【平安貴族ってなんか役に立ってたの?】

 政府とは、国民から徴税を行い、代わりに公共サービスを提供するものだと思います。
 
 しかし、平安時代の政府(朝廷、でしょうか)って、なんか庶民にサービスを提供していたんでしょうか?
 
 大仏の建立とかは国家鎮護を願ったもので、(実効性はともかく)目的は国民全体の福祉である、と言えるかもしれませんが、「鎮護」ってどっちかというと朝廷の安泰を願ったもののように感じますし……(それ以前に奈良の大仏は奈良時代ですが)。
 
 貧窮問答歌とかのイメージが強すぎるせいかも知れませんが、平安貴族って、租・庸・調とか徴税はするけど身分の卑しき輩の役には立たない連中、という感じがしてなりません。(っていうか役に立つ仕事をしているイメージがない。官位がある以上仕事もしてるんでしょうけど)
 
 もちろん、平安時代の文化遺産は現代の我々にとって重要なものだし、仮名文字の発明など、日本文化の基礎が形作られた時代だとも思いますが、あくまで当時の視点で考えると、ということです。
 
「こういう点で平安政府は庶民にとって役立っていた」ということがありましたらご教示ください。

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ベストアンサー

id:MS06R3 No.5

MS06R3回答回数3ベストアンサー獲得回数22009/07/19 01:56:28

ポイント35pt

 平安政府の一般庶民に対する功績としては、それまで中央官僚に集約してきた人材をアウトソーシングにした部分ではないかなと思います。

 奈良政権初期~中期では庶民にカーストに類する身分制度を引き、その範囲内で人事権の行使や官僚への特権付与など国内の権益の独占、海外及び周辺地域に対しての外交圧力による利殖を中心としていましたが、末期には海外の独立、国内公有農地の拡大鈍化、それに反した人口の増加(当時は人に対する課税方式を採用していたので、そのほうが儲かると思われていた)、その対策として新規開墾地の私有化を特定条件下で認めたことによって官僚支配の体制を緩めた結果、

 行き過ぎた能力主義から官僚の序列にまで影響が出てしまい、こうした事を教訓に、官僚の長の長たる天皇家の世襲も一新され、苦労人の桓武さんが天皇の地位に就き、平安政府ははじまったわけですが、その序列を正そうと都を頻繁に移してみたり、増えすぎた官僚を粛清しまくったりと色々やったおかげで地方に対する影響力も鈍化し、東方で反乱を起こされたり新都建設の責任者がブッ殺されたりと散々な目にはあうわけです。

 そうした流れの中で、戸籍によって厳格に監視されていた大衆も比較的(とはいえ捉まれば死罪なのですが)簡単に収税の手が及ばないように逃げ出せるようにもなり、「人(身分)に対して収税を行う」という事が難しくなったと言う点、かわって、土地に対する収税意識が中央に芽生えた結果、

 土地の所有者に対する規制が強まると同時に彼らに一定の権力が認められるようになり、その権力保持の為の各種セキュリティサービスが中央から行われる主要な業務となり、その結果、人々は直接税からは解放されると言う「恩恵」(現在と比べると恩恵と言うほどのものではないかもしれませんが)を受けました。

 これによって各地域への人の往来規制はそれまでと比べて緩和され、地域の生産物の輸送体系が組織の接着剤としての機能を果たし、中央の人達は徴税業務(地域の支配者を守るという義務は増しましたが^^)から解放され、地方担当者の権限拡大によって地域の生産性の向上へと繋がり、その成果として財務も潤っていくわけですが、

 奈良時代の弊害として地域の農民に対する種の貸し出し利率(税込みで貸し出し年利150%以上)の権限も引き継がれていた為、人的流動性が高まりすぎ、租税公課の高すぎる地域で生産人口が居なくなるような事態も生まれ、こうした利率の引き下げ等の農民救済と生産振興策を地方に施行し監督する事も平安政府の業務となりました(一律130%まで、不作時には減免あり)。

 この政策によって農民の利殖は増えましたが、今度はその農民の中に貧富が生じ、地方から貸し出された種に更に利子をつけて貧困農民に貸し出し、利益を得る人達が増えます。こうした人々がより力をつけ、地侍等の形で地方の徴税業務を助けていった事により、彼らもまた徴税のシステムに組み込まれていくようになります。

 これは富裕層人口の底上げにつながった側面もあるわけですが、より一層の貧困層の貧困化を招く要因ともなり、輸送路における群盗集団の活発化へと繋がり、こうした群盗集団から自衛する為の実力もまた、地侍の主導の元、貧困層によって組織され、貧困層の中で武力に優れた人々もまた平安政府の治安システムの中に組み込まれていく事になります。結果的に、治安と経済の安定の為、極限貧困層はより高い圧力と収奪の中に追い込まれ、淘汰されていく事になります。

 その過程の中、流動人口は減少し(結局どこに行っても同じ的意味で)、地方の分権と(鎌倉時代へ至る国衆意識の醸成と言えばいいでしょうか)中央の統率システムが並行的に確立されていく訳です。

 こうして考えると、平安政府の功績は日本史上の貧困層の凝縮化と土地意識の一般化という点において、政策的なひとつのエポックを生み出したと評価できるのではないでしょうか?

参考

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E4%BA%BA

id:filinion

詳細な説明ありがとうございます。

 

つまるところ、奈良時代の過度の中央集権体制から、地方の豪族への「地方分権」を進めた結果、土地意識の一般化が起こった、というようなことでしょうか?

 

平安政府がそれを意図していたのか、という気はしますが(仮名文字の発明が現代人の利益になっている、というのに近いような気もする)、話としてはわかったように思います。

 

また、結果的に貧富の差の拡大を招いたとはいえ、農民の利益が増すような施策も講じた、ということはわかりました。

 

ありがとうございました。

2009/07/19 14:12:14

その他の回答(8件)

id:yamazakura No.1

yamazakura回答回数68ベストアンサー獲得回数52009/07/18 20:22:43

ポイント25pt

とりあえず、大仏建立と貧窮問答歌は平安ではなく奈良時代ですね。

http://blog.hix05.com/blog/2007/02/post_111.html

ちなみに奈良時代には、光明皇后が病人を救うための「施薬院」というものを作ったという記録があるので、「奈良時代の皇族は庶民にとって役立っていた」というのは言える可能性があります。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%BD%E8%96%AC%E9%99%A2

でも平安時代となると…桓武天皇が庶民の兵役を取りやめていますが、これはもともとマイナスだったのがゼロになっただけなので、役立っているとは言いがたいし、彼も天皇なので貴族ではないです。

id:filinion

>大仏建立と貧窮問答歌は平安ではなく奈良時代

 

 う、貧窮問答歌も。覚え間違えてました。

 ご教示ありがとうございます。これは恥ずかしい……。

 

>光明皇后が病人を救うための「施薬院」というものを作った

 なるほど。

 ……でも、専門の官位があったとはいえ、実際に設置されたのが都に一カ所って、「政策」というより個人のレベルですね……。

 

>桓武天皇が庶民の兵役を取りやめていますが、これはもともとマイナスだったのがゼロになっただけなので、役立っているとは言いがたい

 なるほど。

 

>彼も天皇なので貴族ではない

 ……なるほど、天皇は貴族じゃない。あまり区別しないで質問してしまいました。

 

 ありがとうございました。

2009/07/18 20:59:53
id:IlO10l0Il No.2

IlO10l0Il回答回数1757ベストアンサー獲得回数812009/07/18 20:30:56

ポイント20pt

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%89%E6%99%82%E4%BB%A...

平安時代と言っても歴史が長いので時期によっても違いますが、墾田開発など農民の保護は行われていたようです。


あとは治安ですね。

大規模な戦が行われた記録はありませんが、朝廷が無かったら攻め込まれたら終わりですよね。

民衆による集団強盗行為なども朝廷の軍が取り締まっていたという話もあります。

id:filinion

>墾田開発など農民の保護は行われていた

 

 どっちかというと、墾田開発は農民保護というより朝廷や豪族の収入増大のためという気がするのですが、そうでもないんでしょうか。

 

>あとは治安ですね。

 

 まあ確かに。

 無政府状態よりは抑圧的な政府の方がマシ、という話かも知れませんが……。

 それが庶民のためなのか朝廷のためなのかはわかりませんが、国防・治安維持を行った、というのは確かかも知れません。

2009/07/18 21:11:07
id:pahoo No.3

pahoo回答回数5960ベストアンサー獲得回数6332009/07/18 21:51:42

ポイント30pt

貴族が一定数いたということは、それを支えられる人口があったことを物語っています。

また、直接的に戦を行わない貴族が多かったということは、それだけ治安が良かったとも言えます。


貴族は、歴史的には(まつりごと)を行う一族として発生しました。ご質問にあるように、現在の“政治”家と目的は同じです。

では、当時の行政サービスとして何が行われていたかというと、文字通りの“祭祀”です。

21世紀の科学時代から見ると笑ってしまうかもしれませんが、祭祀こそが医療であり福祉であり公共事業の時代でした。各地の神社は数年~数十年に一度の頻度で立て替えが行われていたわけですが、これなどは現代の公共工事とまったく同じ目的です。

また、「有史以来の日本の人口の変化」で分かるように、平安時代は順調に人口が増えていました。このため、食糧確保のために田畑を開墾する必要がありました。現代が税金で政治家を支えているように、貴族を支えるには、それなりの人口が必要だったわけです。


もっとも、平安時代も時代が下ってくると貨幣経済が発達し、民衆の格差が発生してきます。こうなると、治安を守るための警察機構が必要になってきます。

ここで登場するのが「武士」です。最初は貴族を警護するための存在でしたが、やがて民衆を束ねて政治にも口出しするようになり、鎌倉時代へと時代が移行していきます。

id:filinion

やはり「まつりごと」が仕事の主であった、と。

 

加えて、神社の建て替えが公共事業をなしていた……と。

 

……でもなんか、遷都とか神社の建て替えとかってむしろ庶民の生活を圧迫していたように思いますが、そうでもないんでしょうか。

 

とはいえ、現実に人口が増えていた、ということは、食料がある程度行き渡っていた、ということなのでしょうね。

 

ありがとうございました。

2009/07/19 14:05:55
id:darkwood No.4

darkwood回答回数45ベストアンサー獲得回数62009/07/18 23:41:15

ポイント20pt

 確かに、年表を見ても大半が、貴族の権力闘争関連のみで、一般庶民向けの政策というのは、ひとつも出てこないですね。サッと検索してみた範囲では、

  • 常平所( 常平倉 )

常平倉

Yahoo!辞書 - じょうへいそう【常平倉】

  • 百姓撫民( 貧民救済 )

藤原園人 - Wikipedia

  • 綜芸種智院

綜芸種智院 - Wikipedia

くらいでしょうか、もっとも3番目は多少の援助はしたでしょうが、政策では有りません。[ 常平所 ]も平安時代は余り機能していない印象ですし、[ 百姓撫民 ]は、具体的にどういう政策なのかは不明。

 一応、農民の保護らしき事はしていたようにも見えますが、実態は一種の奴隷制に近い感じにも見えます。事実、飢饉の時は、死体が野ざらしで、何の対策もしていない様子です。武士の時代の方がまだ庶民の事を考えていたように見えますから、後々権力が武士に移行していった理由の一つは、この辺にも有るのかも。

id:filinion

ありがとうございました。

 

全国規模の行政サービス、的なものはあまりない印象ですね。

2009/07/19 14:06:44
id:MS06R3 No.5

MS06R3回答回数3ベストアンサー獲得回数22009/07/19 01:56:28ここでベストアンサー

ポイント35pt

 平安政府の一般庶民に対する功績としては、それまで中央官僚に集約してきた人材をアウトソーシングにした部分ではないかなと思います。

 奈良政権初期~中期では庶民にカーストに類する身分制度を引き、その範囲内で人事権の行使や官僚への特権付与など国内の権益の独占、海外及び周辺地域に対しての外交圧力による利殖を中心としていましたが、末期には海外の独立、国内公有農地の拡大鈍化、それに反した人口の増加(当時は人に対する課税方式を採用していたので、そのほうが儲かると思われていた)、その対策として新規開墾地の私有化を特定条件下で認めたことによって官僚支配の体制を緩めた結果、

 行き過ぎた能力主義から官僚の序列にまで影響が出てしまい、こうした事を教訓に、官僚の長の長たる天皇家の世襲も一新され、苦労人の桓武さんが天皇の地位に就き、平安政府ははじまったわけですが、その序列を正そうと都を頻繁に移してみたり、増えすぎた官僚を粛清しまくったりと色々やったおかげで地方に対する影響力も鈍化し、東方で反乱を起こされたり新都建設の責任者がブッ殺されたりと散々な目にはあうわけです。

 そうした流れの中で、戸籍によって厳格に監視されていた大衆も比較的(とはいえ捉まれば死罪なのですが)簡単に収税の手が及ばないように逃げ出せるようにもなり、「人(身分)に対して収税を行う」という事が難しくなったと言う点、かわって、土地に対する収税意識が中央に芽生えた結果、

 土地の所有者に対する規制が強まると同時に彼らに一定の権力が認められるようになり、その権力保持の為の各種セキュリティサービスが中央から行われる主要な業務となり、その結果、人々は直接税からは解放されると言う「恩恵」(現在と比べると恩恵と言うほどのものではないかもしれませんが)を受けました。

 これによって各地域への人の往来規制はそれまでと比べて緩和され、地域の生産物の輸送体系が組織の接着剤としての機能を果たし、中央の人達は徴税業務(地域の支配者を守るという義務は増しましたが^^)から解放され、地方担当者の権限拡大によって地域の生産性の向上へと繋がり、その成果として財務も潤っていくわけですが、

 奈良時代の弊害として地域の農民に対する種の貸し出し利率(税込みで貸し出し年利150%以上)の権限も引き継がれていた為、人的流動性が高まりすぎ、租税公課の高すぎる地域で生産人口が居なくなるような事態も生まれ、こうした利率の引き下げ等の農民救済と生産振興策を地方に施行し監督する事も平安政府の業務となりました(一律130%まで、不作時には減免あり)。

 この政策によって農民の利殖は増えましたが、今度はその農民の中に貧富が生じ、地方から貸し出された種に更に利子をつけて貧困農民に貸し出し、利益を得る人達が増えます。こうした人々がより力をつけ、地侍等の形で地方の徴税業務を助けていった事により、彼らもまた徴税のシステムに組み込まれていくようになります。

 これは富裕層人口の底上げにつながった側面もあるわけですが、より一層の貧困層の貧困化を招く要因ともなり、輸送路における群盗集団の活発化へと繋がり、こうした群盗集団から自衛する為の実力もまた、地侍の主導の元、貧困層によって組織され、貧困層の中で武力に優れた人々もまた平安政府の治安システムの中に組み込まれていく事になります。結果的に、治安と経済の安定の為、極限貧困層はより高い圧力と収奪の中に追い込まれ、淘汰されていく事になります。

 その過程の中、流動人口は減少し(結局どこに行っても同じ的意味で)、地方の分権と(鎌倉時代へ至る国衆意識の醸成と言えばいいでしょうか)中央の統率システムが並行的に確立されていく訳です。

 こうして考えると、平安政府の功績は日本史上の貧困層の凝縮化と土地意識の一般化という点において、政策的なひとつのエポックを生み出したと評価できるのではないでしょうか?

参考

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E4%BA%BA

id:filinion

詳細な説明ありがとうございます。

 

つまるところ、奈良時代の過度の中央集権体制から、地方の豪族への「地方分権」を進めた結果、土地意識の一般化が起こった、というようなことでしょうか?

 

平安政府がそれを意図していたのか、という気はしますが(仮名文字の発明が現代人の利益になっている、というのに近いような気もする)、話としてはわかったように思います。

 

また、結果的に貧富の差の拡大を招いたとはいえ、農民の利益が増すような施策も講じた、ということはわかりました。

 

ありがとうございました。

2009/07/19 14:12:14
id:rsc96074 No.6

rsc回答回数4392ベストアンサー獲得回数4022009/07/19 06:16:22

ポイント10pt

>政府とは、国民から徴税を行い、代わりに公共サービスを提供するものだと思います。

 こういう考え方は、現代的な考え方であって、平安時代にはなかったと思います。というのは、日本国憲法で日本の主権者が国民であるということになっているから、そういう考え方でなければならないのであって、平安時代はそうではありませんでした。だから、庶民は平安貴族の役に立たなければならないのかも知れませんが、平安貴族は庶民の役に立たなくてもいいのです。

 図らずも、役に立ってしまった例といれば、やはり、治安でしょうか。あと、庶民も歌を詠んでいたので歌のお手本とかになったかも知れません。

●縁結び祈願 京都地主神社

>梁塵秘抄は、庶民の声がそのまま詠まれているいわゆる“生の声”を集めた歌集でした。

http://www.jishujinja.or.jp/kigan/en_yo01.html

●第四話 平安時代

http://www.t3.rim.or.jp/~miukun/japan4.htm

id:filinion

>こういう考え方は、現代的な考え方であって、平安時代にはなかったと思います。

 

 それはまあそうかも知れませんね。

 

>日本国憲法で日本の主権者が国民であるということになっているから、そういう考え方でなければならないのであって、平安時代はそうではありませんでした。

 

 そうでしょうか?

 では、日本国憲法制定以前の我が国においては、行政サービス様のものは何も存在しなかったのでしょうか?

 日本国憲法においてそのような思想が打ち出された背景には、それが必要だ、という思想がそれに選考して存在したはずでは?

 

 たとえば(ずいぶん時代は下りますが)、「ノブレス・オブリージュ」という言葉もあるとおり、西欧では貴族は平民に対して一定の責務を負うものと考えられ、戦争の時には先頭に立って戦うことを当然視されていました。

 このように、地域によっては(やや偽善的ではありますが)「貴族の義務」という発想が古くからあったにもかかわらず、日本の平安貴族はいったい何をやっていたいのか、という疑問があるわけです。

2009/07/19 14:17:45
id:Hafiz No.7

Hafiz回答回数283ベストアンサー獲得回数92009/07/20 11:55:10

少し見方が、現代的過ぎる!!!!!!

元々、支配者階級が被支配者階級の為に存在する訳ナイ!!!!!!!!!!!!


現代のように、

「天は人の上に人を造らず。

人の下に人を造らず。」

という思想が一般化して来たのは、西欧民主主義国家と言えど、フランス革命以降ココ100年とチョットの話。


更に社会民主主義的観点が加わったのは、マルクスの「資本論」が出て以後。


ソレ以前は、政府が国民の為に何かヤッタと言っても、ソレは、

「してヤッタ。施してヤッタ」

という意識から抜け出てイナイ事は、言うまでもナイ!!!!!!


近代国民国家ですらコウイウ事なのだから、古代の律令国家の日本に庶民の為の政治を求められてもネェ。


コノ質問に何か意味がアルとすれば、所属衆院議員の半数以上が世襲議員で占められてしまった、似非貴族集団と化してしまった現代の自民党が、古代の日本的と言える意識と通じてるコトを想い起こさせる事か!!!???

http://nhk.or.jp

id:filinion

 コメント欄でも書いてることですが、

「現に役に立っていたか」

 を問うているのであって、

「近代以前にそのような思想はなかった」

 とかいう思想史の話をされても困ります。

 

 ……まあ、Hafizさんの過去の文章を見る限り、他人の文章なんか読んでないんでしょうけど。

2009/07/20 13:19:42
id:takokuro No.8

takokuro回答回数262ベストアンサー獲得回数32009/07/20 12:15:28

社会の先生がおっしゃてらしたことで印象的だったことは・・

室町までの武士の刀は実用的で太刀だけれど

平安になると

カッコだけアクセサリ-に重点が置かれたそうです

そもそも、朝廷に

政治のシンクタンクや智恵があり、

南北朝で荒れるので

武士が行司をとったり、時として

片方に味方したり・・

したのではないでしょうか??

ご褒美の所領も

国土の持ち主は朝廷という前提で

配分する時には

朝廷の許しがあって

初めてそれは公式に認められるなど・・

北条氏(唐マッカツ勢力??)らの思惑で

尊氏がそれを無視して

渡したものだから

後醍醐帝も立ち上がらずを得なくなった・・??

マッカツ系が

日本を一挙に朝廷もろとも占拠してしまおうと行ったのが

楠木正成ら渡来系武鑑を使って

元寇の乱を

後漢の実権をみぎってるマッカツらが

元に元寇を命じた・・

が・・

亀山帝か後醍醐帝だかが

伊勢神宮通じて、

本来の漢の武将洪氏を

元の傭兵にさせ、

神風が吹いたとして

上手く,納めた・・・??

北畠アキ家親子も新田義貞も

楠と尊氏の芝居に

翻弄される・・

しかし・・・

マッカツの一族って・・

代々、一体何の目的があって

他国の侵略に命を燃やしてきてるんだろう・・??

倭民族としては・・

これが本当に不可思議・・

アホくさくないのだおうか・・??

しかも、明らかに自分たちの行いが

地球や宇宙の寿命や健康を殺いでるのはあきらかでしょうに・・??

そういう、根源的なことやトータルは気にならないのだろうか??

そんなボスの下に準じることの不毛さを考えないのかなぁ・・??

自分が嫌にならないのかなぁ・・??

http://www.dummy

id:filinion

なんか、電波強度が増してきたのを感じる今日この頃。

 

>室町までの武士の刀は実用的で太刀だけれど

>平安になると

>カッコだけアクセサリ-に重点が置かれたそうです

 

 奈良と平安をごっちゃにしてる私が言うのもなんですが、室町時代は平安時代の後です。500年くらい。

 いろいろ不思議がる前に、ご自分の歴史知識を疑ってみるのも一案かと存じます。

2009/07/20 13:23:35
id:marukomekid No.9

にこたま/マルコメ回答回数37ベストアンサー獲得回数22009/07/22 00:05:25

ポイント10pt

http://homepage1.nifty.com/keimurata/mm/jhtop.htm

上の古代編あたり見てください。

奈良時代であろうと平安時代であろうと扱いは基本的にかわりません。

というのは、今では考えられない格差と差別があるため、人を人と思わないと考える貴族もいたでしょう。

  

公共事業は鎮護国家など、あくまで国のために事業です。

ただ、民衆が疲弊しきっては労働力が足りないのはわかっています。

なので、労働力を食糧と賃金で買っていた、というよりは貴族の慈悲によって民を救うことを考えていたとも考えられます。

なので、公共事業で食糧や賃金を与えられていたというのを庶民にとって役に立ったと読めばそうであるし、読めなければ役に立ったものはほとんどないと考えられます。

稚拙な文ですみません

id:filinion

>上の古代編あたり見てください。

 

 ざっと目は通しましたが、量が多いので、特にどのあたりを指していらっしゃるのか……。

 

>労働力を食糧と賃金で買っていた、というよりは貴族の慈悲によって民を救うことを考えていたとも考えられます。

 

 寺社の建立については触れられていませんでしたが、都の造営については民の大きな負担であった(ゆえに桓武天皇が中断した)とありますね……。

 

 「庸」は賃金を支払ってまかなっていたわけではなく、労働それ自体が税金であったわけですから、まあ負担そのものであったろうと思いますが。

 

>公共事業で食糧や賃金を与えられていたというのを庶民にとって役に立ったと読めばそうであるし、読めなければ役に立ったものはほとんどないと考えられます。

 

 ううむううむ、marukomekidさんは、お示しになった資料のどのあたりを「公共事業で食糧や賃金を与えられていた」と読まれたのでしょうか……?

2009/07/23 22:47:10
  • id:mododemonandato
    ③が正解。テストの時は③で答えよう。
  • id:pahoo
    > 遷都とか神社の建て替えとかってむしろ庶民の生活を圧迫していたように

    現代のサラリーマンは年中仕事があり毎月収入が入ってくるのでこういう印象を受けるかもしれませんが、農業という一次産業が基本であった当時は、農繁期と農閑期がありました。そして貨幣が流通する一方でそれを蓄える手段がない状況では、農閑期や不作の時には生活が不安定になりがちでした。
    そこで、余裕のある時、余裕のある所から税を徴収し、こうした時期に宮中や神社の立て替えを行うことで、庶民の衣食住を補償したという一面もありました。すでに、現代の税金と同じ機能を果たしていたと考えられています。
  • id:darkwood
     うろ覚えで申し訳ないのですが、[ ノブレス・オブリージュ ]は考え方自体は古くから有るようですが、比較的実践されるようになったのは近代になってからで、それ以前は時代に依っては実践された時も有るようですが、実態は有名無実化していたような... 。
     wikiでも明確なのは第一次世界大戦以降で、それ以前についてはハッキリしていなようですし。
  • id:filinion
    >pahooさん
     
     なるほど。
     なんか平安遷都とか、地方の農民も駆り出してやってたイメージがあったので……。
     認識を改めます。
     
    >darkwoodさん
    >[ ノブレス・オブリージュ ]は考え方自体は古くから有るようですが、比較的実践されるようになったのは近代になってから
      
     私自身「ずいぶん時代は下りますが」と書いたわけですが……。
     平安貴族にはそもそも「ノブレス・オブリージュ」的な考え方すらなかったんじゃね? という気がしたので。
     まあ、質問の主眼は、貴族個々人のあり方より、「平安政府」のあり方についてなのですが。
     
    >rsc96074さん
     
     あー……。
     
    ・日本国憲法は全くの押しつけであったか
    ・仮に押しつけであったとしても、成文法に先行する思想は海外にはあったのではないか(キリスト教……ですか?じゃあ仏教は?)。「成文法がないから思想もなかった」という説明は正しいのか
    ・日本国憲法以前(たとえば江戸時代や明治憲法期)には、「民の生活を安んじる」といった発想は日本には全くなかったのか
    ・君臣・長幼の序を重んじる儒教道徳と「徳治」「仁政」といったものは相容れないのか
     
     とか、いろいろ言いたいことはあるのですが、いずれもおそろしく面倒な議論になりそうですね……。
     
     というか、私が質問したのは
    「平安時代の“政府”は庶民の役に立っていたかどうか」
     という点なのであって、役立つべきだという思想があったかどうかは主要な論点ではないのです。
     なので、そちらを中心に書いていただければ幸いです。
  • id:Hafiz
    は、は、は!!!!!!!!!!!!

    一番肝腎な質問の論点を、本文に書かないで、コメント欄に書いてますナンテ言われてもナァ、ハ、ハ、ハ!!!!!!!!!!!!
  • id:filinion
    ……いや、本文の最後に書いてるわけですが。
    「こういう点で平安政府は庶民にとって役立っていた」ということがありましたらご教示ください。」
     って。
     
     まあ、読んでないわけですね。
  • id:darkwood
    >> [ ノブレス・オブリージュ ]は考え方自体は古くから有るようですが、
    >> 比較的実践されるようになったのは近代になってから
      
    > 私自身「ずいぶん時代は下りますが」と書いたわけですが……。
    > 平安貴族にはそもそも「ノブレス・オブリージュ」的な考え方すら
    > なかったんじゃね? という気がしたので

     すみません、確かに[ (ずいぶん時代は下りますが) ]と有りますね。ただ、近代西洋と古代日本とをそのまま比較しているような印象が有ったので、西洋だって昔は... と思ったものですから。
  • id:goldwell
    他の方が指摘されているように前提として政治の手段・目的やら公共サービスに対する考え方の現代の違いがあるにはあります。
    でも貴族と天皇家が主役、次いで武士が時たまに出てくるくらいの平安時代において、国としての政策が一般の人々にはどういう影響を与えていたかを考えるととてもユニークな質問だと思います。

    平安貴族が行った一連の結果で、より下級階層の民にどのような影響を与えたのか広い意味でまとめて回答しようかと思いましたが、5番目のMS06R3さんと同様の趣旨になりそうなのでやめました。

    欧州では政治・軍事を担当するのは長らく貴族階級(その伝統ゆえに「ノブレス・オブリージュ」という考え方が醸成されたのかも)のようでしたし、平民は主に農業・商業・工業を担当。もし平民の出で能力優れた人物が名を知らしめようとするならば宗教か学業しか無かったと思います。日露戦争のあたりまでロシアは将官だけでなく士官までも貴族出身で、一般市民では下士官までしか出世できないのが普通でした。

    それが日本では平安時代を経て結果的に貴族は文化的・祭礼的な行事全般を司り、あとは権威として影響を及ぼす程度にとどまったおかげで、在地領主クラスだけでなく運と能力次第で一般庶民出身でも比較的政治・軍事を担える機会が増えました。まぁ出自という階級自体は長らく残ったものの、独自の文化を作ったという意味で面白い時代ですね。
  • id:MS06R3
     いるか賞、ありがとうございました^^ 知を磨くよい質問だと思いました。

     仏さんへのお供え物の風習、というか寺社仏閣への寄進というのは飛鳥時代からあったようですが、それまでは祭事を神の地上代行者とされる皇族とその親族が紀元前から行っていた神事への貢物であって、税という側面以外に、恵みに対する報恩と次の恵みへの加護を祈願するという側面がありました。

     彼らは最も太陽が低くなる冬至の時期に彼らが太陽の再生を祈祷する事で再び日が高く登るといった加護をもたらすと信じられていたわけです(今でもこの神事は欠かさず行われてます)。アニミズムの象徴的存在としての太陽信仰は古代エジプト・ギリシャ・マヤ・アステカ等をはじめ、南太平洋~アマゾン先住民にも散見できますが、こうした中のひとつに日本の神道も含まれていると言ってよいでしょう。

     庶民(というか皇室以外の人達)はこの天恵を受けて育ち生きていくワケで、四季の移ろいが殊更しっかりしているわが国では、お天道さんが登らず寒い冬が延々と続けばどんな人間も飢えて死んでしまい国は滅んでしまうと言う事を自己の経験の中でよく理解しており、それ以上に自然を司る神様(天照さん他)がとても気まぐれだと言う事をもまた十分知っていたと言う訳です。

     こうした「神様のご機嫌取りを失う事」は=「国を大切にしない不届きな罰当たり」と言う感じで「誰の損にもならない」上に「大義を持てる」という意味で権威の骨格を太くし、庶民の能力主義を高め、その底支えによって、官職の地位をより強力に担保する力となっていったわけです。

     これは有史以来続く社稷の象徴として培われてきた事による皇室の権威であり、田んぼの案山子のようなその無形の加護を受けると同時に自己の権威を固めるという意識を民衆に与え続けたという点で、その加護を信じて誰もがまず自分の為に働く=自分の周りの利益にも貢献する=結果として国も豊かになるという小さな意欲から大きな生産性を喚起する、非常に合理的で安心感を与える「精神的な権威」であったとはいえると思います。

     この権威から民衆が自立していくのは今回のご質問以降の時代になっていくわけですが、この辺はまたの講釈でということで^^

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