夏目漱石さんに関する、ちょっとイイ話(「深イイ話」的な)を調べています。

例えば…「吾輩は猫である」「坊ちゃん」等の作品にまつわる話、作者自身にまつわる話(作家になった経緯や周囲の人との関係)等々、いろいろ教えて下さい!

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  • 登録:2009/05/24 19:26:07
  • 終了:2009/05/26 17:12:32

回答(4件)

id:yaezakura39 No.1

yaezakura39回答回数92ベストアンサー獲得回数62009/05/24 19:46:35

ポイント23pt

処女小説で有名な「我輩は猫であるは、実はもともと「猫伝」というタイトルだったが、高浜虚子のススメで今のタイトルになった。


この高浜虚子は、漱石に小説を書くようにススメた当人で、「我輩は猫である」の掲載第1回は、実はあちこち虚子の手が入っています。(そのため、以降の回とは、文章の雰囲気が異なる。)


なお、主人公のモデルになった猫は、夏目家が餌をやっていた野良猫なんです。この猫も、やっぱり名前はなく、単に「猫」と呼ばれていました。


http://q.hatena.ne.jp/1242811788

id:tooh22

なるほど…たしかに「へぇ~」な話ですね。

情報、ありがとうございます。

2009/05/25 14:22:29
id:rsc96074 No.2

rsc回答回数4400ベストアンサー獲得回数4042009/05/24 20:06:46

ポイント23pt

 こちらはいかがでしょうか。「「坊っちゃん」の中の伊予弁なんかは、松山出身の高浜虚子に手をいれてもらっている」そうです。

●Pu&Fuの研究室だより : 坊っちゃん大句会 その1 松山と「坊っちゃん」

>7人の話の中で、一様に出て来たのが、なんで松山の人は、あれだけ松山の悪口を書いた漱石の「坊っちゃん」を持ち上げて、こんな催しをするのか、ということ。

 これに対する博物館館長(松山市の子規記念博物館)のお答えは、松山の人は度量が広いんだ、ということと、漱石も松山が嫌いなのではなく、その証拠に「坊っちゃん」の中の伊予弁なんかは、松山出身の高浜虚子に手をいれてもらっているのだ、という話をしていた。

http://tiikikeiei.exblog.jp/3263055/

id:tooh22

なるほど…たしかに「へぇ~」な話ですね。

情報、ありがとうございます。

2009/05/25 14:22:50
id:winbd No.3

winbd回答回数1050ベストアンサー獲得回数432009/05/24 20:37:38

ポイント22pt

http://neko.koyama.mond.jp/?eid=209617

「文学談」夏目漱石 / 明治39年9月 『文芸界』座談

 『猫』ですか、あれは最初は何もあのように長く続けて書こうという考えもなし、腹案などもありませんでしたから無論一回だけで仕舞うつもり。また斯くまで世間の評判を受けようとは少しも思って居りませんでした。最初虚子君から「何か書いてくれ」と頼まれまして、あれを一回書いてやりました。丁度その頃文章会というものがあって、『猫』の原稿をその会へ出しますと、それをその席で寒川鼠骨君が朗読したそうですが、多分朗読の仕方でも旨かったのでしょう、甚くその席で喝采を博したそうです。それでいよいよ『ホトトギス』に出して見ると、一回には世間の反響は無論なかったのです。ただ小山内薫君が『七人』で新手(あらて)の読物だとか云ってほめてくれたのを記憶しています。虚子君の方では雑誌の埋草(うめぐさ)にもなるからというのでしょう、「ぜひ後を書け書け」とせがまれまして十回十一回とこう長くなりました。しかしもうそうそう引延ばしても世間があきるのみならず第一自分があきるからこの度でしまいにしました。勿論腹案もなかったことですから、どう完結を付けたらいいか分かりません。しかしどうにかしなければならんから、あの通りいい加減なところで御免をこうむりました。

id:tooh22

なるほど…たしかに「へぇ~」な話ですね。

情報、ありがとうございます。

2009/05/25 14:22:58
id:samuraiJ No.4

samuraiJ回答回数113ベストアンサー獲得回数02009/05/24 21:46:51

ポイント22pt

文豪夏目漱石(1867~1916)は、夏目小兵衛直克と千枝夫妻の五男三女の末子としてこの地に生れた。

夏目家は、牛込馬場下横町周辺の11ヶ町をまとめる名主で、その勢力は大きく、喜久井町の名は夏目家の家紋「井桁に菊」に因み、また夏目坂は直克が命名したものだという。

漱石は生後まもなく四谷の古道具屋に里子に出されたが、すぐに生家にもどり、2歳の11月に再び内藤新宿の名主塩原昌之助の養子となり、22歳のとき夏目家に復籍している。

なお、この地での幼少時代のことは大正4年に書かれた随筆「硝子戸の中」に詳述されている。

また、この記念碑は昭和41年に漱石生誕百年を記念して建立されたもので、文字は漱石の弟子安倍能成の筆になる。

http://burari2161.fc2web.com/natumesouseki.htm

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