音声符号(記号)である言葉そのものは意味をもたない。聞き手や読み手は、自分たちの経験や知識にもとづいて、送られてきた符号を意味へと置き換え、意味を符号に置き換えているということです。
だから、聞き手や読み手が未経験、未体験の言葉を受け取っても、その言葉は正しい意味をもたらしようがない。
だとすると、「地球環境問題」という言葉は、あなたにとっていったいどのような意味を持っているでしょうか。
あるいは実はあなたにとってはまだ今の時点では意味を持っていないでしょうか。
ちなみに、ジャン・ボードリヤールは、消費社会において記号は意味を持たず、「意味するものの同語反復」という表層的な記号が記号のままで飛び交う状態を指摘していました。このような状態に近いでしょうか。
(おまけ:上の鈴木孝夫の意味論に対して、異論がある方はどうぞ。)
たかが100年か200年というのは、近代以降に問題があるというお考えでしょうか。
近代以降、人間の破壊力は絶大となり、人口もこの200年間で60億人くらい増えているし、絶滅した動植物や昆虫の数も劇的に増加したといえるでしょう。
ただ、私は、必ずしも近代の問題と言い切れないのではないかと思っています。
7万5千年前に、ハダカ化し、ディジタルな言語を生み出して、ディジタルに思考することを始めた人類の思考・判断に内在するバグ(あるいはシステム欠陥)のようなもののために、人類は他の動植物を絶滅に追い込むと同時に、自らも絶滅させる方向で、地球環境を破壊しつつある。
このところは、とくに、そのように考えるようになりました。
自分たちだけが偉い、自分たちは神様の似姿である、といった考えを持ち始めた時点で、人類は滅びを運命づけられたといえないでしょうか。
出来うる限りの最善の対策とともに、覚悟して生きたいものですね。
人類よりもはるかに長い歴史を持つ地球のポテンシャルに期待して。
そして地球が人類を許してくれるのを期待したいと思います。
ニヒルですね。
たかが100年か200年くらいの間の変化です。いままで人類が直面したことがない状況です(たぶん)。技術によってもたらされた変化ですから新たな技術によって人間は適応していけるかもしれません。
あとは間に合うかどうか・・・・。
覚悟せよ。
誰を恨むでなく、絶望するでなく、動物のようにひたすら前向きに生きる気持ちをもちなさい。
余計な心配はしないで、ひたすら今、身近なものたちとの幸福を求めて生きていくほかはない。
ということですかね。
地球環境問題とは、これからますます劣悪な環境になるであろう地球における人類の、否定的な未来を表した言葉なんでしょうか。
覚悟しときなさいよって事なんでしょうか。
そうですねぇ、私も何が一番という問いに対する確たる答えをもっているわけではありませんが、とくに大きな問題として思えるのは、、、
1) 過剰開発による世界からの森林(自然林、天然林)の喪失。そこに住んでいた動物や昆虫や植物の絶滅。炭酸同化作用の減少と温暖化ガス増加。
2) 地球規模での海洋汚染。
カドミウム、すず、水銀などの重金属、PCB,ダイオキシンなどの有機化学物質、人間の排泄物、温排水、プラスチックごみの絶え間ない海洋中への河川や大気からの流入。
3) 温暖化による異常気象現象の増加。砂漠化の広がり。
などは、大きな問題ではないでしょうか。私自身も実感できていませんので、想像をふくらませてみました。
テレビ番組で見た程度の知識で知ったつもりになっている、漠然とした問題意識しかありません。
環境問題もいろいろとあると思うのですが、今は何が一番問題なのでしょう?
私にとっては、知っているつもりの地球と知っているつもりの環境に何らかの問題が発生しているんだな、という漠然とした問題意識が喚起されます。
ジャンが消費社会に重きを置きすぎている点に、抵抗を感じておられるようですね。
しかし、消費社会というのは、消費行動を超越して、消費そのものとは無縁に、現代社会のありようをいっていませんか。つまり現代社会において人類が言葉すら使い捨ての消費するだけで、消化しない、意味を求めないということも意味しているのではないでしょうか。
もう一点、「地球」は知っている(つもり)、「環境」は知っている(つもり)、「問題」は知っている(つもり)であるときに、「地球環境問題」を知っていることになりえるでしょうか。
記号的には、まったく別の意味を持ちうるということはありえないでしょうか。
言語、数字、文字、果ては縄目から象形文字まで。ありとあらゆるものがシニフィアンです。
ですから「シニフィアンとは何か」という点では、両者の見解に違いがあってはならないものです。
……ルーンの存在を知っている人は、そっちの方が感覚的に分りやすいかもしれません。
鈴木氏は「言葉(シニフィアン)の意味(シニフィエ)=文字の連続(=言葉,シニフィアン)に関連づいた経験や知識の総体」と定義しています。
ジャンは「記号(シニフィアン)は、意味(シニフィエ)を持ない」と述べながらも「意味するもの(シニフィエ)の同語反復は、表面的な記号が~」と記号性を示していて問題を抱えています。
つまりジャンが主張したいのは、消費社会の中では、これは例えばですが
「ペプシ(シニフィアン)が何かの意味を示している(シニフィエ)」のではなく
「炭酸のイメージ(シニフィエ)→ペプシ(シニフィアン)」「青のイメージ→ペプシ」「M.C.ハマーのイメージ→ペプシ」といと主張したいのに、そのシニフィエには当然シニフィアンが付きまとっているのでクタクタな表現になっているものであると私は認識してます。
(というか、シニフィエの同語反復という時点で言葉上の問題を抱えます。 シニフィエに対する「同語反復関係にある表面上の(個別認識に最低限必要な)シニフィアン」が正しい意図であると認識しています)
※ 私がジャンに、あまり良いイメージを抱いていないのは「消費社会」を強調するところにあったりします。 「固有名詞」と「普通名詞」とかで分けていれば、こんなツンデレしなくても良いのですが。
さて、話を戻して。
鈴木氏の考えでいくと「地球環境問題(シニフィアン)」とは
「地球(シニフィアン)とそのイメージ(シニフィエ)」+「環境(シニフィアン)とそのイメージ(シニフィエ)」+「問題(シニフィアン)とそのイメージ」で結びつく個々の経験や知識の総体(シニフィエ)ということになります。
その中の私が持ちえる経験や知識(つまり、地球環境問題の意味,イメージ。シニフィエ)は、
「地球→漠然としている」「環境→実害がないと認識しがたい」「問題→解答欄があって、回答がある」ということから
「地球環境問題」に対して「実害がないと漠然とした認識しか持てないが、誰一人として無回答で提出してはならないもの」というイメージがあります。
ジャンの考えでいくと「地球環境問題」という表面上のシニフィエには、
「地球」「(※)温暖化」というシニフィエとそのシフィニアン。
「オゾン」「(※)ホール」というシニフィエとそのシフィニアン。
「食糧」「(※)危機」というシニフィエとそのシフィニアン。
「(※)異常」「気象」というシニフィエとそのシフィニアン。
―― (※)は、マイナスイメージの言葉です。――といったように、
「危機を煽るイメージ(シニフィアン)」を持つシニフィエ達(意味するものの同語反復)を、かき集めて
「地球環境問題」あるいは「地球環境問題対策」という名を掲げたマーケット(消費社会)成長を遂げていると考えられます。
んで。私は、このジャンのロジックが現実社会に発生してしまっていると感じています。
そのロジックが成り立ってしまった原因は、私達個々が「地球環境問題」という言葉からイメージするものが
ハッキリとしていないという事にあるのではないかと考える次第です。
どうしたら改善するのかという問い自体が、もう時代遅れというか、遅すぎて意味を持たないというのが、私にとっての地球環境問題の意味です。
すでに終わっている
あとは滅びるのみ
考えに考えた結論がそれでした
このいわしやはてなの質問で何度も議論の対象にしてきたこととも関連があります。
地球環境問題とは、人類が自然を改造し、自然から略奪し、自然は無限であるとしてゴミをばらまいてきたことのツケだと思います。
自然の反対概念が文明であり、われわれの生活はすべて不自然。
われわれの人口が増えたことが不自然。
7万5千年前に、裸になって、デジタル言語を使い始めた人類のやってきたことは、大いなる勘違いと無知なるが故の暴力的自然破壊だった。
それはすでに後戻り不能なまでに地球環境を痛めつけている。
いわゆる成長の限界を超えてしまった。
われわれは、地球環境問題を、文明の原罪として素直に受け入れるしかない。
これからどんどんおかしくなる。異常気象、海洋汚染(海水、魚類など)、砂漠化、温暖化、そして穀物不足と大量飢餓。
そういう時代がやってくる。そのときになって、じたばた騒ぐな。
もうすべてが手遅れなのだ。
地球に対して、ほかの動植物たちに対して、人類がこれまで行ってきた破壊行為を謝罪して、ほそぼそと生きるか、淡々と滅ぶしかない時代がやってくるだろう。
と、こんな感じかなあ。
国家のエゴイズムと、企業の利益至上の活動は、たしかに地球環境を、いまでもさらに搾取の対象にしていますね。
搾取というのは、外部経済として収奪してくるということと、外部不経済として、ごみを環境に捨てていること。
それが、もうすでに絶望状態の地球環境を、もっともっと絶望的で、もう回復不能な状態においているという気はしますね。
その企業や国家の活動と、われわれの生活や意識、そしてわれわれにとっての地球環境問題の意味は、どのように結びつくでしょうか。
「地球環境問題」の解決を阻む要素の大きなものは、国家間の思惑の違いと、企業活動によるものではないかと思います。
人間は、組織や自分よりも上の人間の命令、またはその利益のためであれば、非道なことでも案外できてしまうものです。
「地球環境の保護」に異論を唱える個人は少ないでしょうが、国や企業という立場であれば、具体案に対して異論・反論も多々あるのではないでしょうか?
例えば、発展途上国からすれば、先進国はこれまでさんざん地球環境を汚染してきたのに、いまさら同じ条件をつきつけるのはズルイ!とか、企業であれば、全ての企業に同じ足かせをつけるという条件でなければ同意できないとか、あるいは補助が必要だとか、社会貢献度によって条件を緩和して欲しい..etc.といった具合に。
その理由として、パワーとしては非常に小さいからです。
では、環境問題の解決に繋がる根本的な対応があるかと言いうと存在しません。
何故なら答えはまだ出ていないから。
環境問題の“正しい意味”が必要十分条件だとも思いません。
なぜなら環境問題の解決というものは種によっても異なれば
同種の人間にとっても答えは1つではなく、
完全に解決した状態などありえないからです。
但し、確実に必要なのは環境問題“改善”のための行為と試行錯誤です。
ベストではなくベターを積み重ねることしか出来ないと思います。
禅問答みたいですみません
どんなかんじですか?(一言でなくてもかまいませんが)
“あなたにとって”に応えたのつもりですが、“そのもののもつ意味”とかみあいが悪いようで、また“あなたにとって”と問われているのですが、結局何を答えればいいんでしょう?
>ジャン・ボードリヤールの『記号』は、、音声符号(個人的には、音声波形と言いたい)とは完全に別物でしょう(便宜上、ジャン記号と呼びます)。
同じかもしれないとも思いますが、、、、、
地球環境問題について、真剣に考えていくと、ものすごい絶望に打ちひしがれるということはありませんか
また「ディジタルな言語」がでましたね。いまだこれには意義ありなんですが、まあ置いておいて。
ところでハダカ化ってなんですか?
現在問題になっている環境問題は産業革命以降の環境汚染の延長だと考えます。人類がグローバルな視点を持てなかったため自分たちのしていることがどのような影響を与えるか考え付かなかった時代です。
その前の人類は、どうにか動植物・自然の復元力を超えていなかったのではないかと思うのです。
他者からの搾取が当たり前である西洋的思考からの脱却が必要なのでは?
アジアは脱西洋、自然との協調を模索していくべきなのではないでしょうか?