおかしくない。さらに、ビートルズのリンゴ・スターを思い出す人がいてもいい。
我々の脳内においては、「りんご」ひとつとっても、実にさまざまな体験や記憶が入力されていて、それが何かのきっかけで思い出されてくるのではないかと思います。
概念がデジタルか、アナログか。
面白い検討をありがとうございました。
しっかし、アナログな概念って、存在していますか。
そうだと説得力がありますね。
別の質問で言及しましたが、オノマトペはアナログだと思います。
雨が「しとしと」、「ざーざー」降っている。
この「ざーざー」は、「ざんざん」といってもほぼ同じ意味になります。
しかし、では、オノマトペは概念かというと、どうでしょうか。「記号と意味のセット(外延と内包)」というよりは、「アナログな状況を音素・音節を使って表現したもの」ではないでしょうか。
外延(記号)である言葉と内包(意味)が恣意的に結びつくという言語の原則にもとづけば、そこにアナログな
要素はなく、概念はデジタルになってしまうような気がしますが。
思想や感情を表す単語に付随する概念/意味に特定の離散値はないでしょう。
Gay_Yahngさんの「恋」の例に同じくです。
他に挙げるのであれば、「宗教思想」、「政治思想」、「芸術思想」、「わびさび」などですね。
概念にアナログ/デジタルというのはどういうものを云うのでしょうか?どうもイメージできないです。
連続な概念/不連続な概念 ?
概念と言うのは抽象的、普遍的な共通認識のようなものかと思うのですがそれが連続したりしなかったりするというのはどういう状況なのでしょう?
概念に無理やりアナログかデジタルを、結局は押し付けてしまっているわけですが。
時間などの横軸に対する連続性ではなくて、仮に概念を表現する何かしらの「値」があった場合、この「値」を表現する縦軸にはある離散的な「値」の集合体があるのか、それとも離散値では無い連続的なスケールなのかという意味合いで解釈しています。
もっとも、やっぱり概念を数値化する事ができないんで、イメージできないのは無理も無いでしょう、もともと表現できないものなわけですから・・・。果たして我々の脳みそはどうなってるんでしょうかねー?
最初に1つ。音素は今回考えないのかと思いましたが、出てきますか。
次に
離散的、離散値、離散状況
の意味、または言い換えた言葉を教えて欲しいだけです。もう少し分りやすい表現は無いですか?
ShinRai さんの主張が分らないから説明して欲しいと言っているわけではないのです。
フォニームという離散符号
概念も離散事象である。
と云ったときそれぞれの離散の意味は同じですか?私には違うように見えます。
ShinRai さんの離散は
電子工学のデジタルで使われる、
「ある状態を、離散的な数字などの信号によって表現すること。」
と同じでしょうか?この電子工学のデジタルの意味は理解されていますか?身長172.5cmという量を10cmのモノサシ17個分と表すことです。(1cmのモノサシ172個分でもいいです。)。つまり10cm(または1cmの)のモノサシという単位が必要です。 ここまでOK?
まずはここまで。
1 離散的とは
音素や音節が離散的であることについては、異論はないのですよね。
別のツリーで書きましたが、
りんご りんぱ たんご だんご
といった記号の類似性が、意味の類似性に結びつかない性質のことを、意味の離散、概念の離散としてイメージしています。
意味は離散的であり、同様に記号と意味のセットである概念も離散的であるといえないでしょうか。
2 量子化とは
モノサシの単位については、「標本化定理」の考えと似ていると思います。
都市住民の消費者にとっては、りんごは一つの概念にしかすぎず、ふじとか、つがるとか、書いてあっても、それらの情報は捨象して、りんごとしてしか見ていない。
ところが、りんご産地の農家の人は、今月はふじが出荷、来月はつがるが出荷と、ひとつひとつの種類によって、出荷時期や作業が異なるし、当然、味や色も見分けることができる。より細かい概念によってコミュニケーションを行なっている。
都市住民であっても、脱サラしてりんご農家になれば、同じように細かい標本化・量子化を行なってコミュニケーションをするようになるでしょう。
1 離散的とは とは??
音素や音節が離散的であることについては、異論はないのですよね。
あります。異議あり!!
意味が分りません。
私の質問を読んでいただいておりますでしょうか?
「離散的」の意味を教えてください。
箇条書きにしないと分らなかった?
私は「ShinRai さんの云う離散的」の意味が分らないと言っているのになんで離散的であるかどうかの議論ができると思うのかな?
2 量子化とは とは?
量子化まで話を広げなくてもよかったんですが。。。
「標本化定理」の考えと似ていると思います。
また「たとえ」ですか?似ているだけで同じじゃないということですね?・・・同じなんですけどね、私たちの言葉では。その後のShinRai さんの認識とは違います。そういう意味では「たとえ」でしかないですね。
ふじ、つがる はりんごを構成する概念というよりは、りんごに関係はありますが新たな概念でしょう。りんごのサンプリング単位にはなりませんよ。「34ふじ」や「127つがる」でりんごが表せるわけではありません。
質問4:ShinRai さんの云う離散、離散化、離散状態、離散符号、離散値の意味をそれぞれ「離散」という言葉を使わずに説明してください。意味を教えてください。
質問5:電子工学のデジタルの意味は理解されていますか?yes/no
質問6:ShinRai さんの云う「離散的」は電子工学的デジタル処理で使われる「離散的」と同じである。yes/no
すみませんでした。
1 離散的とは、不連続である。
アナログのように連続していない。
音素でいうと、「あーいーうーえーお」の5つの母音以外には母音はない。これらの母音の間に母音は存在しない。中間値もない。
概念としても、「りんご」と「りんぱ」の間に、つながりはない。不連続が離散ではないでしょうか。
>ふじ、つがる はりんごを構成する概念というよりは、りんごに関係はありますが新たな概念でしょう。りんごのサンプリング単位にはなりませんよ。「34ふじ」や「127つがる」でりんごが表せるわけではありません。
でも、ふじやつがるで表現したものを「りんご」と呼ぶ人がいることは間違いないでしょう。
質問4:ShinRai さんの云う離散、離散化、離散状態、離散符号、離散値の意味をそれぞれ「離散」という言葉を使わずに説明してください。意味を教えてください。
離散とは不連続。中間に何もない。distinct や discreteに存在しているということです。
質問5:電子工学のデジタルの意味は理解されていますか?
yes
質問6:ShinRai さんの云う「離散的」は電子工学的デジタル処理で使われる「離散的」と同じである。
yes
これはちょっと飛躍しすぎですね。
電子工学におけるデジタルは、離散的うんぬん以前に二進法が大前提です。電子回路におけるデジタル信号には、電圧が高いか低いかの2つの状態しかないからです。
いくら人間の脳の構造が解明されていないからといって、「脳細胞や脳波が二進法で動作している」というのはさすがに無理があります。この証明は簡単です。もしシナプス間の信号をデジタル信号、シナプスを電子回路、脳細胞を半導体と同等の物だと言うのであれば、世の中のゲームオタクが使っているハイスペックのコンピュータは既に僕らの脳よりも優秀であり、言語を操り思考を行っていると言う事になってしまいますので。
電子工学におけるデジタルは、離散的うんぬん以前に二進法が大前提です。
違います。今の主流のデジタル回路が二進法で考えるほうが扱いやすいだけです。別に電圧0V、+3V、-3Vの3つの状態でロジック回路を組んでも問題ありません。
私の言葉の使い方が悪かったのかな?電子工学っていうとノイマン型コンピュータを思い浮かべちゃう?
アナログからデジタルへの変換と言うのは
アナログの量を離散的(=不連続)な数字で表すことです。
身長172.5cmという量を10cmのモノサシ17個分と表すことです。2進数がいいならそれでもいいですよ、モノサシ10001(2進数表記)個分です。
どこぞの土地の広さを後楽園球場50個分と表現するようなものです。どこぞの海水の量をビッグエッグ10杯分と表現するようなものです。
ああ、そんな回路もありましたね!
まあいずれにしろ脳細胞はx進法で動いてるわけじゃないので、いずれにしろ無理がありますよね~。
脳細胞はx進法で動いてるわけじゃないので、
私もそう思うんですけどねぇ。見たこと無いけど。
コンピュータ的な参照、比較は総当りで参照しないといけないから時間かかると思うけどな。
今まで動物的に動いていた人間が言語を導入してコンピュータ的な処理を始めたんなら脳の大改造が必要だと思うんだよね。OSの入れ替えどころかメイン基板の入れ替えでしょう。方式がまったく違う基板ね。
方式が違うんだから徐々に変化はできない。だれが入れ替えたのかな?神様?
質問4-6の回答が矛盾しないとは思わなかった。
音素のことは確立された事実ではないので説明に使えませんよ。
離散=不連続 了解です。
しかし、実際にどんなことをするのかはよく分らないです。
特に
離散状態、離散値
については?
りんごの不連続状況
→どんな状況でしょう?不連続であることに違いがあるのですか?
自分の中に確立している不連続値
→どんな値でしょう?
前の発言から意味が変わっているならば教えてください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%B8%E3%82%BF%E3%83%A...
デジタルとはアナログに対応する理論で、工業的には状態を示す量を数値化して処理(取得、蓄積、加工、伝送など)を行う方式のことである。
ということで、
データの数値化にあたっては量子化を行い、整数値(すなわちdigit)で表現する。このため、データ量を離散的な値として表現することになり小さい量に対しては誤差を持つ。
ですので、音素のデジタル処理を検証しましょう。
音素という量を整数値化しましょう。
私には音素を量で表す方法が分らないのですがどういう「量」を考えればいいですか?量を考えるには単位も必要ですよね?kgでもcmでも個でもいいですが何が単位になりますか?
hiko3karasuさん、
離散と数値化は別の事象ではないでしょうか。
体重を量ったり、歌をCDに録音するときには、標本化して数値化します。
しかし、「あーいーうーえーお」が離散しているというときに、それが数字になるのかというと、もちろんコンピュータ処理上は数字にして処理するでしょうが、数値化するしないにかかわらず、これらの母音は離散しているといえませんか。
果物といえば、「りんご」と「バナナ」しか概念を持たない人が、洋ナシを見たときに、「これは形はリンゴに似ているが、味はどちらかというとバナナだ」と表現するのではないでしょうか。あるいは「形も味も、リンゴでもなければ、バナナでもない」と。
これも概念が離散していることのあらわれだと思います。
数値化にこだわる必要はないと思いますよ。いかがですか。
まあ、この辺が噛み合わない大元なのでしょうね。
離散と数値化は別の事象ではないでしょうか。
そうなんですか?
質問6:ShinRai さんの云う「離散的」は電子工学的デジタル処理で使われる「離散的」と同じである。
yes
電子工学的デジタル処理で使われる「離散的」は量を表すための不連続な値である。
量子化と別の意味である「音素に分離すること」
に「離散」=「不連続」と云う言葉を使い、工学的な量子化を行わないのならば、ShinRai さんが云う「離散」は工学的なデジタル処理とは無関係な「離散」の意味で使用されている。
よって、言語は電子工学的デジタルでない。
デジタルの意味をもっと広義の「区別する」と言う意味でのデジタルならまだ可能性はあるのではないでしょうか。
言語は音素と言う不連続な値(離散値:デジタル)で構成されている。
ならばいいのでは?
類似性はあるかもしれませんが似ているだけです。
電子工学においては、数値化できない時点でアナログですからね。
数値化するロジックを思いつかないなら、電子工学に持ってくるな~~
と言ったところでしょうか。
電子工学に持ち込める=情報工学にも持ち込めるはず!
・・・マイクで喋った内容が勝手にプログラムに変換されたら楽なのに。あ、でもIT系のエンジニアは失業しちゃいますね。
hiko3karasuさんの質問にどうお答えすればいいのか、
帰り道、ちょっと違ったアングルで考えてみましたので、
書いてみます。
1 人間の言語は記号言語である。
我々の言語は記号である。記号を送って、受け取って、コミュニケーションが成り立っています。
どうしてそれが成り立つかというと、それぞれの人間の頭の中に、記号と意味の符号変換表(個別脳内辞書、シニフィアンとシニフィエの対照表)があって、みんなそれを瞬間瞬間に参照しながら、話したり、聞いたり、考えているのだと思います。
ここでシニフィアンとシニフィエのセット、記号と意味のセットになったものを、概念と呼びます。
2 概念は言葉がないと存在しえない
そうすると、我々は概念を参照しながら、コミュニケーションをしているのですが、概念というのは、アナログ的な連続するものではなくて、ある特定の記号・符号・シニフィアンに対して、脳内のイメージや体験記憶が結びついて存在しています。
つまり、言葉(記号、符号、シニフィアン)なくして概念なし。
フォニームという離散符号を組み合わせて作った言葉は離散的である。
離散的な言葉と同じように、概念も離散的である。言葉が離散事象であるように、概念も離散事象である。
3 言葉でものを考えるということは、概念を使って考えているということである。
それは、概念から外れたものを、考えに入れることができない。
う~~~ん、こんな感じのことを考えていました。
通じますか。
ますますわかりませんか。