哲学的ゾンビ(ここでは神経的ゾンビのみを指すことにします)について語る時、我々の多くは「少なくとも自分だけは、哲学的ゾンビではない」ことを、あたかも自明の公理のごとく信じているように思えます。


Q1.『自分』は本当に、哲学的ゾンビではないと言えるのでしょうか?
Q2.『自分』が赤いリンゴを見て「赤いなあ」と感じるとき、そこに本当にクオリアは存在しているのでしょうか?
Q3.そもそも「意識」や「クオリア」なんてものは存在するのでしょうか?

回答の条件
  • 1人5回まで
  • 500 ptで終了
  • 登録:
  • 終了:2009/04/01 13:25:02
※ 有料アンケート・ポイント付き質問機能は2023年2月28日に終了しました。

回答17件)

<前のツリー | すべて | 次のツリー>
A1のみですが wen0002009/03/26 08:26:32ポイント4pt

哲学的ゾンビではないと言い切れないからこそ「哲学的ゾンビ」という概念が生まれたのではないでしょうか。

…なんかトートロジーみたいですが(笑)

他人の意識は見えないけど ku__ra__ge2009/03/26 12:56:48ポイント3pt

自分以外の存在が「本当に」意識を持っているかを直接観測することはできません(行動から推し量るしかない)が、自分が意識を持っていることは自分で直接観測することができるのではないでしょうか?

観測した「意識らしきもの」が意識であるか否かは、意識の定義次第だと思います。

確かに azukiazu2009/03/28 17:22:46ポイント2pt

自分以外の存在の人物に哲学的ゾンビを証明するものが無いからこの言葉が生まれたのでしょうね

哲学的ゾンビだとしたら話が終わるから? qaze002009/03/29 02:42:23ポイント1pt

逆説的になるが、自分が哲学的ゾンビであれば、この問題を考える「自分」がそもそも存在しないわけで、すべてが無意味として考えられるのでは。自分が哲学的ゾンビでないからこそ、こういった問題を考えることが有意味になるのではないか?。

<前のツリー | すべて | 次のツリー>

コメントはまだありません

この質問への反応(ブックマークコメント)

「あの人に答えてほしい」「この質問はあの人が答えられそう」というときに、回答リクエストを送ってみてましょう。

これ以上回答リクエストを送信することはできません。制限について

回答リクエストを送信したユーザーはいません