デジタル通信は、回線の両端で計算処理を行うことによってデータを圧縮して送ることができるほか、デジタル信号にビットを少しつけ足し、通信路での符号誤りを訂正できる。人類は、デジタル通信に最適化した発声器官や神経中枢回路を発展させ、超多元な音節を使うことで通信路の伝送効率を高めるとともに、付加的な符号として文法規則(助詞・助動詞・副詞や動詞の活用など)を用いて、コンパクトで複雑・繊細な情報源符号化を実現している。
上記の記述に誤り・疑問・異論はありますか。
たとえば、食べる、食べた、食べるな、食べたら、食べよう、食べたい、
みたいに、たった1音節の違いで、意味がまるで違うところをコンパクトと表現しました。
送り手と受け手が共通の情報源符号化・復号化テーブルを持てば、いくらでも難しい内容を短い記号で表現することはできますよね。
「創造によって情報量が増える」というのは、よく理解できませんでしたが、送り手が創造したときに、受け手がそれに対応する復号ができれば意味を拾えますし、それができないなら意味がわからないままになりますよね。
こういうことでしょうか?
創造という言葉は受け手による創造という意味で使いました。
人間の言語は送り手と受け手が共通の情報源符号化・復号化テーブルを持っている様に見えては実は完全に共通のテーブルを持っているわけではない(もしくは持っている事を証明できない)という点がミソです。
良く大人になってもかなり基本的な言葉の意味を勘違いしていることってありますよね?それに方言とか色々な形で同じ日本語という言語でも人によって完全に同じプロトコルでは話をしていないのです。
ということは、言葉というは元々完全な復号化ができないものであり、誤りを含んだまま理解されて、情報の質が変化していく。単に劣化する場合もあれば受け手側の推測とか閃きで全く新しい価値が付加されるケースも出てくる。これが人間による言葉の伝達の面白いところで、コンピュータによる機械のみでのデジタル通信とは異なるところだと思うのです。
確かに、たとえば俳句や短歌は、17文字、31文字で表現して、受け手の中にある記憶や変換テーブルから再構築されて、感動を生みます。
こういったことをいっておられるわけですね。
もちろん、俳句や短歌の場合には、送り手の側でも、濃厚な体験があり、それを少ない文字に濃縮して送っているので、こちらはこちらで創造行為でしょうが。
そもそも俳句や短歌という短詩が多くの人々に愛されている日本は、非常に濃密な文化空間である、かなり細かく奥深いレベルまで意味の変換テーブルが共有されている(ことが前提とされている・共有される環境がある)社会であったのでしょう。
人類の言語は確かに誤り訂正的な機能も有していますが、「コンパクト」だと評価するのであれば、誤り訂正や符号化のやり方が優れているからだけでは無いと思います。
受け手側の過去の経験との照合や推論を行うことによって、場合によっては送り手が符号化した以上の情報量を受け手側で取得することもあります。
情報をやり取りする中で「創造」によって情報量が増えて行くというのは、数学や工学的な情報論の範疇ではモデル化しきれない部分じゃないかな。