もう何年も景気が安定せず、行き詰まっているように見えます。どんな原因があり、このような事態に陥ったのでしょうか。

それに対応するために、何をしていますか。(50代以上追試)

回答の条件
  • 途中経過を公開
  • 男性,女性
  • 50代,60代以上
  • 登録:2008/10/03 10:27:23
  • 終了:2008/10/04 11:56:46

回答(18 / 25件)

Q01行き詰まりの原因(択一)

自民党など政治がだらしないから7
東京一極集中で地方が疲弊した1
官僚が腐敗しているから4
大企業が利益を独占しているから0
若者がわがままでだらしないから3
個人主義が蔓延したから1
高齢化社会になったから1
新しい産業が育っていないから0
世界がグローバル化したから0
自分自身が怠けているから1
合計18

Q02行き詰まりへの対応(択一)

新しいスキルを獲得する6
投資をしている1
今の環境でまじめに働く2
東京や大都市に移住する東京に移住する0
政治や世論に働きかける0
大企業や儲け主義を制限するべき3
個人の自由を制限するべき1
政治がしっかりするべき4
いずれ回復するので特になにもしない0
悪くなると思うが特になにもしない1
合計18

集計

×
  • id:takokuro
    契丹、金一族、満州系のマッカツ一族による
    先年以上も前からの
    世界征服侵略が
    完結へと向かいつつあるという視点で・・

    彼らは、
    戦前は架橋を
    戦後は韓国民を
    移民させ、
    そこの国の政財界の乗っ取りと
    開戦を導いてきたように思える・・

    日本に来る前に、
    すでに中国、長戦半島内での争いがあり、
    その火種が日本にも押し寄せてきた・・??

    【胡】のその資本主義化を拡大することで
    格差を開き、
    結果、のっとり、搾取を合法的におこなってきたのに、
    最初?に気づいたのが・・

    ローマ帝国・・
    ・・・白人国では
       オランダ人を架橋やコリアン・タウンの人々のように扱い、
       ローマも、彼らの卑怯、卑劣を何とも思わない手口に
       崩れていく・・

    かわって出てきたのが、
    カトリックの
     ポルトガル宣教師団・・
     スペイン貿易商は
     オランダ人商人に飲み込まれてるし、

    さすがの大英帝国歓待も、
    実際の所は・・
    マフィアの残忍さと裏を使う行動力などの教えを仕込まれたオランダ にはお手上げのようだ・・・A
     なお・・アウグスティノ会が奉じる?アウグスティヌスは
     実は生物兵器の麦火症を
     彼の修道院?教会?で撒く?広げていたような不自然さがある・・
     映画の「ロバート・デニーロのミッション」も
     ポルトガル宣教師の活動を
     スペインが抑え込んでるようなことを言っていたような気がする・・

    いつも循環的に不況が来てバブルがくるサイクルが繰り返されてるが、
     それは、
     大自然の四季とは違い、
     地球上の資本主義化と占領支配が進められて、
     どんどん!民衆が
     不利になって、
     追い詰められて言ってると言うことのように
     思えませんか?

     つまり・・
     非民主主義化されていって、
    しかも!
     競争の過激化で
     地球環境がどんどん、悪化させられて、
     地球の寿命を縮めて行ってる・・??

    その黒幕は・・
    時代により、
    グループでターゲット国を分かちて、
    互いに競争させ、不毛な経済競争(勝つためだけの経済活動、つまり・・
    民衆への還元のない競争・・つまり・・地球上の資源の無駄遣い、酷使?)をさせて、
    最終的には、
    戦争で
    殺し合いをさせ、
    しかも、戦争債権の借金を
    後世の者に負担させている・・??

    なお・・
    彼らの先年以上同じ目的の下で命を削るには
    民族間で互いに暗黙の確認をできるような
    パターンを共有している・・とすると・・
    哲学では二元論をディベート術でもっとも有効に利用する術を心得てる
    被害者になって相手を攻撃する
    (自分らが隠れ場所として人を近づけなかったのに、
     差別されていたというなど・・??)
    拝火教(当初の拝火教を善悪逆転し、
     人の心を悪魔へ持っていく方へ利用し、
     世界中の宗教でカルト化して混在し、人心を荒らす・・
     例)神宮教・・神宮寺・・
     元々、

    神功女帝、
    夫の仲哀帝や兄弟が
    胡が暴れ回ってる朝鮮半島へ
    日本へ入ってこないように
    また、穏やかな生活を共有してきた隣国に援軍しに出かけていて、
    内政、留守を守っている。。
    夫の支援をするために、
    朝鮮半島に臨む河内に拠点を作り、
    住吉浜から
    大和の男子が海を渡っていく
    祈祷師の卑弥呼は
    殺されてしまう
    彼らは、
    占領すると歴史を改竄するために
    わざと、よく似た紛らわしい名前を自分たちにつける・・
    成りすまし(倭人?)
    成りすまし男の卑弥呼がいたという・・
    卑弥呼に決して服せず、
    乗っ取りを計画している・・

    なお・・
    明治期に伊勢神宮で歴史改竄されたために
    天皇の名前は
    本来の名前とは変えられ、
    意味のある言葉を当てられてるのも多い?・

    しかし、契丹らの仲間の五胡と協力する漢一族も
    日本へ入ってきて、
    応神帝になり、
    子の仁徳帝は
    大変な土木工事をして、
    自然とともに社会を築いて穏やかに生活していたのに、

    大型工事を始める・・
    また、
    天を畏れない巨大な構築物を作り出す・・
    奴隷に近い民が出てくる・・
    他の契丹の仲間は、
    五胡のいくつかの部族は
    印度にも手を伸ばし始め僧を送ってる?
    こうして・・
    暫く、
    胡の部族らが
    日本の帝の争奪戦になってるが・・
    まだ、海を隔ててるので、
    百済国よりも随分に平穏である・・

    とうとう!百済の聖王が殺され、
    そのひ孫の聖徳太子が
    大切な跡継ぎとして
    自分を蘇いで
    尽くす蘇我氏を側近に?
    日本の推古女帝の下に疎開してくる
    胡らは
    大変、言葉を巧みに使い、
    法を自分たちに都合良く作り、
    歴史を改竄して
    これまで
    多くの国になりすますことで
    崩壊させ、
    自分らが元々の国民であるように乗っ取る・・

    ということで、
    蘇我氏と聖徳太子は
    推古女帝に
    天皇記と日本史の編纂を提案し、
    聖徳太子、大慌てで作り、
    しかも法もつくり
    大変に野蛮な胡らは
    日本の神道のように
    大自然をそのまま仰ぎ奉るのでは
    バカにして、
    土木工事をどんどん始めて自分たちの得手勝手な町を造ってしまう・・

    だから、
    現、四天王寺のところに
    港を移し、回り込むようにして、
    建築技術を見せつける四天王寺を
    そこに建て、
    胡らを威嚇した方がいい・・
    で・・四天王寺は外務省の役割をして、
    すぐさま、
    大和の中心地まで入ってこれないようにする
    (でも・・
    祖父が昔言ってたのは、
    奈良への道を案内するのに
    大きな道を
    なめられないように?造ろうとして、
    あまりに大変で、
    途中で止めたという言い伝えがあるそうです・・??)

    ここで、
    確認しておかねばならないことは・・・
    そもそも・・
    聖徳太子は
    神道を守るためのお寺を日本に建てたと言うことです・・

    胡が日本へ入り込んできたときの
    対応場所として、
    神聖な御所?をうっかり荒らされてはならないので、
    日本を乗っ取るために、
    たてたのではない・・

    そして・・
    これは個人的希望なのですが・・
    聖徳太子の建てた百済のお寺には、、
    最初は仏像など擬人化された信仰対象となるようなものはなかった、、
    もしくは、あったとしても
    ペルシャでの
    拝火教ゾロアスターの本来の哲学のもとでできた仏教と言うことで
    優しかった・・
    (仁王、や地獄を想像させるような恐い像ではなかった?)

    子供時分、大抵、お寺のお線香の香りをすると
    おなかが痛くなったものですが
    唐時代のお寺には
    人為性を樹木にも強要した庭造りなど、
    権威、力の見せつけ?
    煩悩が蠢いてるようで
    私には本能的に落ち着かなかったが、

    まれに親しみが持てたお寺には
    子供時分から、
    あまり人が通らない所までくるくる、見て回り、
    「百済」と書かれてる石があったりするので、
    何となく、百済の言葉も親しんでる
    本当の日本の神道と同じ価値観を共有してるのを感じます・・?

    が・・

    支那勢力が日本で権力を持ち始めると・・
    日本の神道が
    人間には神を期待せず、
    ともに大自然という神が作った中で
    動物とともに共生する人間観があり、

    大自然の理が神の掟であり、
    その意向を伺いを立てるのが天皇という神職で
    決して!
    人間の都合で、
    大自然の理を壊すようなことはしない・・

    それが支那勢力には不満で、
    何とか、自分たちを神として崇めさせ、
    搾取し尽くそうと・・?
    日本の神道を
    駆逐しようとするが、
    難しいので、
    変質させていく。。。」??

    明治以前までは
    伊勢神宮のややお寺的な哲学など
    伊勢講とかいわれていたようで、
    祖母が母にぽろっとこぼした一言を考えると
    朝廷とは随分格下のいわゆるカルト扱いとして
    江戸期には見なされていたのではないだろうか??・・??

    事実、明治期には、
    日本のファシズムのリーダー養成所みたいな
    皇學館が作られたり、
    朱色の神社カラーは
    胡に傀儡されてた朱一族のシンボルではないだろうか??
    朱子学だったか元々は軍事学だとか
    祖父がいってたようなきがする・・??(勘違いかもしれない)

    ともかく、中国朝鮮アジア大陸の歴史は
    闘争の二千年だったから
    漢人のような
    商才?損得二元論を得意として、
    ディベート術達者でな支那勢力がそだったのではないだろうか??

    彼らが訴えてきた歴史観が実態とが違うのでは?と思える点のひとつ・・
    実際は英イングランドではなく、
    英スコットランドが協力するオランダが
    支那勢力の言いなりになって、
    実際の植民地での略奪、搾取はひどかった??
    マフィアと同じに野蛮で、
    拝火教の悪魔的な解釈に共通する、
    火あぶり・・・フランスの魔女裁判、長崎での処刑、、
           日本の五右衛門風呂もそこから由来してるのではにか?

    名付けは明治期に改竄されたのか
    金一族の完顔の允恭(ⅴ世宗の子?約、600年後だが)とからませて
    日本にも允恭帝を400年代に名づけているが
    昔から、契丹らが常套手段にする
    この時期に
    公務員?官僚らの氏姓の人事クーデターがある

    姓氏の人事クーデター歴史改竄?
    のっとり?

    また、
    一種の魔女裁判で?、
    それまでの官僚?を罪に落とし居入れ、
    追放するのに
    盟神探湯クカタチ(迷信?占い?)という
    いかにも胡らしい、残忍で卑劣な方法をつかっている・・

    なにやら・・
    小泉政権福田幹事長のあとの
    安倍幹事長から始まった諸事件とにている・・・??

    姓氏の混乱をまねく
    クカ苦果・・・(悪行の果報→罪)
    タチ探湯→断ち→断定?
    支那契丹哲学の二元論カルトに冒された?伊勢神宮のカルト神道で
    人事クーデターを起こすための
    神明裁判(劇薬?熱湯?に手をつけさせ正悪を決する裁判??)
    売り文句=神明に横道なし?(実は反対?)
    神になることで
    やりたい放題しようというわけ・・
    搾取のし放題、
    搾取出来なくなると
    戦争を起こさせ、
    その国の民を戦死させ、
    後世の若者に
    戦争債権の負債を押しつけて、
    また搾取するというシステム??



    1620(元和6):平山常陳事件:以後、各藩もキリシタン弾圧方向へ向かう
           英蘭の船隊が
           日本で禁じられてる
           2名のキリスト教宣教師の密航を理由に
           マニラ出航の日本へ向かう朱印船(船長:平山常陳)を
       台湾近海で拿捕し、
            英平戸商館へ連れてきて・・・
       国際法上の処置として積荷(生糸、砂糖)を没収、
           常陳は『海賊行為』として長崎奉行に訴え出、
       スペイン商人に扮したペドロ・デ・スニガ(宣教師アウグスティノ会)、
    ルイス・フロレス(ドミニコ会)は
           松浦隆信(平戸藩主)、末次平三(長崎代官)、長谷川権六(長崎奉行)が
    取調
    二人は商人として訴えるが、
    英商館長のRコックス、欄商館長のヤックス・スペックスが
            証人を連れ対抗し
    スペイン・ポルトガルvs英蘭の日本の主権争いへと発展
    調査は2年間に亘り、過酷な拷問、証言により
    二人はついに自白
    1622年8/19:長崎で平山常陳、スニガ、フローレス3名は火あぶり、
    船員12名は斬首
            9月:キリシタンの疑いがかけられた長谷川権六(長崎奉行)が
    長崎の宣教師や信徒など教会関係者55名が一斉に処刑(元和の大殉教)
       三浦按針、平戸で病没したとされている・・?亡命?
          (ウィリアム・アダムス57 
           英西アルマダの戦い(1588)の英海フランシス・ドレーク配下の貨物補給船船長、
           翌年、軍をはなれ結婚し、
           バーバリー商会ロンドン会社の航海士船長として








    朝鮮半島の
    楽浪、帯方を援軍に出かけるが、
    滅ぼされ、



    隣国
    367:古墳時代、おつき合いしていた百済から
       「胡」らが国を荒らし内紛、テロ事件が絶えない、
       周辺国も攻め込まれ、
       助けて!
       とやってくる
       王子を預かる
       のちの契丹ら胡のグループは
       ササン朝ペルシャなどへも
       得意の騎馬と船をつかい、イランにまで出かけ
       軍師、貿易商人、として活躍・・?






  • id:takokuro
    なお・・サブプライムと
    歴史上からみて、
    支那資本の世界征服の一端として見る視点から
    今回、名前の出た李氏リーマンやゴールドマン金氏、
    シャラトンホテルが伊勢資本に関連する都ホテルを乗っ取ってること、
    日本に食料や資源の供給をストップさせ、
    結果、外へ求めに行かざるを得なくなって
    戦争せざるを得ない状況にまで
    兵糧攻めと、
    資源責めをし、
    しかも・・
    日露開戦の戦争費用を用立てた
    米人?クーンの名は

    実は東印度会社総督の蘭・クーンとも同じ名前です・・
    このクーンが如何に英人に対して驚異であったか?

    家康が厚遇したウイリアム・按針が
    病死したqと言うことになってるが
    逃げ帰ってる?のからも推察できる・・??
    バタヴィアでの残虐リンチ・・

    長崎の英コックスも同じく
    蘭商館長の顔色を相当に怖れている・・
    正真正銘の海賊ヤロウだったのでは??

    って・・視点です・・以下資料 ウィキなどより

    HSBCがたくさんの移民ブームにつけこみ
    韓国移民、アジア移民らが住宅資金を借り、起こしている?

    サブプライム問題

    米銀行・・・
    ①ゴールドマン・サックスや
    ②シティグループ、
    ③モルガン・スタンレー、
    ④リーマン・ブラザーズ、
        アジア方面への投資が目立つ。
        日本との関係で有名なことは、
        15C末:スペインが米大陸発見以来、植民地を開き、
           約1世紀間、欧州最大の強国となる
    1510:ポルトガル、ゴアに拠点を置く
    1512:ポルトガルのアントニオ・ダブリウがアンボイナ島に進出して以来、
           アンボイナ島の香料はポルトガルが独占 ~1599
    1516:ポルトガル、広東に至る
    1517:ルターの似非宗教改革(cf:ルター著『告白』)
    1518:ツウィングリ、宗教改革を唱う
    1519:マゼラン一行の世界周航 ~22
    1520:喫丹?一族に工策されたタタール、明に侵入
    1526:バベム、ムガール帝国、建設
    1529:王陽明(59)、即位?
    1530:ポルトガル、インド政庁をゴアに移す
    1532:マキャベリ著「君主論」
       ピサロ、ペルー征服(インカ帝国滅亡)
    1534:支那勢力のもとで英スコットランド?、首長令、公布
           支那勢力のもとでイエズス会(耶蘇教)、創立される
        1541:カルヴィンの宗教改革
    1543(天文12):コペルニクスの地動説
       支那商人、似非ポルトガル商人を日本へ中国製鉄砲3丁を手土産に
           種子島に到来し、
       元々、鄭和らが日本人と結婚し所帯を持ち、
    支那密貿易、時として祖国中国へ回族攻撃をしたり
    中国での時刻奪還の拠点としていた部落・
    長崎深江浦(支那人漁村)に商人に扮したポルトガル宣教師?はやってくる
    将軍?朝廷?権力者への仲介を頼む(鉄砲伝来記を調べると寺が実は軍事拠点であったことも見えてくる!)
           インド航路発見、東洋のゴア・マラッカを根拠
           鉄砲伝来はじめ、南蛮貿易をしていたが、
         イギリスに抑えられ、衰徴するものの鎖国まで続く
        1547:遣明使、僧の周良、発遣され、
    明が大変に支那勢力らに襲われて苦境にあることを知り、
    勘合貿易船、終える
    1549:スペインのザビエル宣教師、
           天主教(キリスト教のカルト。似非カトリック?)、布教
    1550:平戸にポルトガル商船が来航
    1555:支那勢力に率いられる倭寇
       (前期倭寇とはリーダーと主要メンバーが支那人という点で違う組織になってる)、
           明を襲い、南京安定門を焼き、
           周辺一帯に4500人虐殺
    1556:明の使として、鄭舜功、豊後に来る
    1559:大友宗麟(義鎮)、豊後府中を外国との交易に開港
    1561:平戸での貿易(南蛮貿易)を許可され、平戸ポルトガル商館が建設
    1567:ポルトガル船、長崎来航
    1568:信長、足利義昭を奉じ、入京
    1569:信長、宣教師・ルイス・フロイスと謁見
        1570:1543年来、ポルトガル宣教師が初来し育っているキリシタン信者の
           長崎深江浦(支那人漁村?)で新たに開港し、
           そこにポルトガル商館を建てることを
           幕府に要請
       また、日本で布教活動を許されていたイエズス会も
           長崎の一部に領地を得、
           貿易港長崎はかつてなく発展
           雑賀鉄砲衆(600余丁)の鈴木佐太夫、
           摂津で★三好三人衆に信長と戦かわせ、
           佐々成政を負傷させるが、
    信長も利休とポルトガルのカトリック勢力に援助され、
    果敢に戦う。。
    信長を打ち倒すために、
    宗教問題にテーマをすり替え、
           根来衆のリーダー本願寺顕如に
           耶蘇教が仏教を制圧する危機に話をすり替え説得し、
    根来衆に自分たちの加勢をさせ、
    以後、自分は黒幕にいて、
    顕如に信長征伐を指示し(摂津国の石山本願寺戦争)、
    石山本願寺に雑賀鉄砲隊を援軍として繰り出している
    摂津国・・・鶴見・生野・平野・東住吉区・堺市堺区と北区・高槻市・豊能町、兵庫県東灘区・灘区・中央区・兵庫区・長田区・神戸市須磨区
    三国ヶ丘・・・三国山(摂津と河内と和泉の国境)
           難波津(平安京では奈仁波路とよばれる)
       M3:和泉国と摂津国との堺を大和川に変えている
    このときが、雑賀衆の頭・鈴木家(鈴木佐大夫(祈祷師らに従う身分の低い神職)のはじまり・・渡来一世?
    紀伊の畠山氏を三好氏にゆさぶらせ、内紛をおこさせ、
    それを解決する者として鈴木佐太夫が畠山氏に入り込み、
    それで鉄砲隊で武勇を知らしめ、
    傭兵として各国の大名を渡り歩く・・
       信長、ポルトガル人と連携する千利休らの武器力/軍事支援で
           支那勢力の浅井長政を近江姉川の戦でやぶり、
           千利休(51)、
           日本では秀吉に賢妻・ネネ(不妊?シスター?)を与え
           秀吉に信長を軍事力で支援させる
           アジアでのローマ帝哲学(社会民主主義)の後継の
           ポルトガル勢力と日本の政権とを結びつけ、
    支那勢力が日本を占領しようとしているのに攻防させようと
           日本の政権との連絡パイプのある直轄領として
           長崎奉行を設置させる
           他方、支那資本に毒されたスペインは、
           ルソン島やフィリピンを占領
    1571:信長、
           豊かな京の民に米を貸し、
    その利潤を足利義昭に?供御に充てる
        1573(天正元):信長、ポルトガル&千利休の支援により、
           支那資本に冒された浅井/朝倉氏らの室町幕府を倒幕
    1575:信長、三河長篠の戦いで、
           利休が堺で用立てた鉄砲隊で支那勢力の武田勝頼を討つ
           利休:武野紹鷗ジョウオウ(カモメ)の弟子として侘茶を完成
           紹鷗:もともと武田一族だったが、
              支那勢力により隠居させられ、
              泉州堺の納屋衆のひとりとして武野氏を名乗る
              一閑居士、別名、大黒庵(支那から渡来した七福神の布袋さん信仰を            暗に否定?揶揄し、黒く塗った大黒さんを飾っていたのを
                江戸期中期以降、
                一向宗、雑賀衆ら支那勢力が
                金満家の神様(“大国”主命を“大黒”に当てこすり)として
                すり替え、
                打ち出の小槌とともにお宮さんや祠に置き散らした)
      (悪徳商人、黒幕が『大黒屋』として時代劇で登場する由縁)
              紹鷗自身は、宗祖?の珠光が中国製の金襴緞子や贅をこらした遊興の茶道とともに、
              政治的な陰謀・・贅で質実剛健の政から心が逸れる子とを学び??
    その極意を利休に伝えた??
    1576:信長、安土城に入城し、内大臣
    1577:石田三成(近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)生まれ)、秀吉の小姓(秘書)となる
       信長、右大臣に就任し、その権限で、
       紀伊の鉄砲衆・雑賀(現、和歌山・伊勢勢力?紀伊国雑賀サイガ村の一向一揆)
           制圧に10万近い大軍で繰り出し、
           
           雑賀三組(中組・社家・南郷)が自分たちの頭の鈴木佐太夫の地位をのっとろうと
           信長につき、
    佐太夫の居城の中野城に道案内をし、
    陥落させると、
    鈴木佐太夫に信長は裏切り者はすぐに裏切るというので雑賀三組を始末するという約束で
    命はとりとめたが、
    裏切り者三組を成敗した後、
    石山本願寺・根来衆と協力して
    信長に再び反旗を翻す・・(支那勢力には裏切りは常套手段?
    見せかけの仲直りや降伏に騙されるナ!日本人!!)
           雑賀城・・・鈴木重意(佐太夫1511~85 代々、孫一。渡来一世)の城で、
              妙見山上、現、「妙見堂」が建つ丘山上北側の「千畳敷」にあった
        1580:信長、
           ローマ哲学の民主制に通じる平等と民主主義の哲学による
           ポルトガル宣教師らの交渉力と、
           カトリック哲学の清貧と相通じる侘茶、平等の利休の武器手配力により
    信長は本願寺顕如と和議を結び、
           やっとのことで、
           有力支那勢力の雑賀衆の鈴木佐太夫を降伏させる・・
    (が・・宣教師の立っての意向で佐太夫は命拾いする)

       雑賀党内で、
       あくまで自分たちの使命である日本侵略を主張する土橋守重らを
           ポルトガル宣教師により入信した?鈴木佐太夫が抑え、
    仲間内で抗争がおこる
    1582:織田軍による紀伊制圧はほぼ成し遂げられようとしていたが
          6/2、本能寺の変で
       雑賀衆や根来衆が??
    秘書として送っていた美女が、
    利休(60)の還暦で殆ど彼女が采配し始め・・??
    支那勢力のやり口を熟知しているポルトガル宣教師がついてる
    信長ではなく、
    志が低い秀吉をボスに立て、
    女や贅を与えた方が懐柔しやすいというので
           お福の一族の光秀に本能寺を攻めさせ、
       信長を討つことで
           雑賀党が再び解き放たれ、力を回復し、割拠しはじめる
           一方、雑賀鉄砲衆の中のカトリック信者を
       日本侵略勢力として懐柔するのに
           真のカトリック哲学を継承するポルトガル宣教師らではなく、
           支那世界侵略勢力に協力するスペインの宣教師派遣を依頼するのに・・
           大友宗麟、
           有馬晴信、
    大村純忠が
    ローマ教皇グレゴリウスⅩⅢへ
    天正遣欧使節(正使:伊東マンショ、千々石ミゲルら。8年後、帰国)を送る名目で、
    贋造の天正小判をつくり?(支那勢力の金細工師、プロシャではコイン作りをユダヤ政商に教える。この時の日本では偽金作り?)、
    貢ぎ物に大枚をはたき、
    支那政商に傀儡されてるスペイン王・フィリップⅡに謁見し、
    似非カトリック宣教師の派遣を依頼?
    1583:賤ヶ岳の戦い:石田三成、柴田勝家軍の動向を探る偵察行動を担当
       豊臣秀次も武功
        1584:小牧・長久手の戦いでは、
       豊臣秀次、三河別働奇襲隊の総指揮をとるが、
           逆に、家康軍の奇襲にあい、惨敗し
       甥の池田恒興、森長可を失い、命からがら敗走し
       秀吉から叱責を受け、豊臣ではなく羽柴秀次と名乗る
           鈴木佐太夫鉄砲隊は
       茶屋四郎次郎初代の指示により、徳川家康に味方
           すでに支那水軍?貿易商人らと口裏を合わせている
           スペインの指示により、
           フィリピン商船、平戸来航、以後、スペインと国交があり、
    17Cにはやがてはマニラに成りすまし日本人の日本人町ができ、
    武器商人らの取引拠点でもある
                  
        1585:豊臣秀次、
          紀伊雑賀攻め、四国征伐で軍功をあげ、
          43万石になり、近江八幡で、田中吉政の重用し善政『水争い』裁き 
          利休の妾が
          羽柴秀吉(豊臣)に利休の詞?として伝えられ
          朝鮮半島から連れ帰った大軍により
          信長&ポルトガルら民主主義勢力の方に翻った
          雑賀鉄砲衆の鈴木佐太夫らの雑賀衆の紀伊征伐で
          鈴木佐太夫(重意)は、遂に重意は秀吉に降伏するが、
    裏切り者は消される掟通り?
    秀吉の命ということで、
    藤堂高虎が重意(75)を粉河にて処刑?
    木下秀俊(小早川秀秋、高台院ねねの兄の子)、羽柴秀吉に養子入り
    1587:秀吉ら本願寺がキリスト教調査を下報告書では・・・
    キリシタン信徒数15万、教会堂200超、
    1588:スペイン無敵艦隊、敗滅
    1589:羽柴秀俊(小早川秀秋、高台院ねねの兄の子)、
           豊臣秀勝(秀吉の姉の子)が病死?暗殺?され、
           その旧領地・丹波亀山10万石を与えられる
    1591:利休(千宗易71)、死
       秀吉、原田孫七郎にフィリピンへ書を持たせ、
       入貢を促す
       秀吉の嫡男・鶴松が死去し、羽柴秀次、秀吉の養子入り
      12月:羽柴秀次(秀吉の姉の子、父=尾張犬山城主、のち★阿波三好を名乗る)、秀吉の後継者として、豊臣姓を贈られ、
         関白職を継ぐ
    1592:伊達政宗、
    秀吉の文禄の役(朝鮮に亡命中の支那勢力を数万人日本へ連れ帰る)
    秀吉、朱印船制度
    マニラ近郊のディラオに成りすまし日本人町(実は支那貿易商)、建設
       文禄・慶長の役:~98  
    明>秀吉vs李氏朝鮮(1374:李氏、高麗の恭王=元資本で育てられるが
          元の衰退で、排元政策をとる:胡服弁髪令廃止、)を殺害
    明vs元(この頃の倭寇はすでに鄭一族に支配されている、胡服弁髪)
       朝鮮半島最後の王朝、1392、高麗の臣下李氏が李氏が倭寇を制圧し、高麗王位を乗っ取る。李氏vs鄭氏)
      弁髪・・・
       満州系(前頭部をそり、後頭部を三つ編み):
         女真族、清朝スタート(1644)
    Ⅲ清皇帝(順治帝)の実権者・摂政:ドルゴン、
      漢民族同志、敵味方を明確にして互いに戦わせるために
      弁髪令を強要
    漢族の信仰する儒教では
    身を傷つけること(弁髪、ピアス等々)は不孝タブーで反対したが
    清朝は死刑で処し、(19c半、太平天国らキリスト教系長髪族への弾圧)
    19C、中国の文化として定着
    契丹(頭頂だけを残す)
       モンゴル(両側頭部を残す):漢民族が、
          中国北部・西部の遊牧民を「胡」(あごひげが長い人)と卑しむ
        胡・・・
      春秋時代(BC770=周の幽王が犬戎・鄭の武公に殺され洛邑(成周)へ遷都~BC403)    
      戦国時代(BC403=晋の家臣のが韓・魏・趙が正式に諸侯として認められる、つまり晋が3国に分裂~BC221=秦による統一 
                   or BC453=韓・魏・趙が知氏を滅ぼして独立諸侯としての実質を得た時~BC221
               or BC481=『春秋』の記述が「獲麟」(麒麟を獲た)の記述で終了説アリ 冬?唐の台頭?):
              内モンゴルの塞外民族を指す(→北狄)
              麒麟・・・獣類の長  cf:鳳凰=鳥類の長 ≠キリン、          「四霊」:亀、龍、鳳凰、麒麟
    明の鄭和の南海遠征の際、
    分遣隊が到達したアフリカ東岸諸国から
    実在の動物のキリンが永楽帝に献上
    普段の性質は非常に穏やかで優しく、
    足元の虫や植物を踏むことさえ恐れるほど殺生を嫌う
    神聖な幻の動物と考えられ
    1000年を生き、その鳴声は音階に一致し、
    歩いた跡は正確な円になり、
    曲がる時は直角に曲がるという
    罠にもかからず、
                     仁のある王政であらわれる神聖な瑞獣とされる
          秦漢朝:匈奴を指す
    春秋期より、内モンゴル≒胡(匈奴)の東にいた
          東胡(ツングースとモンゴル(orチュルク)の混血、
                東胡の後裔=烏桓、鮮卑、契丹
          唐代:シルクロードの往来が活発になり
              「西胡」といわれ、
               西方のペルシャ系民族(ソグド人)を指す
               トルキスタンから唐土に運んだ文物、風俗を
               「胡風趣味」として愛好され、
               胡服、胡笛、胡舞など中国の一文化として根付く
    ?1593:千宗室、利休を懐柔?していた後妻が、
       利休の正妻とその子を暗殺し、
       自分の息子二人に表と裏として茶道を開かせる
    1594:秀吉の命にて、
       羽柴秀俊(小早川秀秋)、小早川隆景に養子入りし
       小早川家に入り秀秋と改名
    1595:豊臣秀次事件に連座し
       小早川秀秋、
       丹波亀山を没収され
       同年、養父・隆景が隠居し、
       その領地・筑前、筑後・肥前の一部30万7000石を継承し、
       筑前名島城主となった
    1596:スペイン船サン・フェリペ号、土佐に漂着   
    1598:6/24、司令官のヤックス・マフの指令で
           ロッテルダムから極東に向け
           三浦按針(英ウィリアム・アダムス)、弟トマスとともに5艘で出港
          10?月:伏見城で秀吉、死去
    豊臣軍のなかの武断派(朝鮮出兵など支那勢力)vs文治派殿対立が表面化
    1599:蘭ファン・ワールワイク、
       インドネシア・モルッカ諸島南方のセラム島の南西の
       アンボイナ島(クローブ香辛料)から
       ポルトガル勢を駆逐
    17C初頭:マニラに日本人町(実は支那人の成りすまし日本人)ができ、
           武器商人、千利休の死後、
           茶屋四郎次郎が家康に武器を与え、
           天下を取らせ、江戸幕府を開かせ、
           正式にフィリピン総督(スペイン官僚)と「国家間として」親交を結ばせ、
           貿易を招致させている
           (民衆が貿易してかつてローマ帝哲学が目指し、
            それを後継したはずのカトリック勢力(社会民主主義哲学?現、社民ではない!)が
           日本の古墳時代より脈々と遺伝子!に寄ってではなく
    政治哲学として伝承されてる神道(=大自然の理に従った中での
    人間文化の便利さを全生物、全自然創造物のリーダーとして
    民主主義的に地球環境を温存して長持ちさせる)に
    出会い、
    また、世界的社会民主主義が復活し初めてはならじと
    賢い世界を洞察する能力にも長けてしかも社会民主主義哲学を
    信念としている家康に、
    妥協して・・?
    名義上のカトリック勢力国家(実際は支那勢力に傀儡)のスペインとだけ
    貿易をさせる
    (つまり・・・当時の真のカトリック哲学後継者のポルトガル勢力を遠ざけるのが目的)
    ここで、
    茶屋四郎次郎は、
    表向きの外交と
    実態外交との使い分けをし、
    支那勢力の競合が日本へ現れると
    鎖国令のお札でもって平戸、長崎奉行らに撤退させることで
    日本の外交をコントロールするシステムをつくる?
           それでも・・
           家康は、
           綿取引で支那政商らに搾取されてるメキシコとも
           連絡を取った形跡が残っている?
           Nor・・茶屋四郎次郎が
              家康の名において
              綿取引でメキシコとの貿易を切り出し、
              搾取?(綿・・・絹/麻時代にとって、化繊のような便利な品物?)       ★小田原征伐で伊達政宗(天正元/1590:利休とともに秀吉の下で

    1600:4/19、英、東インド会社、設立(実際は、支那人に導かれて蘭の方が先に制圧?)
       4/29:蘭「ロッテルダム貿易会社」のリーフデ号、豊後の臼杵に到着
       臼杵城主太田一吉の出した小舟でようやく日本に上陸
           太田は長崎奉行の寺沢広高に通報。
           寺沢は英水先案内人・三浦按針(アダムズ。造船技術もあり)らを拘束し、       船内に積まれていた大砲や火縄銃、弾薬といった武器を没収したのち、
           大坂城の豊臣秀頼に指示を仰いでるの間に、
           イエズス会の宣教師達は、アフリカ等でも繰り返された支那勢力が黒幕にいる
           蘭・英ユダヤ政商らによる組織的な侵略の徹底性を恐れ、
           欄リーフデ号乗組員の即刻処刑を要求し怯える
           結局、茶屋四郎次郎がコンサルタントしている五大老首座の徳川家康の指示で、
           重体で身動きの取れない船長ヤコブ・クワッケルナックに代わり、
           アダムスとヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン、メルキオール・ファン・サントフォールトらを大坂に護送し、
           併せて船も回航させ、
           5/12、家康(実際には)茶屋四郎次郎の手配の者が通訳)に謁見:
       イエズス会士の注進でリーフデ号を海賊船だと思い込んでいた家康は、
           アダムスとヤン=ヨーステンから、
           路程や航海の目的、
           蘭英など新教国とポルトガル・スペインら旧教国との紛争の説明をきく。
           しばらくの投獄あと、執拗に処刑を要求する宣教師らを黙殺し、
           家康は、幾度かにわたって引見を繰り返したのちに釈放し、
           茶屋四郎次郎の勧めで、城地である江戸に招き、
           アダムスが帰国を願い出たが、
           日本の情報漏えいを用心し、 
           vip捕虜として米や俸給を与えて慰留させ、
           外国使節との対面や外交交渉に際し通訳、助言をさせ、
           この時期に、幾何学や数学、航海術などの知識を
           家康以下の幕閣に授けさせる
           アダムスは、
           イエズス会カトリック勢力の宣教師らの命がけの(聖戦?!資本主義勢力との)攻防での
           団結力の危険性を強調して家康に伝え、
       ポルトガル、スペインの社会民主主義哲学のカトリック勢力が
           日本に入り込んで、
           信長の時のように
           支那勢力と協力する自分たちの世界征服の妨げにならないように
           遠ざけるようと説得していく。。
         支那勢力に従う蘭(1582、スペインより独立)は、
           共和国の英スコットランドのマセソンに
           イングランド文化のお茶と陶器の大陸続きの生産地である中国を
           東インド会社側からも囲んで、
           ともに制圧し、
           利益を上げようと
    支那勢力に傀儡されてる蘭は
    英スコットランドのマセソンが、
    中国を制圧するのを、
           支那勢力がすでに日本に潜入し勢力をもってる蘭は
           日本から英スコットランドのマセソンの中国侵略を
           援護射撃するという協力関係を結ぶ
        10/21:美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)で関ヶ原の戦い
       表向きは・・家康(東)vs毛利輝元(総大将)、宇喜多秀家(副将)、石田三成(西)
       武器商人・茶屋四郎次郎、
           支那系成りすまし工策員、伊達政宗に
           関ヶ原、夏の陣で
       家康側に功労をたてさせたかどで、
           家康に仙台62万石を配領させ、大名として取り上げさせる
    1601:ルソン長官グスマン、家康に呈書
    1602:蘭東インド会社(インドネシア)、設立
           (英スコットランドの東インド会社が本店で、
            支那勢力と親交が古い蘭東インド会社が支店として
           大国中国を南から侵略する手始め。。
    三浦按針、
    帰国を諦めつつあって、
    日本橋大伝馬町の名主、家康の御用商人でもあった馬込勘解由の娘、
           お雪(マリア)と結婚し、
           息子ジョゼフと娘スザンナが生まれている
           ヤン=ヨーステンも江戸の丸の内に邸を貰い、
           日本人と結婚(屋敷あとが東京・八重洲の語源)
           東南アジア方面での朱印船貿易を担当し、
    1604:やがて江戸湾に係留されていた
           リーフデ号が沈没すると、
           三浦按針のかつてとった杵柄?船大工として
           西洋式の帆船の建造を要請され、
           受け入れざるを得なくなり、
           伊東で日本初の造船ドックを設け80tの帆船を完成
           長崎に訳官を設置:
           茶屋四郎次郎、
           家康に江戸幕府として、
           内外貿易船に朱印状を下附することで
           支那勢力のコントロールの中で貿易を始めさせる
       福井藩、松苗を植え付ける
           白糸(生糸)輸入法、制定
    1605:2月、インドネシアのアンボイナ島(香辛料)に
             蘭、ニュー・ヴィクトリア砦を構築し支配権を確立
    1606:駿府に銀座をおく
    1607:出羽院内の銀山を開く
           家康は三浦按針に、
           大型船・120tの船舶の建造を完成させる
           相模国三浦郡逸見に幕府より所領を認められ、帰化させる
    1608:伏見の銀座を鏡に移す:永楽銭の流通を停止
    1609:金1両=銀50匁=銭4貫文
           朝鮮以外は、イスパニアも、ポルトガルも全て長崎漁港までだが、
           蘭だけは、その熱心さのあまり、平戸商館設立を許可するが、
           東インド会社日本支店?出張所?としての足場を築き、
           日本国内での商業権を勝ち取るが、
           連携している英国までもが
           勝手にその権利に乗じるというけじめの無さが
           英皇室が関与せずに、
           支那資本と連携したスコットランド政商らが
           日本へ英国使節として土足で踏み込んでいたことが類推できる?
           主体は金一族ら契丹らの勢力?
           (国家統率歴のある皇帝や王室を通さずに、
            ユダヤ政商らが勝手に国家の名を借りて、
            民民感覚で、取引交渉をしている故の節度の無さ??)
            幕府内でも次第にオランダへの不信感が募ってくる
        1610:足尾銅山、発見
           房総の御宿海岸で遭難し地元民に救助された前フィリピン総督ロドリゴ・デ・ビベロに
          家康は120tの船(サン・ブエナ・ベントゥーラ号)を貸し出す
          この功績を賞した家康は、
          アダムスを250石取旗本に取り立て、帯刀を許し、
          相模国逸見(へみ)に采地も与える
    1612:駿府の金座を江戸に移す
    1613:伊達政宗、
           支倉常長ハセクラを
       政宗の正使としてローマ皇帝謁見に出す名目で
    支那政商に操られてるスペイン王・国王フィリップⅢに
    謁見し、
    日本を資本主義化して占領するために、
    スペインの似非宣教師を日本へ送るよう要請、or工策の算段にいくが、
    反対に、フィリップⅢは支那工策員と見破り
    説得できず?
    Nor・・
    途中、カトリック勢力がそれを防ぎ??
    2年後、帰国している
    1613:リチャード・コックス(1566~1624、ステュアート朝イングランドの貿易商人。スタフォードシャー州・ストールブロックの人。江戸時代初期に
       日本の平戸の英商館長(カピタン)、
       東インド会社によって日本に派遣され
       家康の外交顧問・イングランド人のウィリアム・アダムス(三浦按針)の仲介により
       家康に謁見し貿易の許可を得て、
       平戸に商館を建てて初代の商館長に就任
    1615:インドネシアの香辛料権益を独占し高騰させ暴利をむさぼる蘭に、
           英は果敢にインドネシア香辛料市場に挑み、激しく競争(アンボイナ島)
           遠江に松杉檜ぼ造林がはじまる
       平戸において、
       三浦按針が琉球から持ち帰ったサツマイモを
           英キャピタンのコックス、九州以北で最初に栽培
       御朱印船を限定
        1616:英欄商人の商業権も否定し、
           商船入港を長崎平戸に限定
       英キャピタン・コックス、征夷大将軍・秀忠に朱印状更新を求めるため江戸に参府
       たばこの栽培、禁止
    1617:英王ジェームズⅠの家康宛ての親書を献上するため
       伏見で秀忠に謁見したが、
       返書は得られず、
           この頃から蘭による英船隊への攻撃が激しくなり、
    1618:蘭による英船隊への攻撃の非法を訴えるため
           Rコックス、2度めの江戸参府を行う ~1619              
    1619:Rコックス、伏見滞在中の秀忠を訪問(蘭による非法行為を制止要請)
       英蘭政府は、インドネシアのアンボイナ島の香辛料権益の協定を結ぶが
           蘭現地当局は無視し→バタヴィア事件
    香料貿易は今後両国が共同で行い、
    利益分配は、蘭2/3、英1/3
    今後の征服地は両国で折半
       蘭領東インド会社、バタヴィア建設設立
           英支那?ヤン・ヨーステン、シャム(タイ)、コーチ支那で貿易に携わり、
           日本の情報を報告
           帰国しようと
           バタヴィア(インドネシア首都ジャカルタのジャワ島西部の北岸の
                 蘭植民地時代の名称:古くはジャヤカルタ、ジャカトラ)に渡る
                   ↓
           支那独裁資本主義勢力に対抗してきたローマ帝に代表される
           カトリック哲学(社会民主主義?but not現、社民)の後継者である
           ポルトガル海上勢力が
           スペイン・カトリックが政商らに買収されることから
    宣教師らの多くの命をかけた活動が水泡とされ・・
           支那資本(現、韓と現、日本の山口系公明勢力?)により支配される
           蘭東インド会社の攻勢により没落
           蘭と連携するスコットランド資本が支配する英・東インド会社は
           東アジアや東南アジアから撤退し、
           インド経営・統治に専念
       蘭支那系成りすまし日本人により、日本人町が形成・・
             タイのアユタヤ日本人町
             カンボジアのプノンペン日本人町、
             インドネシアのアンボイナ島にも成りすまし日本人が
             蘭の傭兵としてテロ活動
        1619(元和5):独占主義残忍なヤン・ピーテルスゾーン・クーン(蘭)、
            東インド(ネシア)会社のⅣ東インド総督に就任、 ~23年
           クーンは、バンテン王国からバタヴィア(ジャカルタ、ジャワ島西部)を占領
           (ジャワカレー・・英インド支配とともにインド人らがジャワで作る?)
           堅固な要塞バタヴィア城を築き、
           バタヴィアは蘭東インド会社の日本やタイ交易の本拠地とし、
           当時、無主の台湾を占拠し、
           対中国貿易拠点とする
           南アジアのセイロン島で宣教活動をしていたポルトガル人を追い払い、
           
       徳川秀忠によるキリシタン禁令の高札設置
       などの度重なるキリスト教の禁止
    1620(元和6):平山常陳事件:以後、各藩もキリシタン弾圧方向へ向かう
           英蘭の船隊が
           日本で禁じられてる2名のキリスト教宣教師の密航を理由に
           マニラ出航の日本へ向かう朱印船(船長:平山常陳)を
       台湾近海で拿捕し、
           英平戸商館へ連れてきて・・・
       国際法上の処置として積荷(生糸、砂糖)を没収、
           常陳は『海賊行為』として長崎奉行に訴え出、
    スペイン商人に扮したペドロ・デ・スニガ(宣教師アウグスティノ会)、
    ルイス・フロレス(ドミニコ会)は
            松浦隆信(平戸藩主)、末次平三(長崎代官)、長谷川権六(長崎奉行)が
    取調
    二人は商人として訴えるが、
    英商館長のRコックス、欄商館長のヤックス・スペックスが
            証人を連れ対抗し
    スペイン・ポルトガルvs英蘭の日本の主権争いへと発展
    調査は2年間に亘り、過酷な拷問、証言により
    二人はついに自白
    1622年8/19:長崎で平山常陳、スニガ、フローレス3名は火あぶり、
    船員12名は斬首
            9月:キリシタンの疑いがかけられた長谷川権六(長崎奉行)が
    長崎の宣教師や信徒など教会関係者55名が一斉に処刑(元和の大殉教)
       三浦按針、平戸で病没したとされている・・?亡命?
          (ウィリアム・アダムス57 
           英西アルマダの戦い(1588)の英海フランシス・ドレーク配下の貨物補給船船長、
           翌年、軍をはなれ結婚し、
           バーバリー商会ロンドン会社の航海士船長として
           北方航路やアフリカ航海で蘭商人と親交) 
        1623(元和9):2/23夜、
      蘭の東インド総督・ヤン・ピーテルスゾーン・クーンが敷くんだ事件・・
          東インド貿易の蘭独占を主張
      インドネシア・アンボイナ島の蘭傭兵・七蔵(支那系成りすまし日本人?)が
      衛兵らに、壁の構造や兵の数についてしきりに尋ね、
          これに不審感をもった蘭当局が、
          七蔵を拘束して拷問にかけ、
          イギリスが砦の占領を計画しているとヤラセ自白?
      直ちに英商館長ガブリエル・タワーソンら30余名を捕らえ
          火責め、水責め、四肢の切断などの凄惨な拷問を加え、
          これを認めさせた
          3/9:当局はタワーソンをはじめ英人10名、
          成りすまし日本人9名、
          ポルトガル人1名を斬首し、
          同島におけるイギリス勢力を撤廃し完全独占する
           江戸幕府としてフィリピン、ポルトガル人の交通も日本在住も禁止、
       朱印船のマニラ渡航の禁止
           英国もオランダに割り込むのを諦め、
           英平戸商館を閉館するにいたる
    つまり・・個人資本主義で世界征服を狙う支那勢力と
    連携している蘭以外の
    ローマ帝国が目指した社会民主主義哲学が根付くカトリック信仰が
    育ってる先進諸国とは
    一切、外港を封鎖させられる
           ヤン=ヨーステン、
           バタヴィアから再び日本へ帰還中、乗船していた船が
           インドシナで座礁し溺死したとされ、
           日本へは戻ってこない
       アンボン虐殺事件を機に英商館の閉鎖がきまり
           Rコックス、帰国途中、翌年、船上で病死、暗殺?
       アンボイナ事件・・・
    1623、モルッカ諸島アンボイナ島(アンボン島)の英商館を    
    蘭が襲い、商館員を全員殺害
                以後、英香辛料貿易は頓挫し、
    蘭が同島の権益を独占し、
                英は東南アジアから撤退し、
                インドにターゲットする
        1624:仏、リシュリューの執政 ~42
        1625:蘭総督・マウリッツ・ファン・ナッサウ(オラニエ公)、ハーグで暗殺 58才
           ハーグ・・・1974:日本赤軍が蘭の仏大使館を占拠
    1626:ユダヤ政商らと支那勢力の茶屋四郎次郎は、
           政権者に
           彼ら資本主義勢力が敵対している
           カトリック勢力を日本の政権者に近づけないために、
           キリスト教信仰の団結力などの怖さや
           恐ろしい侵略熱を刷り込み、
           踏み絵や見せしめの厳罰、
           宗門人別帳出の管理をさせ、
           徹底した禁教管理をさせる       
           (日本人の感覚では・・
            実際に極悪非道の罪を犯さない前に、     
            命あるものへの厳罰をこころよしとせず、
            「江戸内追放」や「島流し」など目の前から消えれば良しとする
            自然任せの文化がある・・
    異常に人為性が極限にまで追求される契丹らの哲学では
    残忍なまでの徹底した完全壊滅を求め、
    他方、同族には異常に甘い文化が
    社会を醜くしている??
     (例、セレブやマフィア、山口系義仁哲学?日本の勝新太郎や高橋英樹らの渡世人とは相反する美学!?)
    蘭、米にニュー・アムステルダム植民地、建設
    英フランシス・ベーコン、暗殺(65)

        1627:ヤン・ピーテルスゾーン・クーン(蘭)、再任  ~29年
           バンテン王国からジャワ島西部ジャカルタを占領し、
           要塞バタヴィア城を築き
           蘭・東インド会社アジア本陣とし、
           支那資本の水軍通じ、
           様々な国の医師や宣教師(ザビエル?)を使い、         
           また日本やタイとの交易も手がけ、
           中国に拠点をもつことは認められなかったが、
           当時無主の地であった台湾を占拠し、対中貿易の拠点とした
           南アジアでは主としてセイロン島のポルトガル人を追い払い、島を支配。
           ユダヤ政商得意の話法で、
           世界でのカトリック世界での
           スペインvsポルトガルの争奪戦、攻防を
           幕府に恐怖感を植え付けるように話し、
           素朴で未知な日本人をそのまま信じ込ませ、
           カトリックの侵略勢力から日本を守ってやると言うことで
           支那勢力工策員の茶屋四郎次郎の圧力もあり、
           家康に、
           カトリック・ポルトガルとの貿易を断念させ、
           欧州諸国として唯一蘭だけが、
           鎖国下の日本で、長崎出島での交易を認められる
         クーン・・・
           えげつない!守銭奴資本主義哲学?の支那系海賊一族(現、韓)と協力し
           日本に戦争債務を課して
       自分が債権者として暴権力を振るうために
           日本を兵糧と燃料責めで   
           日露戦争に踏み込まざるを得ない極限状況にまで経済的に追い詰め、
           クーン・ローブが戦争債権を用立て、
           戦後、自分たちが債権者として
           支那守銭奴(山口系、公明一味?)らとともに
           働き者の日本人を債務者として思う存分!搾取搾り取ろうとする
           リーマン・ブラザーズ、
           クーン・ローブを吸収し
    リーマン(支那系リー李氏?)兄弟が日本の債権者となって
    守銭奴取り立てをしている??
    それを在日、山口系が安倍期にのっとった野村證券が投資して
    支援金を送っている??
     1627:シャー・ジャハーン、ムガール帝国の王権確立  ~58、
         1631:海外渡航には朱印状だけでなく、
            老中の奉書も必要となる(奉書船制度)
         1633:奉書船以外は
            海外渡航も帰国も禁止することで、
            外国人や外国居住者らの密航による浸入を厳重にし、厳罰に処す           (支那勢力が日本を独占侵略するための制度を公布させる)
     1634:幕府はポルトガル人を移すための埋立地の出島を
            貿易で潤ってる豪商らに作らせる
     1635:同胞で異国観が薄弱?朝鮮以外は、奉書船も禁止し、
            長崎だけ外国船に開港
     1636:再度、海外渡航禁止を公布し、
            さらに長崎に出島を築き、
            長崎に居たポルトガル人をここへ移し、
            日本人との間にできた子女は、原則として!外国人として
            ポルトガル人に帰属させ、国外追放と警告し、
            婚姻や姻戚関係になることに圧力を掛ける。。
         1637:島原の乱   
              




    追い払い、
      



       
    古くは、リーマン・ブラザーズに統合される前のクーン・ローブが日露戦争の戦費調達のための日本国債を引き受けたことである。
    1844:ヘンリー・リーマン(23)、
    独バイエルン王国リンパーの町から渡米、移民し、
            アラバマ州モンゴメリーで日用品店「H.リーマン商店」を開いた
           バイエルン王国・・・首都=ミュンヘン
    1180~:バイエルンがヴィッテルスバッハ一族の領地となる
    ハプスブルク家のモットー・・・「戦争せずに結婚で領土を増やせ」
    墺マクシミリアンⅠの例
        1477:ネーデルランド(ベルギー、蘭、ルクセンブルク)領主の
       ブルゴーニュ公シャルル突進公が
               ナンシーで陣没し、
               ブルゴーニュ国内では貴族が混乱に乗じ、権利の拡大を画策し
               フランスの侵攻も目の当たりにし
    大混乱に陥る
    8/19:シャルル公の娘マリーは、孤立無援で
    婚約者だったマクシミリアンⅠと結婚(=救援)
    1482年3月:公国内の有力貴族の陰謀で
       マリーは落馬し、子供たちが15才までは夫を後継人として、
       相続人の遺言して亡くなる
    が、貴族らは4才の息子を擁立させ、反乱を起こし、
    マクシミリアンⅠは、仏ルイⅩⅠの手下に幽閉され、
    事実上の敗北を認めさせられ、
    ブルゴーニュ公退位を余儀なくされ、
    彼の2才の娘マルグリットも
    仏王太子シャルル(のちのシャルルⅧ)と婚約させられ、
    フランスで養育されることとなる
    1486:ローマ王(父帝・フリードリッヒⅢが
            中央集権化をドイツ語民族総体レベルで推進するために「ドイツ国民の」と、既に形容している神聖ローマ帝国の後継者)として選出される。
       自らの歩兵部隊を
    南独から傭兵を募り、
      スイス式の装備と訓練とを施し「ランツクネヒト」を正式に歩兵部隊として編成
      こうして騎士の時代がおわる
    1493:父の死に伴いマクシミリアンⅠ、
               神聖ローマ皇帝に選出され、
               ローマで教皇による戴冠なしの初めての皇帝。
               ミラノ公国のスフォルツァ家の公女ビアンカと再婚し、
               イタリア進出を図ったが、
               仏王シャルルⅧの野心が引き起こしたイタリア戦争に
               巻き込まれることとなる
    1495:ヴォルムスにて帝国議会を召集。
               イタリア戦争のための戦争資金が不足し、
               マクシミリアンⅠは諸侯に援助を要請するが、
               マインツ大司教(選帝侯)ヘネベルクほか諸侯は
               帝国と皇帝権力の分離を要求し、妥協を余儀なくされ、
               永久国内平和令発布、
               帝国最高法院、
               帝国統治院の設置、
               帝国議会の整備などの内政改革が行われる
               以後、神聖ローマ帝国は
              中央集権的ではなく
              領邦国家の連合としての道を歩むことになる
    1496:2人の子フィリップ美公と
               マルグリットを、
               スペイン王家と二重結婚させ、
               仏シャルルを封じようとする
            1508:マクシミリアンⅠ(ハプスブルグ家の墺大公、神聖ローマ皇帝(在位:1493~1519)、
               教皇に戴冠されることなく
               皇帝を称す
               以降選帝侯に選出された者が皇帝となるようになった
               母=エレオノーレ
                 (交易で栄えるポルトガル王家(ドゥアルテⅠの娘)
       父=陰気なフリードリヒⅢ
    1511:マクシミリアンⅠ、教皇主導の対仏同盟、神聖同盟を結成
    1512:「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」という言葉を使用し、
               神聖ローマ帝国の版図が
               もはやドイツ語圏及びその周辺に限られること、
               世界帝国の建設という目的の放棄を明確にする
            1513:マクシミリアンⅠ、
               ヴェネツィア共和国に抗し、
               イングランド王ヘンリーⅧと連合し、
               ギーンガトの戦いでフランスを撃破。ブリュッセルで講和
    1515:ウィーン会議でヤゲロー家との二重結婚を決定し、
    孫フェルディナントⅠに始まる
                ハプスブルク君主国の成立を方向づける
                神聖ローマ帝国が弱体化する一方、
                ハプスブルク家は隆盛を極めることになる
    1519:マクシミリアンⅠ、ヴェルスで病没。
    インスブルックの宮廷教会内に霊廟を準備していたが、
                24,000グルデンの借金を理由に滞在を拒否され
                遺言により遺体は
                母エレオノーレが眠るヴィーナーノイシュタットの
                聖ゲオルク教会に埋葬
                心臓だけは
                ブルッヘの聖母教会にある最愛の妻マリーの墓に共に埋葬

    1690:韓国支那資本系?バークレイズ、
                ロンドンに設立
    欧、米、中東、ラテン米、豪、アジア、アフリカに営業拠点
    総資産高は
    イギリス国内で本拠を置く金融グループでの総資産高では
      HSBC、ロイヤルバンク・オブ・スコットランドに次ぎ3位
    サッカー・・プレミアリーグの冠スポンサー
    1806:バイエルン選帝侯としてはマクシミリアンⅣ(50)、
               選帝侯に即位
               (神聖ローマ帝国の皇帝or独王の選挙権がある諸侯)
               神聖ローマ帝国が崩壊すると、
               ナポレオン・ボナパルトにより
               周辺の領土を併合し、
               王国として昇格され、
               初代マクシミリアンⅠとして
               ライン同盟の一員となる
        1815:バイエルン王国、
               プファルツを回収、併合し
               ドイツ連邦に参加。
               ドイツ帝国が成立する際にも、
               王国は維持したまま帝国の1領邦となる
    1850:ドイツ系ユダヤ系移民・ヘンリー、エマニュエル、マイヤーの
           リーマン兄弟、リーマン・ブラザーズを創立
    1850:独系ユダヤ人の兄弟・ヘンリー、弟のエマニュエルとメイヤーが
           相次ぎ移民して来て、
           年に店名をリーマン兄弟商会(リーマン・ブラザーズ)に変更
       当時、米・南部では綿花生産が盛んで、
           兄弟は客から支払いで現金の代わりに綿花の現物を受け入れ
           綿花取引に経営の重点を移し、
           当時綿花取引の中心となりつつあったニューヨークにも事務所を構えた。
       ヘンリー・ウェルズ(ウェルズ・ファーゴの創設者)と
           ウィリアム・ファーゴ、
           ジョン・バターフィールドの3人によって
           アメリカン・エキスプレス、創立
    1855:長兄ヘンリー没。
           残ったエマニュエルとメイヤーが経営を引き継ぎ、
       南北戦争で南部連合が敗戦した後は、
           アラバマ州の復興を資金面で支えた。
           間もなく本部をニューヨークへ移転
         1870:ニューヨーク綿花取引所が開設され、
           リーマンもこれに協力、
           エマニュエル、同取引所の取締役  ~1884年まで
           この頃、リーマンは鉄道建設債券市場に参入し、
           現在の主力業務でもある金融アドバイザリーを開始
     1875(M8):江華島事件
     1876:日朝修好条規を始め、
            米、仏の欧米諸国と不平等条約を結ぶことになった
            朝鮮国内で清との宗属関係を脱し
    近代化派vs清との宗属関係維持派に分かれ、対立
     1879年1/7:蘭王・ヴィレムⅢ、エンマと再婚
            前年、デンマーク王女ティーラに振られ、
            エンマの姉の
     1882:アメックス、
            世界で初めて郵便為替業務を開始し金融業に参入
     1882(M15):壬午事変 
            日本と清はこれを鎮圧出兵、日本と清の対立は決定的
     1887:ニューヨーク証券取引所の会員になる
     1890:蘭王ヴィレムⅢ、死去
            前妻との3人の王子はみな夭折し
            後妻のエンマ(ヴァルデック侯ゲオルク・ヴィクトルの四女)の
            娘ヴィルヘルミナ王女(10)が女王に即位
            その間の摂政は母エンマ王太后
         1891:アメックス、
            世界初のトラベラーズ・チェックを発行
     1894(M27)7月:日清戦争
     1899:同社初の社債の引受け(International Steam Pump Company):
            フィリップ(創業者エマニュエルの息子。2代目社長)、
            ゴールドマン・サックス(GS)との提携を進め、
            GSとともに20年間で100社以上の社債を引き受ける
     1901:蘭女王・メクレンブルク公ハインリヒと婚姻
    内田良平、黒竜会、結成
    福沢諭吉(68)没
    中江兆民(55西園寺のコンサルタントのひとり)
     1905:Ⅱ日韓協約で  Ⅰ桂太郎内閣
            退官帝国から外交権を接収
    (皇帝高宗が密使事件を起こすが蘭につぶされる)
     1907(M40):6月~10/18ハーグ密使事件: Ⅰ西園寺(山縣有朋)
               大韓帝国(1897~1910、李氏朝鮮)蘭ハーグで開催されていた           Ⅱ万国平和会議に
               密使を送り、
               自国の外交権保護を訴えるが
               国際社会から完全に拒絶
    議長    = 露ネリドフ
            日本の出席者=
    都築馨六(井上馨の娘婿)
    佐藤愛麿(蘭公使・娘婿の尚武を養子にする)
    秋山好古(陸軍軍事委員・中将)騎兵の第一人者
                島村速雄(   〃  ・少将))日露戦でⅡ戦隊司令
                高石真五郎(大阪毎日新聞)、
               連日、特派員電として現地情勢を伝え
               日本人としてただ一人、密使と面会
    7/14:密使の一人・李儁(前平理院検事)、ハーグにて客死
               当時の大韓帝国の新聞は
       李儁の死を自決と伝えたが、
       頬にできた腫瘍の手術が原因で死亡??毒物?



    Ⅰ万国平和会議(1899)の条約を追認・改定し、
            毒ガス・ダムダム弾などの使用禁止や、
            捕虜の人道的な取り扱いを定める
            日本は1911年11月に批准
     1909:蘭女王、ユリアナを出産
  • id:webees
    おつかれさまです。凄いですね。

    かなり長文なので要約版などがあれば助かりますね。

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