お釈迦様の体得した悟りは、所を日本に移せば、修験道や神道における禊のようなものかもしれません。文明的なものを、禊ぎ、祓い、清めて、1匹の生物になりきる。言葉のない世界を生きる。
悟りと禊ぎは、同じものだから、天台宗では今でも千日回峯行が尊ばれるし、禅宗は言語を使うなというわけです。
さて、このように禊ぎや悟りを理解したときに、言語以前の人間の心や感情と、言語が生まれた後に形成される意識とを、別々のものとして扱うことが望ましいと思います。言語以前と言語以後とをうまく言い表す言葉を教えてください。
(ひとり一回だけにしますので、ご自身の言いたいことを、要点を明確にわかりやすく書き込みお願いします。)
言語が無い状態では情報がどうしても複雑化できないから、身体全体をアンテナにして情報を読み取ろうとする。
五感や第六感(?)を駆使し、得た情報も身体に染み付いた経験と感情 - 感性で処理する。
それに対して言語がある場合は情報が複雑化できるから、身体的なアンテナが鈍る。
その代わりに得た情報を処理する頭脳が発達し、脳に記録された知識と知性での処理に依存することになる。
と、思います。
感性は、全身をアンテナにして、世界に対峙する
知性は、いったん頭の中で処理する
なるほど、野生動物は考えたり迷ったりする時間が短いし、くよくよ悩んだり、うつ病になったりしませんからね。
う~ん、これはいいですねえ
言語以前=自己内省
言語以後=表現、客観性への依存、働きかけ