たとえば見ず知らずの行き倒れを看病するようなこともありますよね。
寝ているのか、気を失っているのか、脳死なのか判断がつかないとしましょう。
時々うなったり動いたりするなら、看病を続けますよね。
さて、ピクリとも動かない場合はどうしますか?
身内でない人間が3週間も動かないようなら、
「もうこのまま死んでしまうかな?」
とあきらめるのではないでしょうか?
とはいっても、心臓が動いている人間を即火葬はしないでしょう。
口にお粥を流し入れても、咀嚼しないようであれば、
痩せほそって餓死するのを待ち、それから弔うのではないでしょうか?
介助しても食事がとれない状態は、目を覚まさない限り死と同等。
と言えるでしょう。
現在医学が進み、口以外からも栄養が摂取できるようになりました。
また脳死の判定もできるようになりました。
さて、なにをもって人の死としますか?
考えるに、
本人の生きたいという思い
周りの人がその人に生きていて欲しいという思い
いろいろな思いがあります。
昔は周りの人(看病する人)が、起き上がって欲しいという一念で看病しました。
本人の生きたいという思いは脳死ならもはや確かめようがありません。
ただ、昔の考えというものがからんでくるとまたややこしいですね。
ただ、昔の考えというものも、個人的にはあまり信用していません。
ドナーカードを持っている人が、車にはねなられながら、
「ドナーカード持ってなきゃよかったな」
と考えながら亡くなることも少なからず考えられます。
人間は考えが変わっていく動物ですから。
話がそれましたが、以前に
「脳死なら死んだものと考えてくれ」
と言っていたならそれを信じて受け入れるとしましょう。
「脳死でもなるべく生かしておいてくれ」
といっていたならそれも受け入れるとしましょう。
何の表明もなかった場合、もはや意志を主張できない人をどう扱えばいいのでしょう?
そのときは周りの考えを受け入れればいいと思うのですが、
周りの人って、いったい誰?ということになります。
家族の誰かが生かしておきたいと思うならそれでいいでしょう。
ただ、家族が全員死と認めましょうというときに愛人が出てきて、
「私がお金を出すので、生かしてあげて」
などといったら、それは認められるのでしょうか?
かといって家族だけと限定すると、天涯孤独だった人を
大親友ですら救えないというのも寂しい話です。
結局のところ、本人以外の意志は認めないというのが一番平等です。
以前になんの表明もなかった人は、
脳死の時点でさらに生き続けたいという意志を表明しないため、死と認める。
というふうに私は結論したいと思います。
これは個人的な意見であり、今回の法案に反対とか賛成とかを積極的にする
気持ちにはなっていません。
あえて法案としてわたしが提出するとすれば、
そのコミュニティ内で話し合い決定してよい。
脳死の人を死亡と認める判断を下すことも可能。
という文言がしっくりきます。なので、どちらかといえば反対かもしれません。
なお、最近のこの件に関する報道は、臓器移植とともに語られているため、
死を軽んじられているような気がしてあまり好きではありません。
長文失礼しました。
たとえば見ず知らずの行き倒れを看病するようなこともありますよね。
寝ているのか、気を失っているのか、脳死なのか判断がつかないとしましょう。
時々うなったり動いたりするなら、看病を続けますよね。
さて、ピクリとも動かない場合はどうしますか?
身内でない人間が3週間も動かないようなら、
「もうこのまま死んでしまうかな?」
とあきらめるのではないでしょうか?
とはいっても、心臓が動いている人間を即火葬はしないでしょう。
口にお粥を流し入れても、咀嚼しないようであれば、
痩せほそって餓死するのを待ち、それから弔うのではないでしょうか?
介助しても食事がとれない状態は、目を覚まさない限り死と同等。
と言えるでしょう。
現在医学が進み、口以外からも栄養が摂取できるようになりました。
また脳死の判定もできるようになりました。
さて、なにをもって人の死としますか?
考えるに、
本人の生きたいという思い
周りの人がその人に生きていて欲しいという思い
いろいろな思いがあります。
昔は周りの人(看病する人)が、起き上がって欲しいという一念で看病しました。
本人の生きたいという思いは脳死ならもはや確かめようがありません。
ただ、昔の考えというものがからんでくるとまたややこしいですね。
ただ、昔の考えというものも、個人的にはあまり信用していません。
ドナーカードを持っている人が、車にはねなられながら、
「ドナーカード持ってなきゃよかったな」
と考えながら亡くなることも少なからず考えられます。
人間は考えが変わっていく動物ですから。
話がそれましたが、以前に
「脳死なら死んだものと考えてくれ」
と言っていたならそれを信じて受け入れるとしましょう。
「脳死でもなるべく生かしておいてくれ」
といっていたならそれも受け入れるとしましょう。
何の表明もなかった場合、もはや意志を主張できない人をどう扱えばいいのでしょう?
そのときは周りの考えを受け入れればいいと思うのですが、
周りの人って、いったい誰?ということになります。
家族の誰かが生かしておきたいと思うならそれでいいでしょう。
ただ、家族が全員死と認めましょうというときに愛人が出てきて、
「私がお金を出すので、生かしてあげて」
などといったら、それは認められるのでしょうか?
かといって家族だけと限定すると、天涯孤独だった人を
大親友ですら救えないというのも寂しい話です。
結局のところ、本人以外の意志は認めないというのが一番平等です。
以前になんの表明もなかった人は、
脳死の時点でさらに生き続けたいという意志を表明しないため、死と認める。
というふうに私は結論したいと思います。
これは個人的な意見であり、今回の法案に反対とか賛成とかを積極的にする
気持ちにはなっていません。
あえて法案としてわたしが提出するとすれば、
そのコミュニティ内で話し合い決定してよい。
脳死の人を死亡と認める判断を下すことも可能。
という文言がしっくりきます。なので、どちらかといえば反対かもしれません。
なお、最近のこの件に関する報道は、臓器移植とともに語られているため、
死を軽んじられているような気がしてあまり好きではありません。
長文失礼しました。