したがって、コミュニケーションがうまく成立するためには、集団内部で信頼や共感があること、できるだけ言葉の意味や定義を共通化すること、誠実な心でできるだけ正しい言葉を使うことが求められる。
逆に、言葉の定義が不ぞろいなまま会話や議論をしたり、あるいは意図的に人を騙したり欺いたり、嘘をついたり、勘違いさせる表現を使うことは、人間の心を荒廃させ、言語に対する信用を失墜させ、人類社会を虚無的(ニヒル)な社会へと堕落させることになる。
今日の文明の閉塞感や社会の希望のなさは、言語に対する信頼が失われたためであるということもできるであろう。
皆様はどうお考えになりますか。
石牟礼道子さんの「苦海浄土 第二部 神々の村」の中に、ミツバチの話がでてきて、どうしてかなあと思ったのだけど、人類もミツバチや白蟻と同様に、狭い洞窟の中で、真社会性動物として、女性上位(卑弥呼みたいに)社会を形成していた時代があり、その頃は今ほど罪深くなかったのではないかと思いました。
altruism(利他主義)という言葉がありますが、真社会性動物の場合にはとくに個々人の利益よりも集団の利益を優先する傾向があるのではないでしょうか。
有史以来あるいは近代以降の人類がとくに利己主義的になったのであって、それは際限のない自然の破壊と略奪、植民地獲得・植民地経営によって、歯止めがきかなくなった。人類文明の終焉にむけてのラストスパートだったのかもしれない。
性善説か性悪説かと聞かれたら、僕は性善説を採りたいですね。人類も、大脳新皮質のズルい考えがなければ、野生動物とおなじ本能に支配された、ひたすら前向きな、善を生きることができる。
生命として生まれた以上、僕たちの心の奥底には善のきらめきがある。そう思います。
大脳新皮質の異常発達によって、人間は自らが善であることを忘れて、自分達を貶めているのではないでしょうか。
リチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」という本によると、
「自分を犠牲にして、血縁を助ける利他的行動は、少なくともそれを行う個体にとって損失以外の何物でもないが、その個体の遺伝子から見ると、利他的行動は得になると言うことである。したがって、個体が行っている利他的な行動というものは、実は遺伝子にとっては利己的な行動ということになる。」
らしい。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand/2989/selfish.html
http://www.amazon.co.jp/%E5%88%A9%E5%B7%B1%E7%9A%84%E3%81%AA%E9%...
今度は社会心理学もどきですね~。
では、まず存続しようとする過程では生命は必然的に利己主義にならなくてはいけないのではないかと個人的には思います。善意による助け合いも、結果的に何かしらの形で自分に利益があるわけで。
となると、生命の中でもずば抜けて賢い人間は、利用できる効率的な道具や手段は全て利用して、己が利するように仕組むのではないでしょうか。
言語がはじめて出来た頃は、コミュニケーションを円滑化させると意味合いで言語を使っていた。
そのうちにShinRaiさんがおっしゃったように「集団内部で信頼や共感」が生まれ言語への依存が強まると、当然人間はその言語を悪用して自分の利益を高めたり権威を誇示しようとするようになったから「意図的に人を騙したり欺いたり、嘘をついたり、勘違いさせる表現を使う」ようになった。
結果、「文明の閉塞感や社会の希望のなさ」を生じさせる一要因として現代社会に受け継がれてしまった。便利なものには、それに反する悪用法があるのはどんなテクノロジーでも同じですよね。