お釈迦様の体得した悟りは、所を日本に移せば、修験道や神道における禊のようなものかもしれません。文明的なものを、禊ぎ、祓い、清めて、1匹の生物になりきる。言葉のない世界を生きる。
悟りと禊ぎは、同じものだから、天台宗では今でも千日回峯行が尊ばれるし、禅宗は言語を使うなというわけです。
さて、このように禊ぎや悟りを理解したときに、言語以前の人間の心や感情と、言語が生まれた後に形成される意識とを、別々のものとして扱うことが望ましいと思います。言語以前と言語以後とをうまく言い表す言葉を教えてください。
(ひとり一回だけにしますので、ご自身の言いたいことを、要点を明確にわかりやすく書き込みお願いします。)
円相ですか。知りませんでした。
たしかに公案の問いは、論理的正解のないパラドクスに弟子を落としいれますね。
頭で考えているかぎり絶対に正解にたどりつかないパラドクス。
これも頭で考えることを否定するためでしょうか。
弟子「いつまで考えても正解にはたどり着けない、だから私には禅の修行など無理かもしれない」
師匠「それを考え続けることこそ禅である」
・・・ということではないかと思います。
坐禅の修行のある段階において、五感に「普通ではあり得ない」感覚を感じることがあります。トランス状態やLSDによる幻覚に近いものだそうです。ほかの宗教(シャーマニズムや密教など)ではこれを忘我の境地と表現したり神秘体験とすることがありますが、禅宗はこれを「魔境」として否定します。私としてはこれが「頭で考えることを否定した状態」ではないかと考えます。釈迦が断食をしているときにマーラが幻覚を見せて誘惑する、というエピソードがありますし、イエスが荒野をさまよっているときにも悪魔が幻覚を見せて誘惑するエピソードがあります。しかしこれらの誘惑に打ち勝つ手がかりとなったのは結局「言葉」であり、論理=ロゴスでした。
弟子のおかれたコンテクストを一度解体し、より高次の論理の構築を目指す(目指し続ける)ことこそ円相(円相はただ描かれた図だけではなく、円を描く動作そのものも含んでいます)の示すものではないかと考えております。
そうですか。
しかしこれらの誘惑に打ち勝つ手がかりとなったのは
結局「言葉」を乗り越えることであり、
論理=ロゴスの否定でした。
と言い換えることもできそうに思うのですが。
他の方の答えと重なりますが・・・。
言語とは外界を切り分け、分類するために生まれたものです。幼児の発達段階においては、「これとあれは違う」ということを繰り返し学習することで外界の認識というものを徐々に完成させてゆくわけです。
人間はそのようにしてロゴスを発達させ、他の動物たちと文字通り一線を画した文明を築いたわけですが、「それでは(他者とは違う)自己とはなにか」という疑問に行き当たったとき、「切り分ける」だけでは結論に行き着くことができません。人間とは「関係性」と「時間」の中で生きる生き物であるが故に、そこから「他者と関係のない自己」や「過去と関係のない現在」を切り出そうとすると「結局何も存在しない」という結論になってしまうことが多いからです。
質問者さんは「禅は言語を否定する」とおっしゃっていますが、禅(とくに曹洞禅)の修行において、坐禅とともに重要視されているのが「公案」、つまりパラドキシカルな言語による問答です。教師は弟子を意図的にパラドックスに陥れることによって、弟子が捕われている二分論的状況からより高次のコンテクストに誘導する訳です。
例えば卑近な例では「右の道に行ったら死ぬ。左の道を行っても死ぬ。どうすればよいか」→「来た道を戻ればよい」というように。
これは確かに二性からの解放を目指したものではありますが、かといってもとの「一」、つまり言葉のない動物の状態に戻れ、ということではありません。言葉による切り分けの向こう側にある統合を目指したもので、これを「円相」で表すそうです。