音声符号(記号)である言葉そのものは意味をもたない。聞き手や読み手は、自分たちの経験や知識にもとづいて、送られてきた符号を意味へと置き換え、意味を符号に置き換えているということです。
だから、聞き手や読み手が未経験、未体験の言葉を受け取っても、その言葉は正しい意味をもたらしようがない。
だとすると、「地球環境問題」という言葉は、あなたにとっていったいどのような意味を持っているでしょうか。
あるいは実はあなたにとってはまだ今の時点では意味を持っていないでしょうか。
ちなみに、ジャン・ボードリヤールは、消費社会において記号は意味を持たず、「意味するものの同語反復」という表層的な記号が記号のままで飛び交う状態を指摘していました。このような状態に近いでしょうか。
(おまけ:上の鈴木孝夫の意味論に対して、異論がある方はどうぞ。)
「環境問題の中で、広域に問題を及ぼすもの」と捉えます。
環境問題にぶつかった経験のない人はいないでしょう。環境問題の全体像を捉え切れなくても、部分は分かる。部分が分かれば、それが広域に問題を及ぼすか、どんなものが広域に問題を及ぼすかは想像できます。「地球環境問題」であれば、誰にとっても生きた言葉・表層だけでない言葉になりえます。
あと言葉は文脈で意味が限定されていって、生きた意味を持ちますから。どういう文脈で使われるかにかかってきます。
鈴木孝夫さんの意味論については、経験・体験がなくては正しい意味をもたらしようがないと言い切ることはできないと思います。やはり大抵の場合、言葉は文脈の中で使われます。その言葉の意味を知らなくても文脈から推測することができます。
聞き手や読み手は、(A)「自分たちの経験や知識にもとづいて、送られてきた符号を意味へと置き換え、意味を符号に置き換えている」のは確かですが、例えば耳が聞こえない人にラの音を説明することはできます。人は音に色を見ることができ、感情を喚起することができるので、その理解されることを伝えることで、完全ではありませんが、正しい意味をもたらすことができます。
経験についても、実際に自分が経験したことがなくても、例えば経験した人を観察することで、実際の経験の内容をかなり正確に想像・推測することもできます。知識についても、社会で暮らしてきた限り多くの部分を人と共有しているので、欠けているだけでまるっきりそれにまつわる知識がないということはありえません。
人間は思考し、予想することはできます。実際に環境悪化による弊害を経験したわけでなくても、地球環境問題について見聞きし考えることはできますのでまったく経験がないわけではありません。
もっとも考えたことと実際に経験したことが同じとは思えないのでそこの体験の差はあると思います。