お釈迦様は6年半、荒野をさまよって修行をされました。その結果として得た悟りとは、人間も動物の一種である、しかし退化してしまったから自然の中で生きていくことができない。だから、なるべく自然を破壊することなく、わずかな衣服や食糧で生きていくのがよい。というものだと思います。


お釈迦様の体得した悟りは、所を日本に移せば、修験道や神道における禊のようなものかもしれません。文明的なものを、禊ぎ、祓い、清めて、1匹の生物になりきる。言葉のない世界を生きる。

悟りと禊ぎは、同じものだから、天台宗では今でも千日回峯行が尊ばれるし、禅宗は言語を使うなというわけです。

さて、このように禊ぎや悟りを理解したときに、言語以前の人間の心や感情と、言語が生まれた後に形成される意識とを、別々のものとして扱うことが望ましいと思います。言語以前と言語以後とをうまく言い表す言葉を教えてください。
(ひとり一回だけにしますので、ご自身の言いたいことを、要点を明確にわかりやすく書き込みお願いします。)

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回答39件)

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言語以前と言語以後 taka27a2009/02/10 13:20:29ポイント5pt

言語以前=自己内省

言語以後=表現、客観性への依存、働きかけ

感性と知性 australiagc2009/02/10 14:14:31ポイント3pt

言語が無い状態では情報がどうしても複雑化できないから、身体全体をアンテナにして情報を読み取ろうとする。

五感や第六感(?)を駆使し、得た情報も身体に染み付いた経験と感情 - 感性で処理する。


それに対して言語がある場合は情報が複雑化できるから、身体的なアンテナが鈍る。

その代わりに得た情報を処理する頭脳が発達し、脳に記録された知識と知性での処理に依存することになる。


と、思います。

これはなかなかいいですね。 ShinRai2009/02/10 14:18:10

感性は、全身をアンテナにして、世界に対峙する

知性は、いったん頭の中で処理する

なるほど、野生動物は考えたり迷ったりする時間が短いし、くよくよ悩んだり、うつ病になったりしませんからね。

う~ん、これはいいですねえ

私はこう表現してます t-saitou2009/02/10 17:22:07ポイント1pt

感覚派と頭脳派。

対自と対他という切り分けですね ShinRai2009/02/10 14:12:18

たしかに、そういう切り分けも可能かもしれません。

しかし、我々は内省を言語で行っていることが結構ありませんか。

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  • 記号的言語社会 そういう世で人は生きてたりするんだとおもいます。 今日はいま織ってるブランケットででっかいミスをしました。でも5時間くらいかけてそいつを直してやりました。一
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