例えば…「この道」等の作品にまつわる話、作者自身にまつわる話(作家になった経緯や周囲の人との関係)等々、いろいろ教えて下さい!
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%8E%9F%E7%99%BD%E7%A7%8...
白秋は隣家にいた松下俊子と恋におちたが、俊子は夫と別居中の人妻だった。2人は夫から姦通罪により告訴され、未決監に拘置された。2週間後、弟らの尽力により釈放され、後に和解が成立して告訴は取り下げられた。人気詩人白秋の名声はスキャンダルによって地に堕ちた。この事件は以降の白秋の詩風にも影響を与えたとされる。1913年、初めての歌集『桐の花』と、詩集『東京景物詩及其他』を刊行。特に『桐の花』で明星派のやわらかな抒情をよく咀嚼した歌風を見せ、これによって白秋は歌壇でも独特の位置を占めるようになる。春、俊子と結婚。三崎に転居するも、父と弟が事業に失敗。白秋夫婦を残して一家は東京に引きあげる。『城ヶ島の雨』はこのころの作品であるという。「朱欒」廃刊。発行期間は短かったが、萩原朔太郎や室生犀星が詩壇に登場する足がかりとなった。
北原白秋の縁戚に当たる人から聴いた話です。
童謡「あわて床屋」は小田原時代に書かれたものだそうです。床屋に入ったときに主人が誤って白秋の髭を切ってしまったそうです。「ちょっきん」と。そういう実話に基づいているということでした。
歌人で童謡作家でもあった北原白秋は、1916(大正5)年5月、閑静な場所を求めて真間の亀井院の庫裏を借り、江口章子(あやこ)と暮らし始めました。 『葛飾閑吟集』 には「葛飾の真間の手児奈が跡どころその水の辺のうきぐさの花」などの歌を残しています。
しかし、静かな田園風景だった真間の辺りも次第に開発され壊されていき、6月末には、小岩村三谷(江戸川区)に移っていきます。ここで1年2ヵ月を暮らすのですが、その住居が「紫烟草舎」と呼ばれました。
「紫烟草舎」はのち、江戸川の改修工事にかかることになり、市川市が昭和44年に持ち主から寄贈を受け、国府台の里見公園に移築しました。
現在、亀井院と「紫烟草舎」前に歌碑があり、4月のさくらまつりに合わせた「紫烟草舎」の公開などを行なっています。
説明不足で申し訳ございません…
以降に回答くださる場合は、「wikipedia」以外でお願いします。
情報、ありがとうございました。