Q1.『自分』は本当に、哲学的ゾンビではないと言えるのでしょうか?
Q2.『自分』が赤いリンゴを見て「赤いなあ」と感じるとき、そこに本当にクオリアは存在しているのでしょうか?
Q3.そもそも「意識」や「クオリア」なんてものは存在するのでしょうか?
自分以外の存在が「本当に」意識を持っているかを直接観測することはできません(行動から推し量るしかない)が、自分が意識を持っていることは自分で直接観測することができるのではないでしょうか?
観測した「意識らしきもの」が意識であるか否かは、意識の定義次第だと思います。
自分以外の存在の人物に哲学的ゾンビを証明するものが無いからこの言葉が生まれたのでしょうね
逆説的になるが、自分が哲学的ゾンビであれば、この問題を考える「自分」がそもそも存在しないわけで、すべてが無意味として考えられるのでは。自分が哲学的ゾンビでないからこそ、こういった問題を考えることが有意味になるのではないか?。
哲学的ゾンビではないと言い切れないからこそ「哲学的ゾンビ」という概念が生まれたのではないでしょうか。
…なんかトートロジーみたいですが(笑)