「世界のミフネ」でおなじみ、俳優・三船敏郎さんにまつわる伝説(武勇伝・逸話)を教えてください!!

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  • 登録:2009/08/05 21:27:10
  • 終了:2009/08/12 21:30:02

回答(4件)

id:kinnoji7 No.1

kinnoji7回答回数3060ベストアンサー獲得回数752009/08/05 21:30:32

ポイント23pt

国際スター、三船敏郎は皮肉にも役者志望ではなかった。

復員兵の彼は軍隊時代の知人を頼って、東宝の撮影部に職を求めた。

(家業の関係で写真撮影の知識、技術を持っていた。)

ところがひょんないきさつから、同社のオーディションを受けることに。

自発的でないので、受けさせられたと言った方が正確だ。

本意でないだけに真剣に臨まなかった。当然不合格だった。

普通ならそこで終わっていた。だが三船は普通ではなかった。

会場に居合わせた女優の高峰秀子は、男の存在感に胸騒ぎを感じていた。

不真面目だがすごいものを感じる。でもこのままでは落ちてしまう。

彼女は撮影中で審査に参加できなかった黒沢明に、男のことを知らせた。

駆けつけた黒沢もまた男を見て、ただならぬ気配を感じた。

審査委員長だった山本嘉次郎監督(黒沢の師匠)も同じだった。

結局黒沢の再検討の提案と、山本監督の裁断で採否は覆った。

形式的には補欠採用、実質的には金の卵の確保だった。

しかしまだ三船の真価を見抜いた訳ではない。

当時同社は役者が足りなかったので、三船は悪役で早々とデビューした。

デビュー作の監督は黒沢ではなかったが、脚本と編集を担当していた。

編集しながら映像となった三船を見て、いよいよ本物だと感じた。

その後の自作「酔いどれ天使」で主役級に抜擢する。

世界の映画史に残る黄金コンビの誕生である。

三船は本来俳優になるはずのない男だった。

求職していたら、望みもしない仕事を勧められた。

無職の身であり、成り行きでとりあえず引き受けたと想像できる。

黒沢との出合いは、幾重もの偶然の積み重ねによってもたらされた。

何げない偶然の一つ一つが、不思議に三船を黒沢に引き寄せた。

一つでも欠けたら国際スターの誕生はなかった。

巨匠が最も必要としていた素材を、神が引き合わせたと感じさせる。

http://www.ne.jp/asahi/sun/wind/zat21/zat114.html

id:lancer13 No.2

lancer13回答回数2934ベストアンサー獲得回数682009/08/05 21:31:41

ポイント23pt

こちらに同じような質問があります。

http://q.hatena.ne.jp/1169553251

id:afurokun No.3

afurokun回答回数4647ベストアンサー獲得回数992009/08/05 21:33:22

ポイント22pt

俳優、三船敏郎。1920年、中国の三東省青島に生まれる。大連へ移り住んだ後、写真業を営む父・徳造の手伝いを大連中学を卒業後にするようになる。1940年に満州陸軍航空隊に入隊し、写真業の手伝いをしていた腕を見込まれて写真部へ配属となる。そしてこの時、東宝の撮影部の大山年治と知り合う。

 終戦を熊本で迎えた三船は、軍隊で知り合った大山が「除隊後は俺の所へ訪ねてこい」と言った言葉通り、東宝撮影所へと赴き、履歴書を提出する。そしてこの履歴書が、どうしたわけか東宝の第1回ニューフェース募集の方へと回され、俳優として入社することになるのである。

 この時の面接は既に伝説化している。なにより、ニューフェースに申し込んだのは三船自身の意志ではないということ。そして、当落すれすれの三船を救ったのが黒澤明監督だということである。

 実際には、黒澤監督の師匠にあたる山本嘉次郎監督が審査委員長を務めており、最終的に山本監督の「自分が責任を持つ」との言葉で採用が決まったらしいのである。

 しかしその前に『わが青春に悔なし』撮影中のため審査委員になれなかった黒澤監督が「すごいのがいる」と女優の高峰秀子に呼ばれ面接会場を覗いてみると、「笑ってみて」と言われて「可笑しくもないのに笑えません」などと言ったりして強烈な個性を発揮している三船がいる。その姿を一目見て関心を持った黒澤監督がこんどは審査委員室に行くと、同じように三船に関心を持った山本監督の説得むなしく投票によって三船は不合格となってしまっていた。

 黒澤監督はこの時、「専門家(監督)の1票は素人の3票、5票にも値する」と投票のやり直しを進言。これを受ける形で先ほどの山本監督の言葉もあり、三船の採用が決まったのである。つまり、この時の黒澤監督の一言がなければ俳優・三船敏郎は誕生していなかったもしれないのである。

 しかしながら、黒澤監督は自伝「蝦蟇の油」でこのことを否定している。三船という素材を発見したのは山本嘉次郎監督で、その素材から俳優・三船を引き出したのは、三船のデビュー作、二作目を監督した谷口千吉監督と山本監督であるというのである。もちろん監督本人のご謙遜であろうが、この後から黒澤監督とのコンビが始まっていくことを考えれば、審査委員会での進言と併せて、黒澤監督が俳優・三船の誕生のきっかけを作り、その才能を開花させたということに異論はないであろう。

 一方で、あまり知られてはいないことだが、実はこの時黒澤監督以外にも、東宝の撮影部が俳優・三船の誕生に大きく寄与していたというのである。

 阿部嘉典著「映画を愛した二人/黒澤明・三船敏郎」(報知新聞社)によれば、元東宝の山田一夫キャメラマンの証言として、撮影部に履歴書を出した三船を体格もいいので、是非撮影部でも欲しいと思ったらしいのだが、東宝争議のあおりで東宝撮影所自体が組合管理下にあり、欠員が出ないと三船を採用するわけにはいかない。そこで山本嘉次郎監督に頼んで、撮影部に欠員が出たら引き取ると言う条件でニューフェースの試験を受けさせたというのである。

 後は既に書いたエピソードの通りに話が進み、結局三船は俳優として東宝へ入社することになったのである。

 それからまもなくして、三船敏郎が谷口千吉監督作品の『銀嶺の果て』で比較的早いデビューができたのも、ニューフェースに履歴書がまわり合格したのと同様に、それを偶然と呼んでいいものか、あるいは運命と呼ぶべきものだったのか。

 当時、東宝争議によって多くのスターが後の新東宝へと移ってしまい、東宝は主役級の配役に新人を起用せざるを得ない状況にあった。これが三船にとってはチャンスであった。アプレゲール(戦後世代)のギャングの役を探していた谷口監督の目にとまったのである。

 そしてさらに運命的なことには、この作品の脚本と編集を担当していたのが誰あろう黒澤明監督であった。できあがったフィルムを編集しながらギラギラした若さむき出しの三船を大変気に入った黒澤監督は次回作『酔いどれ天使』で三船をヤクザ役に起用することにしたのである。

 そして三船はデビュー2作目となる山本嘉次郎監督作品の『新馬鹿時代』を経て遂に黒澤監督との仕事を迎えた。

 ここに世界映画史に燦然と輝く「黒澤・三船」の黄金コンビが誕生したのである。

http://www.asahi-net.or.jp/~ZC2T-OGW/MKHome/AKHome/mihune/mihune...

id:saToshi No.4

saToshi回答回数54ベストアンサー獲得回数02009/08/05 21:46:11

ポイント22pt

浮気して子供作って、浮気相手に捨てられて、奥さんのところに戻ったら奥さん死んじゃって、2回もベネチア映画祭で男優賞もらった人なのだ。 ...

http://takeshi.tone21.net/mifune.html

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