以前ネットで、二宮尊徳(いわゆる二宮金次郎)の言葉に、
「道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である」
というのがある、と読み、いたく感銘を受けた……のですが。
よくよく考えると、どうも江戸時代にしては近代的すぎる言葉のような気がします。
ググってみると、「犯罪→罪悪・罪」「寝言→戯れ言」など、いくつかのバージョンがあるらしく、段々疑わしく思えてきました。
事実であれば、原典は二宮金次郎のこれこれの書簡にあり、元の言葉遣いはこうである……といったことをご教示ください。
事実でないようなら、「この伝記に載っている」といったようなことを教えていただければと思います。
(「このサイトに引用されてる」という例はすでにたくさん見ましたので不要ですが、「これがネット上の初出である」という情報であればありがたく思います)
よろしくお願いします。
http://www.jmca.net/books/ninomiya/ad.php?&id=53
「道徳を忘れた経済は罪悪であり、経済を忘れた道徳は寝言である」幕末の大実践家、二宮尊徳珠玉の言行録、遂に現代語訳なる。
どうもこの本が出典のようです。
ただし、この本、「大日本報徳社副社長村松敬司氏が現代の経営者向けに大胆な編み変えを行い、全281話にまとめた」
http://www.ryousyo1000.com/72_49.html
というもののようで、下記URLで原文が読める「二宮翁夜話」には、それらしき言葉は見あたりません。もしかしたら、村松敬司氏によるかなり大胆な意訳なのかもしれません。
probatio diabolica ~ 誤用・混用・孫引・乱用 ~
福沢諭吉が“economy→経済”と翻訳・造語したのは、二宮尊徳の没
後十年です。その思想を継承した渋沢栄一が「道徳と経済」を対比し、
何かの折に語った可能性はあるかもしれません。
しかし、ガンジー暗殺21年後に発行された《切手 1969》によれば、
《Quoted by Mahatma Gandhi in "Young India", 1925》七ヶ条の五番
目に“道徳なき商業 Commerece without Morality”とあります。
つまり、この表現は、諭吉の没後24年後なので、あるいは渋沢栄一
が見知って引用した可能性もなくはないでしょう。
よって、二宮尊徳が「道徳なき経済」と述べた可能性は皆無でしょう。
二宮 尊徳 農学 17870904 相模 18561117 69 /天明 7.0723~安政 3.1020/通称=金次郎
福沢 諭吉 啓蒙 18350110 大坂 東京 19010203 68 /天保 5.1212~《西洋事情 1866》
渋沢 栄一 実業 18400316 埼玉 東京 19311111 91 /天保11.0213~“日本資本主義の父”
Gandhi, Mahatma 18691002 Indea 19480130 78 /ガンディー“非暴力・不服従”
── 七つの社会的罪 Seven Social Sins
1. 理念なき政治 Politics without Principles
2. 労働なき富 Wealth without Work
3. 良心なき快楽 Pleasure without Conscience
4. 人格なき学識 Knowledge without Character
5. 道徳なき商業 Commerece without Morality
6. 人間性なき科学 Science without Humanity
7. 献身なき信仰 Worship without Sacrifice
http://www1.fctv.ne.jp/~masala/mahatma.html
切手でつづるマハトマ・ガンジー(碑文より)
たぶん、誰かが最初に誤って混用し、誰もが気づかないまま、延々と
孫引き、コピペされ続けたのでしょう。アダム・スミスの「見えざる手」
のように、無邪気な論客たちが、われがちに乱用したものと思われます。
Smith, Adam 17230605 England 17900717 67 /~《国富論,17760309》
── 《道徳感情論 The Theory of Moral Sentiments, 1759》
http://q.hatena.ne.jp/1200599977#a795652
回答ありがとうございます。
悪魔の証明にはならないように(「事実でないことの証明をしてください」とは書かないように)心がけたつもりだったのですが、それでもそう指摘されたのは残念です。
「最も強い者が生き残るのではなく、 最も賢い者が生き延びるのでもない。唯一生き残るのは変化に適応した者である」(偽チャールズ・ダーウィン)
「私はあなたの意見には全く賛成しないが、あなたがその意見を述べる権利は死んでも守るだろう」(偽ヴォルテール)
「パンがないならブリオッシュを食べればいいじゃないの」(偽マリー・アントワネット)
など、本人の言でないことが確実視されている「名言」は色々ありますから、仮に事実でなかったとしても、その証明は不可能ではないかな、と考えました。
ご指摘の通り、「経済」など、明治期に翻訳で生まれたとおぼしき語が多いな、というのが、疑念を抱いたきっかけでした。
福沢諭吉の翻訳なのですね。なるほど。
(「“経済”とは、仏教の“経世済民”……世を經(おさ)め、民を濟(すく)う……に由来する」というのも、それはそれで印象的なトリビアですね)
「渋沢栄一」という具体的な人名を挙げられたについては、何か氏がそのようなことを語った・書いた事実があるのでしょうか?それとも純粋な憶測でしょうか?
ガンジーの「道徳なき商業」は、確かによく似ていますが、他の6つの「罪」が抜けて、長さが倍になって、しかも発言者がすり替わっているのはちょっと不自然な気もします。
その途中の段階(例えば、「道徳なき経済は~~寝言である」を「ガンジーの言葉」として引用している、というような)例があるのでしょうか?
福沢諭吉が“economy→経済”と翻訳・造語したのは、二宮尊徳の没
後十年です。その思想を継承した渋沢栄一が「道徳と経済」を対比し、
何かの折に語った可能性はあるかもしれません。
二宮尊徳 『二宮翁夜話』を見ても「経済」(経世済民?)という言葉が出てくるので、二宮尊徳が言った可能性は高いと思います。原典は見つかりませんでしたが・・・
http://www.geocities.jp/sybrma/31ninomiyaouyawa.html
一七六 翁曰、経済(ケイザイ)に天下の経済あり、一国一藩(パン)の経済あり、一家又同じ、各々異にして、同日の論にあらず、何となれば、博奕(バクエキ)をなすも娼妓(シヤウギ)屋をなすも、一家一身上に取ては、皆経済と思ふなるべし、然れ共政府是を禁じ、猥(ミダリ)に許さゞるは、国家に害(ガイ)あればなり、此の如きは、経済とは云べからず、眼前一己の利益のみを見て、後世の如何を見ず、他の為をも顧(カヘリミ)ざるものなればなり、諸藩にても、駅宿に娼妓を許して、藩中と領中の者、是に戯(タハム)るるを厳禁(ゲンキン)す、是一藩の経済なり、此の如くせざれば、我が大切なる一藩と、領中の風儀を害すればなり、米沢藩にては、年(トシ)少(スコ)し凶なれば、酒造を半に減(ゲン)じ、大に凶なれば、厳禁(ゲンキン)にし、且(かツ)他邦より輸(ユ)入をも許さず、大豆違作なれば、豆腐(タウフ)をも禁(キン)ずと聞けり、是自国の金を、他に出さゞるの策(サク)にして、則一国の経済なり、夫天下の経済は此の如くならずして、公明正大ならずばあるべからず、大学に、国は利を以て利とせず、義を以て利となす、とあり、是をこそ、国家経済の格言と云べけれ、農商一家の経済にも、必此意を忘るゝ事勿れ、世間富有者たるものしらずばあるべからず
回答ありがとうございます。
『二宮翁夜話』、確かに「経済」の語が出てくるのは確認しました。
本人が書いたのではない(没後に書かれた)のが困りものですね。仕方ないですが。
(孔子もイエスもソクラテスも、今知られているのは本人の著作じゃありませんが)
大意として微妙に似たようなことを書いた下りはあるので、その辺を要約されたものなのでしょうか……。
http://www.jmca.net/books/ninomiya/ad.php?&id=53
「道徳を忘れた経済は罪悪であり、経済を忘れた道徳は寝言である」幕末の大実践家、二宮尊徳珠玉の言行録、遂に現代語訳なる。
どうもこの本が出典のようです。
ただし、この本、「大日本報徳社副社長村松敬司氏が現代の経営者向けに大胆な編み変えを行い、全281話にまとめた」
http://www.ryousyo1000.com/72_49.html
というもののようで、下記URLで原文が読める「二宮翁夜話」には、それらしき言葉は見あたりません。もしかしたら、村松敬司氏によるかなり大胆な意訳なのかもしれません。
おお。
http://www.jmca.net/books/ninomiya/ad.php?&id=129
ここに「理念なき繁栄」の猛省が叫ばれる中云々、とあって、しかも本文中にその語がないので怪しい、と思っていたのですが、やはり?
そちらが初出、なのでしょうかね。(しかし高い本だなあ……)
二一三 翁曰、学者書を講ずる悉(クハ)しといへども、活(クワツ)用する事を知らず、徒(イタヅ)らに仁は云々義は云々と云り、故に社会の用を成さず、只本読みにて、道心法師の誦経(ジユキヤウ)するに同じ、古語に、権量(ケンリヤウ)を謹(ツヽシ)み法度を審(ツマビラカ)にす、とあり、是大切の事なり、之を天下の事とのみ思ふ故に用をなさぬ也、天下の事などは差置て、銘々己が家の権量(ケンリヤウ)を謹(ツヽシ)み、法度を審(ツマビラカ)にするこそ肝要なれ、是道徳経済の元なり、(略)
社会の用をなさねば寝言である、と。
二一七 翁曰、世人皆、聖人は無欲と思へども然ず、其実は大欲にして、其大は正大なり、賢人之に次ぎ、君子之に次ぐ、凡夫の如きは、小欲の尤小なる物なり、夫学問は此小欲を正大に導(ミチビ)くの術(ジユツ)を云、大欲とは何ぞ、万民の衣食住を充足せしめ、人身に大福を集(アツ)めん事を欲するなり、其方、国を開き物を開き、国家を経綸(ケイリン)し、衆庶を済救(サイキウ)するにあり、故に聖人の道を推窮(オシキハム)る時は、国家を経済して、社会の幸福を増進するにあり、大学中庸等に其意明かに見ゆ、其欲する処豈正大ならずや、能おもふべし
社会を豊かにし福利厚生を増進するのが聖人である、と。
この辺りが、件の言葉にまとめられていったのでしょうかね……。
(偽ヴォルテールみたいに、「言ってないけど、いかにも言いそうな言葉」なんでしょうか)
しかし「二宮翁夜話」、ちらちら読むとちょっと面白いですね。
「善悪って言っても、天が決めたものではなく、結局人間にとって便利かどうかだけの話。家を造るのが善で破るのが悪、米麦が善で稗莠が悪、なんじゃろ?天理に任せたら世界は未開の荒野に逆戻りだぜ?」
「殺生戒とか言っても、動物殺すのが殺生で、植物はいいとかおかしくね?木食行者って言ったって落ち葉食って生きてるわけじゃないじゃろ?要は人間に近いものを殺すな、って話で、殺生戒というより殺類戒だよなあ」
江戸時代の人すげえ。
おお。
http://www.jmca.net/books/ninomiya/ad.php?&id=129
ここに「理念なき繁栄」の猛省が叫ばれる中云々、とあって、しかも本文中にその語がないので怪しい、と思っていたのですが、やはり?
そちらが初出、なのでしょうかね。(しかし高い本だなあ……)
二一三 翁曰、学者書を講ずる悉(クハ)しといへども、活(クワツ)用する事を知らず、徒(イタヅ)らに仁は云々義は云々と云り、故に社会の用を成さず、只本読みにて、道心法師の誦経(ジユキヤウ)するに同じ、古語に、権量(ケンリヤウ)を謹(ツヽシ)み法度を審(ツマビラカ)にす、とあり、是大切の事なり、之を天下の事とのみ思ふ故に用をなさぬ也、天下の事などは差置て、銘々己が家の権量(ケンリヤウ)を謹(ツヽシ)み、法度を審(ツマビラカ)にするこそ肝要なれ、是道徳経済の元なり、(略)
社会の用をなさねば寝言である、と。
二一七 翁曰、世人皆、聖人は無欲と思へども然ず、其実は大欲にして、其大は正大なり、賢人之に次ぎ、君子之に次ぐ、凡夫の如きは、小欲の尤小なる物なり、夫学問は此小欲を正大に導(ミチビ)くの術(ジユツ)を云、大欲とは何ぞ、万民の衣食住を充足せしめ、人身に大福を集(アツ)めん事を欲するなり、其方、国を開き物を開き、国家を経綸(ケイリン)し、衆庶を済救(サイキウ)するにあり、故に聖人の道を推窮(オシキハム)る時は、国家を経済して、社会の幸福を増進するにあり、大学中庸等に其意明かに見ゆ、其欲する処豈正大ならずや、能おもふべし
社会を豊かにし福利厚生を増進するのが聖人である、と。
この辺りが、件の言葉にまとめられていったのでしょうかね……。
(偽ヴォルテールみたいに、「言ってないけど、いかにも言いそうな言葉」なんでしょうか)
しかし「二宮翁夜話」、ちらちら読むとちょっと面白いですね。
「善悪って言っても、天が決めたものではなく、結局人間にとって便利かどうかだけの話。家を造るのが善で破るのが悪、米麦が善で稗莠が悪、なんじゃろ?天理に任せたら世界は未開の荒野に逆戻りだぜ?」
「殺生戒とか言っても、動物殺すのが殺生で、植物はいいとかおかしくね?木食行者って言ったって落ち葉食って生きてるわけじゃないじゃろ?要は人間に近いものを殺すな、って話で、殺生戒というより殺類戒だよなあ」
江戸時代の人すげえ。