所属している組織の外にでないと評価してもらえないなどということはないですか?
受験で入った高校で、入学時に「その高校に入れた」のだから、同級生はみんな同じ でしたか?同級生の中でも評価される人間はいたはずです。
同じようなスキル持ち主の中にいるなら同じようなスキルの中でも何か突出したものを持っていないとその集団の中に埋没するのは当然です。
その集団の中にいるからエリートなのではない。
自分が優秀であることは自分が知っています。
優秀でない人は評価してもらえなくて欲求不満になるのでしょうね。
たしかに、そうですね。上位層の中には、さらに「上・中・下」とあり、その集団の中では、ほとんどの人が「中」に該当することになります。どのような集団においても、ほとんどが「平均」に甘んじることとなり、「上」は少ないのです。そのことで、「上」から「中」に下がったと感じて、不満に思う人もいるかもしれません。でも、そういうことを経験した「エリート」は、上位集団の外に出た後も、謙虚で親しみやすいですよ。
東大・官僚・医者・弁護士は、いずれもそれぞれ専門とする得意分野のようなものがあるので、ある分野に特化していれば特化していない人から見て、高い評価を受けることができます。
kzmmtsdさんは、おそらく学力が上位の者同士では相対的な評価ができないにくいのではないかと考えているのでしょう。確かに前者に挙げたような分野を持たず、想像力の乏しい人は、学力と地位以外に、他の者より優れている点を主張できないので、ストレスが溜まる事があります。歴代の発明家などは、アイデアが沸かないと意気消沈してしまったそうです。
ウンザリズム ~ 帝大面(ヅラ)から東大面と京大面へ ~
── 三宅「あんた、東大を出てんのに、そんなことも知らないのかね
(略)ふところに飛びこんできた鳥は、猟師も撃たないってのさ」
森永「“学級委員長”かと思った……」
(実は、東大出が“窮鳥”を知っていたようにも勘ぐられる)
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20040705
ポンスケ vs デコスケ
一般論ですが、二流大学出の多い職場では、ひとりだけ一流大学出が
混じったとき、なんらかの摩擦が起きやすいのではないでしょうか。
(一流大学出の多い職場に、三流大学出が混じる光景は思い浮びません)
同級生Aの職場は、もっぱら「石を投げれば秀才に当たる」といわれ
ていました。彼らは、おたがいの学歴・学部・専攻まで熟知していて、
もっぱら差別や比較の対象としたのです。
たとえば「ヤツは○学部だからな」とか「やっぱ旧帝大でなくっちゃ」
とか「卒論は○×論だったとさ」とか、部外者の想像が及ばない点まで
立入って論評しますが、むしろ日常的には明るく陽気でした。
同級生Bは、二つの名門大学に合格して、競争倍率の高い方を選んだ
ことを、のちのちまで自慢しました。同級生Cは、合格しなかった大学
名を、機会あるごとに吹聴するという、めんどうな不合格自慢でした。
かくいうわたしは文芸部送別会で「名門大学の入学試験は、なかなか
緊張感があって気分がよかったね」と、同席者を見わたしました。
うなずく者もあり、うなだれる者もいました。
そこでもうひとこと「俺はね、俺が入れるような大学には、入りたく
なかったんだ。俺に惚れるような女には、惚れられたくないように」と
負け惜しみを云って、大いに喝采されたのです。
やはり内部でそのことを評価してくれる人はいないでしょうね。
欲求不満になるほど評価されたいのなら、外部との関わりを持つか、ランクを下げて就職すれば良いのです。
それは学歴関係なしにその内部組織に所属すれば、上司・部下、先輩・後輩、内部規定など、例え優秀であっても縛られることは多々ありえます。
特に日本はそういう意識が強い気がします。
同じ集団の中でその集団から認めてもらう理由など必要ないのでは?
そこで認めてもらう理由はなんでしょうか?
外部で認めてもらえれば十分と思いますhttp://q.hatena.ne.jp/1247674363
すごくあります。まさに自分がそうです。
で、自分のいた環境から判断したところでは、
鶏口にいるとプライドから努力家になりますが、自意識過剰になります。
牛後にいると努力はそこそこで、人生楽しもうと考えるようになります。
一番たちの悪いのが職場や学校が牛後で、家庭生活で鶏口な奴です。
異常にプライドが高く自意識過剰な上、思考の過程で自分を特別視するので、精神年齢まで下がってきます。
そんな例を自分はかなり大勢見てきているので、牛後だからといって不幸に思う必要はないでしょう。
考えを切り替えて純粋に人生楽しもうというところに落ち着くのがいい(センスのいい奴は大体そうしてる)と思いますよ。
気持ちはわかりますね。
私は高校の時ヤンキー高だったのですが
自分はヤンキーではなく成績も良かったです。
(あくまでその高校の中で、ですが)
でも、ヤンキー高において成績がいい奴なんて
浮いた存在にしかなりませんでした。
周りより能力が高いのに変なコンプレックスが
植えつけられてしまいましたよ。
私は、東大、官僚、医者、弁護士などいわゆるエリートではないのですが。
同じ組織内でも、それなりに仕事を上手にしたりがんばった場合には、中の人どおしで評価されたりしたりします。 そんな中の人からの評価って、がんばった内容を具体的に把握してくれたりするので、評価される側としてはインパクトあります。
むしろ外の人からの評価って、なんだか抽象的だったりするかなぁ。
評価される、と、ちやほやされる、の違いなのかなぁ。
こちらでもどうぞ。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1411157...
東大を中くらいの成績で卒業 > 三流大学を主席で卒業
大企業で平社員 > 零細企業で部長クラス
ですから、エリートでない集団の中で上位にいるより、エリートの集団の中で中ぐらいに位置するほうが良いと思います。
そんな欲求不満には普通ならないと思います。
東大生や大企業の社員などエリートであることを評価されたくてエリートになるというよりも、
お金を稼ぎたい、やりがいのある仕事をしたい、などということが目的なのではと思います。
ただすごーいと言われたいだけなら他にいくらでも手段はあります。
そもそも、日ごろから俺は東大生だから周りからちやほやされたいなんて思っていればそういう欲求不満にもなるでしょうが、
普通欲求はそういうベクトルではないと思います。
そう思うのは、自分よりも評価されない大学の学生と一緒になって何かをするときだけ。
普段は、そんな大雑把なことを求めるよりも、もっと具体的なことに対して意欲があるものだと思います。
また、東大生であること、エリートであること、というのは少なくとも両親は自慢に思っていますし、そこを評価されるのは親だけで十分。
あとは、同窓会なんかのときにすごーいとか言われる程度。
ただ、エリートであることを周りに評価されないとは言え、それはそういう機会がないだけであって、
実際にはエリートであること自体が評価されてきた結果ですから、そこに大きな自己満足はあるのです。
俺はエリートでやってけてるぜ!っていう。
最後に、
>東大に行っても東大の中では東大生であることを評価してくれる人はいない
私達はゴキブリに生まれずに人間に生まれて良かったと思っていますよね?
また、具体的な名前は出しませんが、アジアかどこかの貧しい国に生まれずに日本に生まれてよかったと思っていますよね。
そしてそれを誇りに思っている部分は多少なりともあると思います。
そういった部分はエリート内にもあり、ダメなやつらの集団では「俺らなんかどうせオチコボレだし、のんきにやろうぜ」っていう空気があるところが、
エリート集団では負けたくない、人より勝っていたい、という良い空気が流れると思います。
これはエリートであることに対しての評価よりも大切なメリットだと思います。
それではkzmmtsdさん、外に出て付き会う気持ちになれますか?
ランクの違う人たちとうまく話が遭うでしょうか?
東大芸人
こういうのだって、究極のところは「東大」がウリだと思うのですよ。
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